第13回藤沢集会3
『斉藤文代さんのお話』
皆様、こんにちは。
私もなにか今日は藤沢の方に行かなければと言う気持ちで、昨日の夜は中々眠りにつけなくて。
また朝から主人の食事の支度をして、それで熊本の方から参りました。
松木薫の姉の斉藤文代です。
宜しくお願い致します。(拍手)
私の弟はスペインのマドリッドの方から、今度帰って来るであろうと言われているよど号犯の(田宮高麿の妻の)森(順子=よりこ)に拉致されたという事になっておりますけども。
よど号犯の事を考えたら本当に、私は本当に悔しくって毎日毎日それを考えたら病気になりそうなんですけども。
まだまだ私は毎日毎日いろいろな事で希望を持って頑張っております。
母も生きておりますし、まぁ父は亡くなりました。
でも父の分も私は一生懸命やっていけば、全部、今拉致されている家族が絶対に帰ってくるという気持ちで私も毎日行動しておりますけれども。
弟は私の8つ下なんですが、父は男の子が欲しくて欲しくて本当に期待してたんですね。
やっと出来た子なんです。
一番下の5番目に出来て。
もう母はそんなに、「もう私はいりません」と言う考えだったんですけども、父は男の子が何としても欲しいという事で、やっと出来た男の子で、そのときの母父の喜びと言うのは私たちは小さかったんですけど、その時の父の笑顔は今でも覚えておりいます。
本当に忘れられません。
「見なさい、男の子が出来たのよ」「みんなね弟だよ弟だよ」と父の顔が今でも浮かんで参ります。
でも父は平成2年に自宅の方で、母に手を差し伸べるようにして亡くなりました。
それも薫がいなくなりましてからもずい分と探し回って、仕事の合間。
仕事もしなければ私たち子供も育てなければなりませんので、仕事の合間を見まして東京に上京したり、いろんな所に外務省、いろんな所にお願いして探してくださいという事で。
父は頭がおかしくなっても本当に仕方が無いくらい、私はそうだと思いますけど。
一生懸命になってお願いに上がった、それは出来ない事で、出来なかったし。
また父が拉致されたと言う事を知って、今思えば父の気持ちも分からないで可哀想だったなぁと今でも思いますけれども。
でも今母が生きております、まだ。
何としてでも、病院に入院しておりますので、何としてでも薫また有本さん、めぐみちゃん、皆が帰って来ることを願いまして活動しておりますけど。
毎回毎回、年が明ける毎におめでとうございますって言葉が本当に言えないんです。
ここまで出てきて、また今年も解決出来なかったらどうしようって、お母さんが今年持つかなぁってそういう事しかない物ですから。
今の政治の内容を私たちは遠くの方で眺めたり、近寄って話を聞いたりしておりますが、拉致問題って日本の国・・・恥ずかしくないんだろうか?って私本当に思うんですよね。
政治家の方とお話していて、なぜこの問題解決ができないんだろう?って。
日本の国だけこんなことしてるんじゃないだろうか?と、本当に思います。
今日も飛行機の中でお隣に座られた方が、「あの、斉藤さん」って。
「なぜ日本がこれ解決できないんでしょうね?」って言うんですけど、私答え様が無くて。
それで、「郵政民営化より、拉致問題ですよね?」(拍手)って言って下さった事が嬉しくって。
「拉致問題を解決しなければ日本の恥ですよ」って、「僕はそう思いますよ」って。
「僕はいつもテレビなんかで拝見させていただいているけれど、じれったくってどうしたら良いか分からないし、でも国民は皆が応援しているという事だけは斉藤さん、覚えていてくださいね」
って言って下さったんですよ。
本当に私も有り難いですし、最後に飛行機降りる時もですね。
「本当に北朝鮮は(ミサイルを)飛ばしてきますか?」って聞くもんですから、「そんな事は絶対ありません、私はそんな事はしないって誓って言えます」って言ったんです。
そしたら、「あぁ、そうですよね、日本は何てだらしないんだろうね」って、「斉藤さん、またお会いしましょうね、頑張ってくださいね」って言って下さいました。
本当に私は皆さんのそういう気持ちで、毎日日々送らせていただいておりますけども、このような毎年毎年解決しないで、日本の国はこのままで終わらせられるんでしょうか?
