時間の外  ~since 2006~

気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

解体される学校が車窓から見えた

2020年06月11日 | 自主制作アルバム

 

通勤電車の途中では、いくつかの学校が見える。

線路のすぐ近くにある学校もあれば、線路からやや離れた高台にある学校もある、

先日、いつものように通勤電車に乗り、見るとはなしに窓の外の景色を見ていたら、線路のすぐ近くにある学校のうちの1校が解体されている最中の光景が見えた。

 

その数日前には普通に存在していた学校だったのに、その日はいきなりすでに校舎の一部の壁がなくなり、中の教室が剥きだしになっており、さらに床も崩れかけていた。

校庭だったはずの場所には、解体のための重機が並んでいた。今後ますます解体が進んでいくのだろう。

 

学校が解体されるということは、そこに通っていた生徒たちは、別の学校に移されているのだろう。

その作業は一朝一夕にできる作業ではないはずだ。けっこう前からその準備は進められていたはずだ。

ということは、少なくてもしばらくの間は、その学校は廃校になっていたのではないか。

だが、その学校がすでに廃校になっていたのか、あるいは現役だったのかは、通勤電車の車窓から学校の外観を眺めるだけではわからなかった。

 

ただただ単に、学校の建物が健在であれば、その学校は現役のものだと思っていた。

 

そうしたら・・取り壊しが始まっていて・・。

 

 

この光景を見て、私は自分の母校がなくなってしまった時のことを思い出した。

中学校であった。

取り壊されることが決まり、生徒たちは別の学校に移され、その後数年間は母校は廃校のまま存在し続けた。

やがて解体の具体的な日取りが決まり、解体直前に母校に「最後のお別れ」ができる機会が設けられた。

運よくその情報を耳にした私は、その「最後のお別れ会」に参加した。

解体される前に、その会に集まった卒業生たちは、解体直前の母校に入り、校内の見学ができる・・・という会であった。

集まった卒業生たちは何人ぐらいいただろう。

せいぜい数十人くらいだったと思う。

 

運よく、その「お別れ会」が開かれることを知った人は少なかったのかもしれない。

私とて、たまたまその情報を知っただけだったから。

 

すでに長らく廃校になっていたであろう母校は、壁がすでに崩れてたり、天井が落ちている部分があったり、階段の手すりが折れ曲がっていたり、落ちたりしていた。

教室の中には、外から侵入した木が伸び、部屋を木が覆っている場所もあった。

校庭は雑草で覆われていた。

卒業以後、初めて入る母校であった。

卒業してン十年もの月日がたっていたが、学校の中は、私が通っていた頃とほとんど変わってなかったので、見学しててともかく懐かしい気持ちでいっぱいだった。

ただ、校内が朽ちている光景は、悲しくしょうがなかった覚えがある。

 

卒業して年月がたっていけば、学校のことをしょっちゅう思い出すわけではない。

むしろ、普段は忘れていたりする。

なんかのきっかけで思い出すことがたまにあるぐらいだ。

ただ、忘れていられるのは、その学校が健在であるという要素はけっこう大きい。

だが取り壊されてなくなってしまってからは、かえってその母校のことを思い出すことが多くなった気はしている。

 

 

で、話を最初に戻すが、私の乗る通勤電車の車窓から見える、現在解体中の学校。

学校名は良く知らない。まあ、調べればわかるのだろうけれど。

その学校にもたくさんの卒業生がいたはず。

 

その卒業生たちは、今その学校が取り壊されている最中であることを、どれぐらいの人たちが知っているのだろう。

 

もし、知らない人が多いなら、卒業生同士のネットワークでもあれば、伝えてあげてほしい気はする。

解体されてる最中の光景というのは、命で例えれば埋葬中のようなものだと思うし。

まあ、知ったところで、人それにはそれぞれの人生があるし、住んでる場所も違うし、おかれた状況も違うはずなので、おいそれと見にこれるとは限らないだろう。

また、見にこれそうであっても、そんな悲しい光景は見たくないから来ない・・という人もいるだろう。

ただ、今解体されているということを知ってるのと知らないのでは、後になって違う気分になるだろうと思う。

少なくても、「知らない間に壊されていた」という状況よりは。

 

 

私は、自分の母校がいつ頃から解体され始めたかは、「見学会」に参加した時に、ある程度知ることができた。

なので、解体最中の光景も、見ようと思えばできた。

でも・・・色んな用事もあったのだが、それ以上に「壊されていくのを見るのが辛い」という気持ちもあったので、見には・・行かなかった。

 

 

