エド・ガリアルディ Edward John "Ed" Gagliardi
【パート】
ベース、ヴォーカル
【生没年月日】
1952年2月13日~2014年5月11日(62歳没)
【出身】
アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン
【経歴】
フォリナー/Foreigner(1977~1979)
スパイズ/Spys(1981~1983)
エド・ガリアルディはフォリナーのオリジナル・ベーシストである。
1952年2月13日、ニューヨーク州ブルックリン生まれ。
20代前半の頃は、ニューヨーク周辺のローカル・バンドで活動していたが、全く無名の存在だった。
1976年、フォリナーに加入。
バンドが制作したデモ音源がアトランティック・レコードの目にとまり、契約が成立する。
同年11月下旬にはファースト・アルバム「栄光の旅立ち」のレコーディングが始まった。
左からエド・ガリアルディ、ミック・ジョーンズ、イアン・マクドナルド
ガリアルディが制作に参加したフォリナーのアルバムは、『栄光の旅立ち』『ダブル・ヴィジョン』の2枚であるが、『栄光の旅立ち』は400万枚以上、『ダブル・ヴィジョン』は500万枚以上のセールスを記録している。
1978年には初来日を果たし、日本武道館や大阪フェスティヴァル・ホールなどで公演を行った。
フォリナーは一躍トップ・バンドのひとつにのし上がったが、ガリアルディは音楽性の相違を理由として、1979年に解雇される。
1981年、フォリナーでバンド・メイトだったアル・グリーンウッド(keyboards)らとともに「スパイズ」というバンドを結成。
スパイズはEMIと契約し、1982年にファースト・アルバム『スパイズ』をリリース。このアルバムはビルボード・アルバムチャートで138位となり、シングル『ドント・ラン・マイ・ライフ』はビルボード・ホット100で82位を記録した。
スパイズは、1980年代に多く出現したシンセサイザーを多用するロック・バンドで、80年代ニュー・ウェイヴからの影響も窺えるメロディアスでハードな音作りはフォリナーの音楽性に通じる部分もあった。一部では高く評価されていたものの、1983年に発表したセカンド・アルバム『ビハインド・エネミー・ラインズ』のセールスは低迷、その後契約に関してレーベル側と合意に至らず、解散した。
スパイズ解散後のガリアルディは音楽業界から離れ、2000年代初頭にはニューヨーク州グレンコープのラリーレクサス社でサービス部門のライターとして働いていた。
2014年5月11日、8年間の闘病生活の末、ニューヨーク市でガンのため死去。62歳だった。
ガリアルディは、7月31日にフロリダで行われる予定の、フォリナー時代のバンド・メイトだったルー・グラム(vocal)の公演でグラムと再会する予定だったという。
葬儀は家族や友人が非公開で執り行ったということである。
ガリアルディは、本来は右利きであるにもかかわらず、ポール・マッカートニーの大ファンであったことから、左利き用のリッケンバッカーを使用していた。楽器は、ほとんどの場合ガリアルディ自身が再設計し、改造していたという。
2017年にフォリナーの40周年記念北米ツアーが行われたが、このうち10月6日~7日のミシガン州マウント・プレザントでの公演で、ガリアルディを除くオリジナル・メンバーが「衝撃のファースト・タイム」など5曲を演奏、またオリジナル・メンバーと現ラインナップが一緒に2曲演奏した。ミック・ジョーンズ(guitar)は、「衝撃のファースト・タイム」を演奏する際、「エド・ガリアルディに捧げる」とコメントしたということである。
【ディスコグラフィ】
<フォリナー>
1977年 栄光の旅立ち/Foreigner US4位
1978年 ダブル・ヴィジョン/Double Vision US3位、UK32位
<スパイズ>
1982年 スパイズ/Spys
1983年 ビハインド・エネミー・ラインズ/Behind Enemy Lines