これが解決しなければ、私は日本は駄目な国になってしまうと私は思っております。(拍手)
何としてでも、私の母にも会わせてあげたいと思っておりますし。
母は本当に、食事の時でも私時間のあるときは行くんですけど、皆様にお話すると可哀想でならないんですけど、母の・・・やっぱり話さずにはおられない可哀想な所もあるんですよね。
私の名前は忘れているんですけども、薫の事だけはいつも覚えていて、「ペンを貸していただけませんか?」っていうもんですから、私はノートとペンを出してやるんですよ。
そしたら、「何するの?」って言ったら、ペンを握って、今日持って来れば良かったんですけれども、「薫」って・・・(涙で言葉を詰まらせる)
それもこういう・・・それで「会いたい」って書いてあるんです。
で・・・最後に・・・「スナヨ」って書くんですけどね。
本当にもう・・・何を・・・政府はこんなに弟を・・・30年も26年もほったらかしにして、これで日本の国は良いんだろうか?って私本当に涙がこぼれます。(終始涙で声を詰まらせながらのお話)
可哀想で。
でもご飯を食べながらでも一生懸命生きようとする。
食べたくないといっても何としてでも食べさせて、必ず生きさせて、薫に会わせなければいけないという気持ちで私も看病しておりますので、「ご飯も一生懸命食べてね」って「必ず帰ってくるから」って毎日言っております。
ですから、本当に骨の件でも私は2度も骨を持たされました、うちの家族は。
私はそういうことでは絶対に負けないという気持ちがありますから、橋本先生にも、それを鑑定してくださった先生にも本当に良くして頂き。
あの、(骨の)良い所をちゃんとして鑑定して頂いたので、他人の物と言うのが分かりましたので。
私は何度突きつけられても本人の骨で無い限りは私は認めるわけには行きませんので、何としてでも薫達が帰ってくるまで私は頑張り通して、皆様のお力を借りして。
本当に私は無力なんです。
何にも出来ない、毎日毎日、どうしたら良いんだろう?と思っております。
そういう事で挫けていたら、今日は有本のお父さんのお話を聞いていて、私の父が生きていたら同じ事を言ってたんだな、と。
有本のお父さんの言うとおりだな、と思って聞いておりました。
だから私はより以上頑張って、少しでも皆さんが帰ってこれれば、本当にまた笑顔も、家族会の方々の少しの笑顔でも出てくればこれに越した事はないと思っておりますので。
全員帰って来ることが、それが一番望ましい事ですけども、例え何人でもという、私はいつもそういう気持ちでおります。
皆さん本当に何人かでも帰って来れますように、これからもずっと私たちの家族をこんなに泣かせるようなこと、日本政府にさせないように支えになってください。
私たちも一生懸命頑張りますのでどうぞ宜しくお願い致します。(拍手)
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『斉藤文代さんのお話』
皆様、こんにちは。
私もなにか今日は藤沢の方に行かなければと言う気持ちで、昨日の夜は中々眠りにつけなくて。
また朝から主人の食事の支度をして、それで熊本の方から参りました。
松木薫の姉の斉藤文代です。
宜しくお願い致します。(拍手)
私の弟はスペインのマドリッドの方から、今度帰って来るであろうと言われているよど号犯の(田宮高麿の妻の)森(順子=よりこ)に拉致されたという事になっておりますけども。
よど号犯の事を考えたら本当に、私は本当に悔しくって毎日毎日それを考えたら病気になりそうなんですけども。
まだまだ私は毎日毎日いろいろな事で希望を持って頑張っております。
母も生きておりますし、まぁ父は亡くなりました。
でも父の分も私は一生懸命やっていけば、全部、今拉致されている家族が絶対に帰ってくるという気持ちで私も毎日行動しておりますけれども。
