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グレアム・ボンド

2024-09-25 12:03:48 | keyboard

グレアム・ボンド Graham Bond

【本 名】
  グレアム・ジョン・クリフトン・ボンド/Graham John Clifton Bond

【パート】
  オルガン、サキソフォン、ヴォーカル

【生没年月日】
  1937年10月28日~1974年5月8日(36歳没)

【出身地】
  イングランド エセックス州ラムフォード

【経歴】
  ガウディー・チャールズ・クインテット/Goudie Charles Quintet(1960~1961)
  ドン・レンデル・クインテット/The Don Rendell Quintet(1961~1962)
  アレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッド/(1962~1963)
  グレアム・ボンド・トリオ/The Graham Bond Trio(1963)
  グレアム・ボンド・カルテット/The Graham Bond Quartet(1963)
  グレアム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation(1963~1967)
  グレアム・ボンド・イニシエーション/Graham Bond Initiation(1970)
  ホーリー・マジック/Holy Magick(1970)
  ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force(1970~1971)
  ボンド & ブラウン/Bond & Brown(1971~1972)
  ジャック・ブルース&フレンズ/Jack Bruce & Friends(1971~1972)
  メイガス/Magus(1973)


 グレアム・ボンドは、イングランド出身のサクソフォン奏者、キーボード奏者、ヴォーカリスト。ジャズ、ブルース、ロック。ポップスなど様々な音楽の融合を目指し、オリジナルな世界を追求し続けた革新的ミュージシャンであった。
 ボンドは1960年代のイングランドで起こったリズム&ブルース・ブームの創始者のひとりであり、アレクシス・コーナー、シリル・デイヴィス、ジョン・メイオールらと並ぶ、当時の英国ポピュラー音楽界における重要人物のひとりでもある。


 ボンドは、1937年10月28日にエセックス州ラムフォードで生まれ、幼い頃に養子に出された。
 彼を引き取ったバーナード家にはいつも身近に音楽があり、ボンドは自然に音楽に親しむようになった。彼はやがてイースト・ロンドンのギデア・パークにあるロイヤル・リバティ・スクールに通うようになり、そこで音楽を学んだ。


 ボンドのミュージシャンとしてのキャリアの出発点は、1960年にサックス奏者として加入した「ガウディー・チャールズ・クインテット」である。
 1961年にメンバーとなった「ドン・レンデル・クインテット」で頭角を現したボンドは、この年のイギリスのニュー・ジャズ・スターに選ばれ、国内でも注目の新進ジャズ・ミュージシャンとして知られるようになる。なお、このバンドで出会ったのが、ジャック・ブルース(bass)とジンジャー・ベイカー(drums)である。
 1962年、シリル・デイヴィスの後任としてアレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッドに加入。このバンドで再びブルース、ベイカーのふたりとバンド・メイトとなる。
 ボンドはブルース・インコーポレイテッドに短期間在籍したのち、1963年2月にブルース、ベイカーのふたりとともに脱退して「グレアム・ボンド・トリオ」を結成する。ボンドがハモンド・オルガンを演奏するようになったのはこの頃からで、のちに「イギリス初のハモンド・オルガン・プレーヤー」と言われるようになる。
 この年ジョン・マクラフリン(guitar)を迎えたボンドは、バンドを「グレアム・ボンド・カルテット」と改称し、ハモンド・オルガンをメイン楽器としながらも、再びサックスを手にするようになった。


 ボンドはイギリスのポピュラー音楽界におけるハモンド・オルガン使用の先駆者でもあり、ハモンド・オルガンとレスリー・スピーカーを組み合わせて使った初期のオルガン奏者である。またメロトロンをレコーディングに使用した最初のロック・ミュージシャンとしても知られている。
 ボンドの演奏は、後のロック・キーボーディストに大きな影響を与えた。ブライアン・オーガーやキース・エマーソンも、ボンドの演奏に影響されたことを認めている。ディープ・パープルのジョン・ロードは、後年「ハモンド・オルガンという楽器について知りたいのであればグレアム・ボンドを聴くべきだ」「ハモンド・オルガンについて私が知っている事のほとんどは、ボンドが実践的に教えてくれたものだ」と語っている
 なおボンドは、この頃(1963年)にデビューした「アニマルズ」の名付け親でもある。アニマルズのドラマー、ジョン・スティールによると、ボンドはニューカッスルのクラブ・ア・ゴーゴーで演奏する無名のロック・バンドを見て、彼らに「ジ・アニマルズ」と命名したという。


