実は私40年前に藤沢の高校を卒業いたしまして、国立横浜病院、原宿にありますね。
戸塚区の。
あそこに勤めていたもんですから、藤沢って聞いたときに嬉しいやら。
この藤沢の駅に立った時には感慨ひとしおでしたけれども。
がらっと変わっておりますので、ほとんど面影はなかったですね。
でも、まぁ藤沢に来れて本当良かったなぁと思ってます。
鹿児島なんですが、母校とかは行く暇無いと思いますけど、今日は皆さんにお会いできて本当に良かったと思っております。
聞いていただきたいと思います。
私はですね。
53年の8月12日。
皆さんご存知だと思うんですが、鹿児島の吹上海岸と言う所があります。
ここは、夕日はとってもきれいに見える海岸なんです。
鹿児島の吹上浜で北朝鮮の工作員に拉致された市川修一の義理の姉に当たります。
その8月12日に、弟が修一が23歳の時でした。
平野さんの妹に当たります増元るみ子ちゃんと二人でですね。
吹上浜海岸の夕日を見に行ってくる。
10時までには必ず帰ってくると双方の家族に約束をしてそれっきり、忽然と姿を消してしまったんです。
将来を約束しあっていたのかどうか?私たちには分かりませんが。
その日修一がですね。
わくわくわくわくしながら、るみ子さんとデートが出来るという嬉しそうな姿をですね。
当時修一の実の姉と同じ敷地内に住んでいましたので、弟の修一の嬉しそうな姿を今でも目に焼きついている。
残念ながら実の姉はちょっと重い病状に伏せっておりますけども、この姉が、私には義妹になるんですけども、修一からは実の姉ですね。
姉の所からいなくなったもんですから、私はその姉と母にですね。
一刻も早く(修一を)抱かせてやりたい、って気持ちであちこち回っております。
修一とるみ子ちゃんはどんなにかね、夢や希望に胸を膨らませていたと思います。
修一は向学心も旺盛で、当時通信教育の大学生としても勉学にも励んでおりました。
通教の学籍番号もきちんと、私が毎月送られてくる冊子で覚えております。
Eの7609279の番号で毎月送られてきておりました。
そして何より親孝行な修一でした。
だからそんな修一がですね。
自分から姿を消すということは無いんです。
当初は家出かな?蒸発かな?駆け落ちかな?というふうに世間からは見られておりましたけども。
あとは誘拐かな?交通事故にあったかな?暴走族にあったのかな?
タコ部屋って、私は知らなかったんですが、そういうタコ部屋に連れて行かれたのかな?
神隠しにあったのかな?
果てはUFOに連れて行かれたんじゃないか?と本当にですね。
まったく雲を掴むような不可解な事件が8月12日に起きたんです。
来月でもう27年になります。
延べその時にですね。
1500名ほどの大掛かりな捜索が始まりました。
ビーチクラフトで、また地元の漁船が網を張って海の底に沈んではいないか?