だが・・・その後私は取り壊された母校への想いがつのり、「母校が消えた日」という自作曲を作ることにつながった。

そして、その自作曲の音源は映像つきでユーチューブであげてもらった。

ユーチューブなので、映像も入れてもらえた。

その映像の中には・・・出来ればクライマックスのあたりで、解体されていく最中の母校の光景の写真も・・・何点も入れたかった。

 

かろうじて、母校の近くに住んでた同窓生が解体最中の写真を1枚持っていたので、その1枚だけは映像に組み込むことができたが・・。曲のラスト近くの場所に。

 

今となっては、やはり解体されている最中に私は見に行っておけばよかったと思っている。

そして、解体途中の写真を何枚も撮っておきたかった。

そうしてたら、「母校が消えた日」のユーチューブ映像の中に、解体途中の校舎の様子を、もっと何点も混ぜ込めたのに。

 

今解体されてる学校の卒業生には、とりあえず「今、解体されてる最中だよ」という情報が何らかの形で伝わってほしい気はしている。

通勤電車でその学校の前を通るたびに、だんだん解体が進んでいくのがわかる。

今日よりも明日、明日よりも明後日は、原型をますますとどめない姿になっていくのであろう。

きっと、私の母校が解体された時も、同じような光景だったのだろうな・・・と思うと、どうも気になってしまっている自分がいる。

 

 

今後母校が取り壊されそうな人や、現在母校が取り壊されてる最中の人や、すでに取り壊されて母校がなくなってしまった人に、改めてここに私の自作曲「母校が消えた日」を紹介しておきたい。

もしかしたら、この曲を作ってしまった時の私の心情を、何人かはわかってくれる人もいるかもしれない・・・そんな淡い思いを胸に。

昭和、平成、令和の時代の違いはあっても、母校がなくなることへの思いは、共通するものが少しはあるのではないか・・・とも思って。

私の自主制作アルバム「空を見ていた。」に収録してある自作曲。

 

「母校が消えた日」 

ユーチューブで映像付きで音源が聴けます。こちら↓

https://www.youtube.com/watch?v=Yh3N-4jKeJc

 

 

良い機会なので、たまには自主制作アルバムのジャケットも紹介しておきます(笑)。

自分で作っておきながら、最近はこのブログであまり触れることがなくなってきてるので・・。

こちら ↓

 

 

 

 


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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (だんぞう)
2020-06-14 18:36:11
普段案外気づきにくいかもですが、母校が健在なのは、幸せなことなのかもしれません。
でも、それを実感したのは、母校が取り壊されてからでした


私のアルバムに無常感を?
色んな感想を持ってもらえるのは、嬉しいです。
ありがとうございます。

ピアノ独奏は少しイメージしたことはありましたが、オルガン独奏はイメージしたことはなかったです。
面白そうですね。
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Unknown (鮎川愛)
2020-06-14 14:55:40
私が卒業した学校は、小学校から大学まで、全て健在です。

しかし、これが当たり前と思うようでは、「私は、軽薄で浮気な人間です」と名乗っている事と同じですね。

「人と世は無常」と心得て、自分に強く、他者に優しくならないと。

今改めて、アルバム聴きますと、全体的に無常観を見出だしました。


「母校」以外でも。


又、「母校」は、オルガン独奏バージョンがあっても好いですね。
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Unknown (だんぞう)
2020-06-13 09:02:51
山田耕筰と北原白秋、大物の組み合わせですね。
スゴイメンバー。

山田耕筰といえば、赤とんぼの作曲だけでも不滅の作曲家ですね。
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Unknown (捨丸)
2020-06-12 21:01:36
まあ色々と事件もあり、おかしな人間もいますからね。児童と教師、そして学校関係者以外は極力校内に入れたくないのでしょうね。
何かあれば責任を問われるのは学校側ですからね、そして、そのバッシングは昭和時代の比ではないでしょうし・・・
その割に、そこの卒業生が夜中に校舎のガラス割ったりする事件が毎年のように起きてるみたいですが(笑)

母校の校歌なのですが、懐かしくてちょいとググってみました。
すると作曲は山田耕筰さん!でした。
北原白秋作詞・山田耕筰作曲
こんなビッグネームお二人が作った校歌だったなんて、今更ながら感動してしまいました。

そういえば朝ドラ「エール」で志村さんが演じてる小山田耕三氏は、山田耕筰さんがモデルとか。
それに加山雄三さんの作曲名の弾厚作のコウサクも山田耕筰さんからだとか。
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Unknown (だんぞう)
2020-06-12 18:27:54
子供の数の減少が、学校の存続に影響してるのは明らかですね。


