去年の秋ごろから、ずっと栗本薫の「グイン・サーガ」を読んでいます。
物語の最初の部分が再版され、それを読んだ後、栗本さんの病気のため途中で終わることになったその最後のころを、今読んでいます。中間の長い部分は品切れで手に入らないので、読むことはできません。電子書籍で手に入るのかなと、思っているのですが。
中間の長い部分を読んでいないのに、最後の部分を読んでいるこの頃も、とても面白く、「グイン・サーガ」に魅了されてしまっています。
栗本さんは、あとがきを書いていらっしゃって、123巻のあとがきに、こういう部分があります。
しかし会う人ごとに「病気とは思えないくらい元気だ」とか「大手術したとは思えないですね、やつれてなくて」といわれるたびになんとなく複雑な気持ちになります。それは、元気なのがいいには決まっているし、やつれたくなんかないんですけれど、なんとなく、「病気だなんて、うそついたんじゃないの、なんでもなさそうじゃない」といわれているみたいな気がしてね。病人の気持ちというのはなかなかに傷つきやすいものですので、-中略―こと私に関するかぎりは「元気そうですね」といわれるとなんとなく複雑な気持ちになる、というのは事実のようです。
この部分を読んだとき、ああそうだよねーとうなづいていました。
54才の時、乳がんになり、抗がん剤治療をして、手術を受けました。そのあと、放射線治療を受けました。その時は、死にたくないと思い、死ぬことが本当に怖かったです。
夜になって、一人になると(家族が寝てしまって)涙がぽろぽろこぼれてきます。自分の人生をずっと考えていました。でも、人の前では、いつも明るくふるまっていました。
主治医が、「あなたは明るいので、病気にいいですよ」といわれたときは、「先生、私も夜になると泣くんですよ」と明るく言ったことを思い出します。
今は、年も取り、病気にもなり、体が薬漬けで思うように動けません。自分の体が、自分の思うように動かせないのは、本当に情けないです。病気になる前のように、体が自分の意識に登らないことが当たり前だったことが不思議なほどです。
そのうえ、気持ちも不自由になります。体だけでなく、気持ちも動かないというのは、本当につらいことです。
それでも、人に会うと、「元気そうね」といわれます。「体が動かせないのに、食べる量は変わらないので、太ってしまったから元気そうにみえるのでしょう。あまり元気ではないのだけれど」と返します。
病気だからと言って、病気のような顔をしたくないし、病気のようなスタイルもしたくないので、できるだけ、お化粧して、姿勢をよくし、足もまがったように見えないように、努力しています。洋服もなるべく華やかにと思ったりしています。
元気そうに見えるようにしているくせに、「元気そうね」といわれることに傷つくなんて、変ですよね。でも、これが病人の複雑な心の動きなのだと思ってください。
病気には負けたくないけれど、でも、病気だから優しくしてほしいのかな?
beautiful-sunsetさんのお気持ち、
>でも、人の前では、いつも明るくふるまっていました。
>病気だからと言って、病気のような顔をしたくないし、病気のようなスタイルもしたくない
>病気には負けたくない
という思い、10年間ぐらいは私にもありました。
今はもう老化が進みすぎたせいで、そういう意思的な気持ちはすっかり消えてしまいましたが。
他人にどう見られたくないのか
他人にどう扱われたくないのか
自分がどうありたいのか・どうありたくないのか。
など、いろいろ絡み合っていそうで、ちょっと考えさせられました。
こう言ったら何ですが、<いちおう健康な人たち>は相手を元気づけようと思っての発言なんでしょうがね。
ごめんなさい。取り留めないコメントで、返事の書きようもないですね。m(_ _)m
そして、病気とか病人に対して、差別の意識があったのかと、それも反省しています。自分では、病気であることを恥ずかしいなんて思ってもいないし、病人に対して、差別していたという気持ちもなかったのでしたが。ただ、健康な人にとっては、病気は違う世界だということをいつも感じていたものだから、みんな一緒の人間ではないですか、という反発を持って、病人に見えないようにと思ったのかもしれません。<いちおう健康な人たち>の思いやりを、もっと素直に受け止めなくちゃと思いました。
空さんは、もう病気だからどう、ということは思われないのですね。病気だからどうなんだと、今私も思っています。
お身体の具合いかがですか。穏やかな時間を過ごされているのでしょう。コメントいただいて、本当に嬉しかったです。でも、あまり無理をしないでくださいね。
あなたに勘違いさせたように思います。beautiful-sunsetさんの「差別の意識とか反省」など必要ないですよ。しつこくなりますが、もう1回書き込みます。
確かに、それは<健康な人たち>の思いやりと言えますが、反面、それはアーサー・W・フランクが言うように、彼らが無意識に思い込んでいる価値観:「落ち着いた冷静な・ポジティブな患者は偉い」を反映している言葉でもありますね。
多くの患者さんが、その価値観のプレッシャーに合わせ、<元気なフリ>をさせられるのかな...と思います。
本当のところは、患者は健康な人には絶対わからないものを抱えて苦労しているのですが。
それだけでなく、自分を振り返ると、患者自身も「変わり果てた自分をどう扱えばいいのか」わからない面もあるような気もします。
変わってしまった自分を憐れめば、自ら崩れ落ちそうで、以前と変わらずできることを必死に頑張るというように。
岸本葉子さんがこう言っていらっしゃいました。
本人も、家族も、がんを抱えると、
いろいろな「フリ」をする。
来年という時間があるフリ。
悲しんでなどいないフリ。
自分自身に対しても、怖がっていないフリ。
病院では意思決定をすぐできて、
迷わず治療に進んでいるフリ。
私は少なくとも、自分から<フリをする>のは止めました。「もう頑張りたくないっ」です(笑)
だから今の私なら場合によっては、ちょっと言い返すかな(笑)
「そう見えますか...。でも実はいろいろあるんですよ。元気に見えるように頑張っているんですよ。」とね。
この頃は、フリをする自分は、もういなくなってしまったと思います。今は、自分が病気で、仕方なく治療を受けているという感じでしょうか。それに対して、人がいろいろ感想をいうことには、自分のうちでは、あまり気にしていないかなと思います。ただ、病気なのだからちょっと許して、という気持ちがあったかなーと思うのです。病気が辛いときに、ちょっと"元気じゃないんですけど"という気持ちになるのだと思います。
今日、出かけたので、食後寝てしまい、今目が覚めて書いています。時間のこと気にしないでくださいね。