砂浜に埋められてはいないか?と思って、みんな横一列に5人6人並んで棒を持って砂を突きながら埋められてはいないか?といってですね。
棒を突きながら大捜索を行いました。
でも当日はですね。
キャンプ村で浜辺で、コンサートがあったんです。
その日はたくさんの人出であったんですけども、松林を通って浜に行く中継にロータリーがあるんです。
そのロータリーに修一の車が駐車してありました。
その車の1~2メートルのところで2匹の警察犬がもうクンと鼻を上げたんです。
そこでプッツリと匂いが切れてしまったんです。
多分4人の工作員に拉致されて、格闘したかどうか分かりません。
そこに片方の修一のサンダルが縦にひっくり返って落っこってたんです。
消息(を絶って)から10年、1988年・昭和63年です。
国家公安委員長がですね。
梶山静六さんでした。
3組のアベック失踪事件・一件の未遂事件は北朝鮮による拉致による疑いが濃厚であると、はっきりと国会で答弁されたんです。
でも、それっきりなんです。
ずっと闇に葬られたままでした。
でも何の進展も無くてですね。
ただ容赦なく月日が流れていく中で、私たちに一条の光が見えたのが1995年昭和70年です。
韓国に亡命した北朝鮮の元工作員・安明進氏、ご存知だと思います。
安明進氏が修一を目撃していたんです。
数枚の写真を指差しながらですね。
この男性とは何回も会っている。
修一のことです。
金正日政治軍事大学で何度も見ている。
セブンスターをもらった事もある。
会話もした事もある。
そして修一のヘアスタイルですね。
右わけなんです。
左わけじゃなくて右わけです。
その分け方ですとかね。
良く赤いネクタイをしていましたとか。
そういう修一の特徴となることを本当に詳細に語ってくれたんです。
韓国から石高プロデューサーって方から国際電話が入りました。
それまで修一がどこにいるのか?死んでいるのか?本当に分かりませんでした。
その時韓国から国際電話が入ったときに、修一が生きているという知らせを受けた時の母の号泣は、主人は未だかつて見たことが無い、聞いたことが無いというくらい母は大号泣で泣いたそうです。
この後からなんです。
我が家では修一の修の字も話も全部禁句でした。
この後から北朝鮮にいるということを聞かされてから、母は毎年毎年修一の衣装箱を開けて洋服を虫干しするようになったんです。
いつ帰ってきてもすぐ着れるようにでしょうか?
今となっては流行がありますから着れる筈もありませんが、それでも毎年毎年虫干しをするようになりました。
母はもちろんです。
私たちも23歳の修一の顔しか思い浮かびません。
27年も北朝鮮で誕生日を迎えているんです。
今年でもう51歳になるんです。
23歳の時です。
北朝鮮に連れて行かれたのだと分かってから、両親は北朝鮮と韓国の国境の38度線の鉄柵の前であらん限りの声で修一と叫びました。
「修一どこにいるの?顔を見せて!姿を聞かせて!」ってですね。
断髪的に鳴り響くんです、向こうでは。
そんな轟音の中ですから、母の声なんて聞こえるはずもありません。
それでも叫び続けました。
今にも鉄柵を乗り越えて修一を探したい、連れ戻したい。
38度線を振り返り振り返り、空しく鹿児島の方に帰ってきました。
世界のいずこの国であれ、子を思う親の気持ちに変わりは無いと思います。
気が狂ってもおかしくないぐらいの27年をずっと続けております。
横田めぐみちゃんのお母さん、有本恵子ちゃんのお母さん、増元るみ子ちゃんのお母さん、そして松木薫さんのお母さん。
市川修一の母の心情を歌った詩があります。
もう聞かれた方もあるかと思いますが聞いてください。
どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
星も凍てつく雪山に 母は雛鳥捨て置かぬ
腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
千里万里は厭わない 可愛い我が子に会えるなら
親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯痒さよ
これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ
拉致被害者家族の母の心情です。
分かってください。
待って待って待って待ち続けて27年です。
北朝鮮の金正日の命令で工作員による残虐非道な拉致によって、一瞬にして若い修一とるみ子ちゃん、めぐみちゃん。
たくさんの拉致被害者の青春が人生そのものが狂わされて、そして私たち家族が辛く長い闘いが続いているんです。
たくさんの事件がある中でよその国の者がこっそり入り込んで人をさらっていく。
誘拐とか人攫いとかと言う言葉は私は知っておりました。
拉致と言う言葉は知ったのはこのときなんです。
皆さんもご存知だと思います。
本当に拉致と言う言葉は知りませんでした。
両親が毎朝発する会話に
「お父さん、修一が帰ってくるまでは何としても元気な体で修一を迎えてやりましょうね。
ボケないでいましょうね」
と言って毎朝二人は、老夫婦は会話しています。
無農薬の野菜を自分で作って野菜ジュースですか?
