子供の時から 草むらをみるたびに とりとめのないことを想像したものだった。
自分がもしもテントウムシだったとしたら、ぼうぼうと生えた雑草の中にいると 右も左もわからなくなるのではないだろうか。いや、テントウムシならまだいい。もしもバクテリアのような小ささの生物だったとしたら なおさら。
人間の目から見たらただの雑草が生えた草むらでも バクテリアのようなサイズの生き物だったら その草むらは ジャングルや樹海のような存在ではないだろうか。
…とまあ そんなとりとめのない思いだった。
そう考えると、ちっぽけな草むらは、大きな妄想を私に与えてくれたものだった。
自分のサイズ次第で、自分をとりまく環境は大海にもなれば、水たまりにもなる。
宇宙にもなれば、小部屋にもなる。
もしもバクテリアのような大きさになって、草むらの中に放り出されたら、どうなるか。
場所がわからなくて、迷子になりっぱなしになるかもしれない。
大きな虫に食われてしまうかもしれない。
更に虫よりも大きな人間に踏みつぶされてしまうかもしれない。
まさに、生きるということが命がけの弱肉強食の世界。
そう考えると、人間にとっては取るに足らない草むらも、小さな生物にとっては冒険の場であり、危険地帯であり、国なのかもしれない。
これをつきつめていくと、それは極大の世界にも言えるわけで。
人間にとってはとてつもなく広い宇宙も、人間の想像を絶するような大きさの視点から見れば、宇宙もまた小さいものなのかもしれない。
そういうことを考えるとキリがないのではあるが、どれくらいのサイズの視点でものや環境を見るかということは、時には何かの解決法にもつながるだろうし、答えの出ない思いの着地点にもなるかもしれない。
単なる「草むら」を見て そこまで思いを膨らませてしまうのもナンだが(笑)。
とりあえず、極小サイズになったら、巨大な人間にも踏みつぶされず、カマキリなどの危険生物にも食べられない、そんな頑丈な乗り物にでも乗らないと、おいそれとは探検できないかもしれない。
ちなみに、写真は、会社の敷地内にある草むらを超ローアングルでアップで撮ったもの。
こういう角度で見ると、普段簡単に誰かが足で踏みつけている草むらが、全然違う場所に見えてくる。
昆虫には、こういうアングルで草むらが見えているのだろう。
自分がもしもテントウムシだったとしたら、ぼうぼうと生えた雑草の中にいると 右も左もわからなくなるのではないだろうか。いや、テントウムシならまだいい。もしもバクテリアのような小ささの生物だったとしたら なおさら。
人間の目から見たらただの雑草が生えた草むらでも バクテリアのようなサイズの生き物だったら その草むらは ジャングルや樹海のような存在ではないだろうか。
…とまあ そんなとりとめのない思いだった。
そう考えると、ちっぽけな草むらは、大きな妄想を私に与えてくれたものだった。
自分のサイズ次第で、自分をとりまく環境は大海にもなれば、水たまりにもなる。
宇宙にもなれば、小部屋にもなる。
もしもバクテリアのような大きさになって、草むらの中に放り出されたら、どうなるか。
場所がわからなくて、迷子になりっぱなしになるかもしれない。
大きな虫に食われてしまうかもしれない。
更に虫よりも大きな人間に踏みつぶされてしまうかもしれない。
まさに、生きるということが命がけの弱肉強食の世界。
そう考えると、人間にとっては取るに足らない草むらも、小さな生物にとっては冒険の場であり、危険地帯であり、国なのかもしれない。
これをつきつめていくと、それは極大の世界にも言えるわけで。
人間にとってはとてつもなく広い宇宙も、人間の想像を絶するような大きさの視点から見れば、宇宙もまた小さいものなのかもしれない。
そういうことを考えるとキリがないのではあるが、どれくらいのサイズの視点でものや環境を見るかということは、時には何かの解決法にもつながるだろうし、答えの出ない思いの着地点にもなるかもしれない。
単なる「草むら」を見て そこまで思いを膨らませてしまうのもナンだが(笑)。
とりあえず、極小サイズになったら、巨大な人間にも踏みつぶされず、カマキリなどの危険生物にも食べられない、そんな頑丈な乗り物にでも乗らないと、おいそれとは探検できないかもしれない。
ちなみに、写真は、会社の敷地内にある草むらを超ローアングルでアップで撮ったもの。
こういう角度で見ると、普段簡単に誰かが足で踏みつけている草むらが、全然違う場所に見えてくる。
昆虫には、こういうアングルで草むらが見えているのだろう。