校庭解放という言葉すら知らない子供は今は多いんでしょうね。
私が子供の頃は、校庭解放は当たり前だったもんですが、、、。
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Unknown (捨丸)
2020-06-12 17:14:12
当地は某製鉄会社の企業城下町として発展した町でして、昭和40年代前半位までは子供の数もめっちゃ多く、私の母校周辺にも5校くらいの小学校がありました。
校区も結構入り組んでおり、うちから数十メートルはなれると隣の校区になってましたね。
立地的に母校がこれら数校のほぼ中心に位置していたようで、新校舎建て替えを機に我が母校に統合という運びになったようです。

ご存知のように最近はどこの小学校も一般への校庭開放は行なっていません。
それでも数年前、運動会の時に校内を見る機会がありました。
本当にきれいで壁の色も校舎毎に淡いパステル調に塗り分けられており、私が通った当時の面影はありませんでした。

ロの字形に配された3階建ての木造校舎。その真ん中に位置していた花壇と畑。そして職員室に面した場所にはひょうたん形の池と鶏やうさぎの飼育小屋・・・
生まれ変わっていた母校の中庭に立った時、頭の中に当時の風景がびっくりする位鮮やかに蘇りました。
 
そうそう、あのひょうたん池、今でいう所のビオトープみたいな存在で、コイやフナや金魚以外にもゲンゴロウやミズスマシ、ヤゴなんかいたんですよ〜

現在の母校の中庭にも小さな花壇はありましたが、私たちの頃みたいに生徒が丹精しているのではなく、明らかに専門の業者さんが手を入れているようです。
そしてなにより寂しかったのは、地面がすべてカラー舗装やタイルで覆われていた事。

時代なんでしょうね・・・でも・・・
返信する
Unknown (だんぞう)
2020-06-12 12:41:39
そうですか、知らない間に、いつのまにか解体されてしまっていたんですね。
知った時は、さぞかし寂しかったことでしょう。

校名が変わってしまったということも寂しいですね。

校舎が新しくなっても、同じ名前の学校が存在し続けているのは、救いですもんね。

北原白秋さんが校歌の作詞を?
きっと文学的で格調高い歌詞だったんでしょうね。

校名が変わってしまったら、さすがに同じ校歌を使い続けるわけにはいかないですもんね・・。

校舎が新しくなっても、同じ校名の学校として存続してくれてるってのは卒業生としては大きいですよね。
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Unknown (捨丸)
2020-06-12 09:40:54
小学校、中学校の校舎は私が上京していた二十数年の間に解体されてしまっており、こじんまりとしたこ綺麗なものへ建て替えられていました。
当時少子化の影響で当地でも統廃合があり、母校は廃校は免れましたが、校名が変わっていました。
これはちょっとショックでしたね。
なんと言っても母校校歌の作詞はかの北原白秋さんだったのです。
在校時は先生方に校歌の歌詞の一言ひとことを誇りに思いなさいと言われてましたので、思い出深い校舎のみならず校名や校歌までなくなってしまうなんて・・・
返信する
Unknown (だんぞう)
2020-06-11 22:19:52
そうですね、言われてみれば確かに第2の我が家みたいなものでした。毎日、何時間もの時間を学校で過ごしていたわけですから。

ゼロさんも母校の解体を経験されてたんですね。
その寂しさ、よくわかります。
おまけに、更地になった光景まで目にされてたなんて、、、空しさや寂しさが去来したことでしょう。

校舎が新しくなるのは、耐震性の問題もありますから納得できても、学校そのものがなくなってしまうのは辛かったです。

私の曲、聴いてもらえて、とっても嬉しいです。
ありがとうございます。
私は色んな先人たちの影響を受けてますから、岡林さんからの影響もあってもおかしくないと思ってます。
返信する
Unknown (キャプテンゼロ)
2020-06-11 21:46:48
自分が通っていた学校の取り壊し、とっても切ないですね。
学校で過ごす時間は、約8時間ですから、第2の我が家みたいなモノです。

ボクが通っていた小学校も、校舎の建て替えのための取り壊し工事がありました。
戦前に立てられた木造2階建ての校舎が、毎日少しずつ外壁が剥がされ、
太い木の柱だけになり、最後には更地になりました。
心の中に寂しい風が、吹き抜ける思いがしました。

でも、人間も街も生きています。成長しています。
次の段階に進化するために、敢えて古い皮を脱ぎ捨てなければ
ならない時もあると、ボクは考えます。

youtubeのだんぞうさんの曲、聞かせて頂きました。
ボクは音楽は、全くシロウトなもんで、うまく言えないけど、
70年代の岡林信康さんっぽいメロディーラインで、歌詞は
昭和の人間の心の琴線に響き、とても聞き応えありました。
これからも、ご活躍をお祈り致します。
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