それをジューサに掛けて毎日飲んで、気を使って。
二人で一人前だって言いながら、庇いあって生きています。
そんな両親ももう90歳なんです。
毎朝毎晩仏壇の前に座ります。
母の背もだんだんだんだん小さくなってきました。
この背中から修一の名を呼ぶような母の姿が不憫でたまりません。
同居して31年ですので、手に取るように分かります。
今日もまた祈る姿が痛ましい いとしい吾子を抱く夢見て
自分ながらに慰めながら短歌を作っています。
辛いのに我が子の帰りを待ち続けています。
皆様ご存知のように2002年9月17日、金正日は拉致を認めて謝罪しました。
5人生存8人死亡と知らされた時、私たち夫婦・長男もおりました。
頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。
「人の生死に関わる問題ですので、国に確認作業をした結果です」
とんでもないです。
北朝鮮からの一方的な通知でした。
植竹副大臣に食って掛かりました。
「殺したんでしょう?殺されたんでしょう?どうしてくれるのか?」って。
植竹副外務大臣に言っても仕方ないんですが、それくらい分かりませんでした。
鹿児島の母に何ていえば良いのかなぁ?って。
行方不明だって言おうと言って嘘をつこうと思ってたんですが、全国放映でしたので母はそれをテレビでしっかりと見ていました。
待ちわびて届いた知らせに打ち震え 母の姿がまぶたに浮かぶ
短歌がすぐ出来ました。
安明進氏の目撃証言は1991年の7月なんです。
それが拉致した翌年、1979年9月4日に元山海水浴場で溺死って言ったんです。
日本の緯度を辿っていけば岩手県に当たるんです。
9月4日岩手県、海水浴しますか?
冷たいです、水も。
その時は台風も近づいていました。
泳げない修一は水が苦手でした。
ましてそこは遠浅です。
元山海水浴場と言うのは遠浅なんです。
ここでいまだかつて溺れた人はいません、という証言も出ております。
安明進さんが1993年脱北するまでの証言がちゃんとあるんです。
その安さんも命懸けで、私は命が尽きるまでこの拉致問題に一生懸命証言していくって言って、一生懸命私たちと一緒になって頑張ってくださっています。
そして10月15日、5人も被害者が24年ぶりに日本の土を踏みました。
感無量の一日でした。
と同時にあのタラップから降りてくるメンバーの後ろに修一がいたらなぁ・・・って、夫婦二人で手を握り合いました。
もしかしたら安倍さんの後ろからもう一人誰か降りてくるんじゃないか?
修一が降りてくるんじゃないか?と目を凝らしましたけども、誰もおりませんでした。
帰国者の喜びの涙と無念の涙が入り混じった本当に辛い一日でした。
そして5月22日は小泉首相が再訪朝されました。
一刻も早い原状回復と事実関係の解明。
処罰・賠償の手続きとか、また400名以上とも言われる特定失踪者の道筋をつけて来られる物と期待しておりました。
奄美沖での不審船銃撃事件も、なぜか全然追求されませんでした。
麻薬・密輸・旅券偽造等、何にも追及されませんでした。
それどころか反対に平壌宣言を遵守する限りは経済制裁をしない。
人道支援はする、と言われたんです。
いまも躍起になって言ってます。
平壌宣言を遵守していると思いますか?
いろんなことを画策して日本に投げ掛けてきております。
金正日は悪魔なんです。
日本人拉致を指令して、また自国民にも恐怖を与え、食料の配給もせず毎年200万もの餓死者を出しているんです。
極悪の独裁者と言っても良いと思います。
この独裁者に対して5月22日、本当に一言も、拉致のらの字も発せず、一矢も放たずに帰国されました。
私たちはこのときに悪に手を貸す共犯者じゃないか?と思うくらいでした。
その時に例のバッシングが始まったんです。
でもちゃんと見ている人は見てくださっておりました。
あのバッシングも策略に私たちはかかったんです。
拉致を認めた金正日に、被害者の奪還を果たそうと言う責任感の無い首相です。
奪還手いう意味はご存知だと思います。
どうぞこれだけお金を上げるますから、支援しますから返して下さいお願いします、と言うのは奪還じゃないんですよね?