 1963年暮れ、マクラフリンはバンドを去り、代わりにディック・ヘクストール=スミス(sax)が加入する。これを契機にバンドは「グレアム・ボンド・オーガニゼーション」と名を改めた。マクラフリンはのち「帝王」マイルス・デイヴィスのグループに参加、ジャズあるいはフュージョン・ギタリストとして大成する。
 「グレアム・ボンド・オーガニゼイション」は、ボンドのオルガンを前面に押し出した独特のR&Bサウンドで、モッズを中心に支持を得るようになる。1964年3月にはデビュー・アルバム「サウンド・オブ・'65」を発表。これはジャズとR&Bを融合させたものとして高く評価された。
 1965年7月、シングル「Lease on Love」をリリースした。この曲にはメロトロンが使われているが、曲にメロトロンが全面的にフィーチュアされたのはポピュラー音楽史上初めてのことであった。メロトロンを使用した先駆的存在のひとつはビートルズだが、彼らが「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を録音したのは、その1年4ヵ月後の1967年である。
 1965年10月にリリースされたグレアム・ボンド・オーガニゼイションのセカンド・アルバム「ゼアズ・ア・ボンド・ビトゥウィーン・アス」は、録音時にメロトロンを使用したロック・ミュージックの最初のアルバムとされている。
 1966年3月、「ザ・フー」がシングル「サブスティチュード」(全英5位)をリリースしたが、このB面の「Waltz for a Pig」はグラハム・ボンド・オーガニゼイションの曲であったことから、一部で注目されるようになる。



グレアム・ボンド・オーガニゼイション  
グレアム・ボンド(前)、ジンジャー・ベイカー(左)、ジャック・ブルース(右)、ディック・ヘクストール=スミス(後)


 新境地を拓きつつあったグレアム・ボンド・オーガニゼイションだったが、ボンドの薬物乱用、そしてベイカーとブルースの険悪な関係という看過できない問題を抱えていた。ボンドは自身の状況の悪化によってバンドを管理しきれなくなったため、ベイカーにバンドの運営を任せたが、ベイカーはその権限を利用して1965年8月にブルースを解雇したため、バンドは3人編成となった。
 1966年にはベイカーもバンドを離脱、のちに新たなバンドを結成したが、そのバンドが「クリーム」である。
 ベイカーの後任として1966年5月にバンドに加わったのは、ジョン・ハイズマン(drums)である。
 ボンド、ヘクストール=スミス、ハイズマンのトリオとなったバンドは活動を維持し、1967年1月18日にシングル「ユーヴ・ガッタ・ハヴ・ラブ・ベイブ」を制作したものの、ボンドの健康は薬物への依存によって精神的にも肉体的にも蝕まれており、そのためバンドは1967年に解散した。
 グレアム・ボンド・オーガニゼイションは、ブリティッシュ・ロック界においては革新的な存在であり、音楽的な影響力もあったが、彼らの音楽はポップス・ファンにはジャズ寄りで少々複雑であり、ジャズ・ファンにとってはロック寄りで騒々しいものだと捉えられていたため、商業的な成功を収めるには至らなかった。
 解散後、ヘクストール=スミスとハイズマンはジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズを経て「コロシアム」を結成し、デビュー・アルバムにボンドの曲「公園の散策」を収録している。


 グレアム・ボンド・オーガニゼイションの解散後もボンドの精神状態は安定せず、重度の躁鬱状態は薬物の過剰摂取でさらに悪化していった。 
 そんな状態のなかでボンドはアメリカに渡り、「ラヴ・イズ・ザ・ロウ」(1968年)と「マイティ・グレアム・ボンド」(1969年)の2枚のアルバムを制作したが、1969年にはイギリスへ戻った。
 帰国後のボンドは、結婚したばかりの妻ダイアン・スチュワートとともに「グレアム・ボンド・イニシエーション」を結成。
 また1970年初頭に「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」にサックス奏者として加入したが間もなく脱退し、短期間「ジャック・ブルース・バンド」に参加した。またこの年には「ホーリー・マジック」を結成し、アルバム「ウイ・プット・アワー・マジック・オン・ユー」をレコーディングしている。そのほか同年にはアルバム「ソリッド・ボンド」をリリースしている。これはボンド、マクラフリン、ブルース、ベイカーからなる「グレアム・ボンド・カルテット」の1963年録音のライヴ音源と、ボンド、ヘクストール=スミス、ハイズマンからなる「グレアム・ボンド・オーガニゼイション」による1966年録音のスタジオ・セッションを編集した2枚組アルバムである。