命懸けでも連れ戻すと言うのが奪還なんです。
そういう気概は今の小泉総理には全然見えません。
小泉訪朝から2年10ヶ月です。
8人の未帰還者については今でも死亡説を繰り返し、嘘に嘘を塗り重ねて解決済みとする北朝鮮なんです。
駄々をこねて、貰う物だけは貰って。
今回の6者協議もそうだと思います。
本当、皆さん分かってくださっていると思います。
どうしようもないわが国日本に、年間で200回~3000回と言う不審船が列島に入り込んでいるんです。
そして密輸とか麻薬・スパイ工作を繰り返しているんです。
この日本でどうして可愛い子や孫やひ孫が安全に遊べますか?
青少年がヒロポンやコカインで侵されているんです。
脅かされているんです。
将来を台無しにされているんです。
本当に日本列島汚染されていると言っても過言では無いと思います。
街頭での署名活動の中で小さい子がなけなしのお小遣いをポトンと入れてくれたり、たどたどしい字で署名活動をしてくださいます。
私は感謝しながら断じてこの未来の子供たちが、安全に安心して暮らせる日本にしてやらなければならない。
その為に拉致被害者が犠牲になって今北朝鮮にいるんだ。
そして北朝鮮で拉致被害者が、「日本国よ、日本国民よ、真の国民になってくれ、目を覚ましてくれ」とい言って叫んでいるんじゃないかと思うんです。
拉致問題世論の後押しもう一歩 国家の誇り取り戻せ今
国民の皆様に呼びかけたいと思います。
いつもわが国に対しては、日本人の心の隙を付いて様々な画策をかけて挑戦して来ております。
憎くて不気味な無法国 テロ国家北朝鮮のならず者無知無能の金正日と私は叫びたいと思います。
悪の枢軸、北朝鮮の危険な男・金正日と、アメリカのブッシュ大統領も公言しています。
ブッシュ大統領に3回手紙を書きました。
助けてと頼みの綱はただ一人 三度(みたび)の便りに願いをこめて
悪は悪なんです。
悪を征して初めて正義は証明されると思います。
悪をのさばらせていては次はどのような事がこの日本に降りかかってくるか分かりません。
時間稼ぎをして、核やミサイルをだんだんだんだん作っているんです。
私は金正日だけのことを言ってるんで、北朝鮮一般民衆のことを悪く言ってるんじゃありません。
反対に、同じ星の下に生まれた北朝鮮の民衆です。
悪いのは金正日の独裁政権なんです。
その独裁政権の下から自由な人権重視される北朝鮮に一刻も早くなるようにと、私は願っているんです。
一刻も早く助け出してあげたいんです。
北朝鮮の人たちに自由を味わっていただきたいんです。
2002年10月17日、我が子との再会を果たせずに無念の涙で逝ったるみ子ちゃんのお父さん。
遺影の前で弔辞を読ませていただきました。
「必ず国際世論を高める戦いをして、るみ子ちゃんを羽田のタラップの下に降ろして見せるから安心して逝ってらっしゃい」
と私遺影の前で呼びかけました。
そして私の父ももう歩くことも出来ません。
こんなになった父を車椅子を押してでも。
修一がなけなしのお金で(母に)プレゼントした大島紬があります。
まだ一度も袖を通しておりません。
大島紬を着せて羽田のタラップの下で修一を迎えさせてやりたいなと思って、私もただそれだけで一生懸命頑張っております。
すみません。
高齢の両親を抱えた私たち家族のほか、横田代表ご夫妻、被害者家族には本当に時間が無いんです。
助けていただきたいんです。
国民の皆様にお願いするしかないんです。
世論をもう一度高めてください。
そして経済制裁の即発動を首相に糾弾していただきたいんです。
金正日が困る人や物・金をストップさせる経済制裁です。
共に戦っていただきたい。
お願いいたします。
もう待てないんです。
限界なんです。
今日はですね、他にいろんなことをぜひ藤沢の皆様にも知っていただきたいと思ったんですが、主人からそれは言うなって止められたので言えません。(会場笑い声)
過去30年近くです。
外務省や大物政治家、じゃなくて政治屋です。
一流新聞、左よりの人物から受けた様々な迫害が私たちにはあります。
なぜこんなにも拉致問題が放置されなければいけなかったのか?
原因、また北朝鮮に訪問した200人以上にも上る日本の国会議員が、必ずお土産に渡されたビデオテープがあります。
このビデオーテープの件、知っている限りは本当に時間があったら教えてあげたいですけど。
ベンジャミンって方が書いた「泥棒国家の完成」と言う本があります。
読んでいただくと本当に北朝鮮の悪(わる)が分かります。
ぜひ、買って読んでいただきたいと思います。(笑い声)
最後に私はさっき言いましたように短歌が大好きなので、短歌を作ることで自分を励ましたり家族を慰めたりしています。
短歌を作っていますので聞いてください。
極寒の地で24年目の冬を迎えました冬に作った短歌です。
巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け 春を信じて
北の果て君を偲びて幾年(いくとせ)か 老いたる母の皺(しわ)の重さよ
故郷(ふるさと)に思いを馳せる弟よ 救いの手立てに苛立ち募る
遅々として進まぬ二国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は
彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして
老いていく我が身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱(いだ)く夢見て
またしてもあの手この手の北の国 負けるものかと奮い立つあれ
彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
暖かな支援の声に涙する 千人力の思いを抱きて
弟よ君の姿を追い求め 声を枯らして叫ぶ日々かな
またしても騙され続ける日本国 国家の威信断固示せよ
風に舞う花の吹雪に君思う 我が家の桜も待ちに待ちたり
いつもこんな短歌を作って慰めています。
本当にですね。
もう一度皆さんにお願いしたいんです。
自分の国の国民を絶対に救うぞと。
一度も腹のそこから発してくださいません。
誰ですか?(会場内、小さな笑い声)
たまりません、もう。(小さな笑い声)
拉致被害者を無条件で直ちに帰せと、正当な要求を一度も突きつけたことのない人です。
北朝鮮に対して生存しているはずの人々に指一本触れたら承知しないぞと。
自国民の命を護るための言葉を一言たりとも発した事のない人です。
官僚のせいさい(?)丸投げで、政治のトップとして北朝鮮の嘘をひっくり返す意欲と迫力を、一度だって見せたことの無い人です。
なぜ?経済制裁を発動すると言ってくださらないんでしょうか?
さっき言いいましたように、北朝鮮の一般民衆が困るんじゃなくて、北朝鮮の金正日が困る制裁を発動せよと言ってるんです。
その経済制裁の発動が中々GOサインが出ません。
腹立たしくて地団太を踏んでおります。
本当にですね、私たちはこの一言でいいんです。
一言で向こうはどういうボールを投げ返してくるのか分からないんです。
だからいつも、一昨日14日ですか?
町村外務大臣に会いました。
小泉首相に
「小泉首相はいったい拉致被害者を救いたいのか?救いたくないのか?を聞いてください」
と、私は言ったんです。
それが全然見えないもんですから、問うてください。
小泉首相に問うてくださいといました。
それと
「町村外務大臣、あなたは日本の国がこんなにもコケにされて馬鹿にされているのに、腹が立たないんですか?」
と聞いたら、「コケにされておりません」と。
町村さんはそう仰いました。
だからもう町村外務大臣も期待していいのか?わかりません。(笑い声)
もう皆様に頼るしかないんです。
本当にどうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。(拍手)
話の花束ぴろんさんのテキストです。