 1971年終盤、ボンドはクリームなどへの歌詞提供で知られる作詞家のピート・ブラウン(元バタード・オーナメンツ、元ピブロクト!)との双頭バンド「ボンド&ブラウン」を結成。メンバーは、ボンドの妻ダイアン・スチュワート、デライル・ハーパー(bass)、エド・スペヴォックEd Spevock(drums のちベーブ・ルース、チキン・シャック)である。
 ボンド&ブラウンは、1972年にはファースト・アルバム「トゥー・ヘッズ・アー・ベター・ザン・ワン」とシングル「ロスト・トライブ」をリリースしたが、同年末頃には活動を停止した。
 1973年にはジョン・ダマー・バンドとともにアルバムをレコーディングしたが、これは2008年になってようやくリリースされた。





 バンドと結婚生活がほぼ同時に崩壊した後、1973年にボンドはイギリスのフォーク歌手キャロラン・ペッグ(vocal 元Mr. Fox)、ベーシストのピート・マクベスとともに「メイガス」を結成したが、レコーディングを行わないまま1973年のクリスマス頃に解散した。同じ時期に、彼はアメリカのシンガーソングライター兼ギタリストのミック・リーを見出してライブで一緒に演奏したが、これもレコーディングには至らなかった。


 オカルトに憑りつかれたボンドが1960年代末期から1970年代にかけて制作したアルバムは、黒魔術の強い影響を受けたものばかりであった。その頃結婚したダイアン・スチュワートも魔術に興味を持っていたと言われる。
 麻薬とは手を切ったものの、ますます黒魔術に傾倒していったボンドは、自分がアレイスター・クロウリーの生まれ変わり(息子)だと信じるようにさえなっていた。
 1972年、ボンドは薬物の使用を理由にジャック・ブルースのバンドを解雇されたが、それ以後の精神状態はさらに悪くなり、薬物や抗うつ薬の影響で病院への入退院を繰り返すようになった。ボンドはキャリアを通じて重度の薬物使用による発作に悩まされており、1973年1月には神経衰弱を起こして入院した。また長年にわたって経済的な苦境に立たされていたこともボンドの精神状態に悪影響を及ぼしていたが、メイガスの解散によってそれに拍車がかかった。


 1974年5月8日、ボンドは「悪魔に身を捧げる」というメモを残し、ロンドンのフィンズベリー・パーク駅で地下鉄ピカデリー線の電車に飛び込んで自ら命を絶った。36歳であった。
 遺体の損傷は激しく、身元の確認には二日間を費やしたという。最終的な決め手は指紋の照合によるものであった。
 ボンドの死は事故か自死か断定はされていない。死の直後には「ボンドは悪魔によって闇の世界に引きずり込まれた」という噂も流れたが、彼は双極性障害であったとも言われており、現在では彼の死は自殺だとされている。


 2015年、ボンドの作品がドクター・ブギーのラジオ番組の2時間スペシャルで特集された。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <リーダー・アルバム>
  1969年 
ラヴ・イズ・ザ・ロウ/Love Is the Law
  1969年 マイティ・グラハム・ボンド/Mighty Grahame Bond
  1970年 ソリッド・ボンド/Solid Bond
  1970年 ホーリー・マジック/Holy Magick
  1971年 ウィ・プット・アワー・マジック・オン・ユー/We Put Our Magick on You
 ★1971年 This Is... Graham Bond - Bond In America
☆★2015年 ライヴ・アット・BBC・アンド・アザー・ストーリーズ/Live At The BBC And Other Stories ※録音1962年~1972年

 <グラハム・ボンド・オーガニゼイション>
  1965年 ザ・サウンド・オブ '65/The Sound of '65
  1965年 ゼアズ・ア・ボンド・ビトゥイーン・アス/There's a Bond Between Us
 ☆1988年 クルークス・クリーク/Live at Klooks Kleek ※録音1964年10月。「Faces And Places Vol.4」として再発あり
 ★2012年 ウェイド・イン・ザ・ウォーター/Wade In The Water

 <ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース>
 ☆1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 2/Ginger Baker's Air Force 2

 <ボンド&ブラウン>
  1972年 トゥー・ヘッズ・アー・ベター・ザン・ワン/Two Heads Are Better Than One

 <レコーディング・セッション>
  *ドン・レンデル・ニュー・ジャズ・カルテット
  1961年 ローリン/Roarin'



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