弟は私の8つ下なんですが、父は男の子が欲しくて欲しくて本当に期待してたんですね。
やっと出来た子なんです。
一番下の5番目に出来て。
もう母はそんなに、「もう私はいりません」と言う考えだったんですけども、父は男の子が何としても欲しいという事で、やっと出来た男の子で、そのときの母父の喜びと言うのは私たちは小さかったんですけど、その時の父の笑顔は今でも覚えておりいます。
本当に忘れられません。
「見なさい、男の子が出来たのよ」「みんなね弟だよ弟だよ」と父の顔が今でも浮かんで参ります。
でも父は平成2年に自宅の方で、母に手を差し伸べるようにして亡くなりました。
それも薫がいなくなりましてからもずい分と探し回って、仕事の合間。
仕事もしなければ私たち子供も育てなければなりませんので、仕事の合間を見まして東京に上京したり、いろんな所に外務省、いろんな所にお願いして探してくださいという事で。
父は頭がおかしくなっても本当に仕方が無いくらい、私はそうだと思いますけど。
一生懸命になってお願いに上がった、それは出来ない事で、出来なかったし。
また父が拉致されたと言う事を知って、今思えば父の気持ちも分からないで可哀想だったなぁと今でも思いますけれども。
でも今母が生きております、まだ。
何としてでも、病院に入院しておりますので、何としてでも薫また有本さん、めぐみちゃん、皆が帰って来ることを願いまして活動しておりますけど。
毎回毎回、年が明ける毎におめでとうございますって言葉が本当に言えないんです。
ここまで出てきて、また今年も解決出来なかったらどうしようって、お母さんが今年持つかなぁってそういう事しかない物ですから。
今の政治の内容を私たちは遠くの方で眺めたり、近寄って話を聞いたりしておりますが、拉致問題って日本の国・・・恥ずかしくないんだろうか?って私本当に思うんですよね。
政治家の方とお話していて、なぜこの問題解決ができないんだろう?って。
日本の国だけこんなことしてるんじゃないだろうか?と、本当に思います。
今日も飛行機の中でお隣に座られた方が、「あの、斉藤さん」って。
「なぜ日本がこれ解決できないんでしょうね?」って言うんですけど、私答え様が無くて。
それで、「郵政民営化より、拉致問題ですよね?」(拍手)って言って下さった事が嬉しくって。
「拉致問題を解決しなければ日本の恥ですよ」って、「僕はそう思いますよ」って。
「僕はいつもテレビなんかで拝見させていただいているけれど、じれったくってどうしたら良いか分からないし、でも国民は皆が応援しているという事だけは斉藤さん、覚えていてくださいね」
って言って下さったんですよ。
本当に私も有り難いですし、最後に飛行機降りる時もですね。
「本当に北朝鮮は(ミサイルを)飛ばしてきますか?」って聞くもんですから、「そんな事は絶対ありません、私はそんな事はしないって誓って言えます」って言ったんです。
そしたら、「あぁ、そうですよね、日本は何てだらしないんだろうね」って、「斉藤さん、またお会いしましょうね、頑張ってくださいね」って言って下さいました。
本当に私は皆さんのそういう気持ちで、毎日日々送らせていただいておりますけども、このような毎年毎年解決しないで、日本の国はこのままで終わらせられるんでしょうか?
これが解決しなければ、私は日本は駄目な国になってしまうと私は思っております。(拍手)
何としてでも、私の母にも会わせてあげたいと思っておりますし。
母は本当に、食事の時でも私時間のあるときは行くんですけど、皆様にお話すると可哀想でならないんですけど、母の・・・やっぱり話さずにはおられない可哀想な所もあるんですよね。
私の名前は忘れているんですけども、薫の事だけはいつも覚えていて、「ペンを貸していただけませんか?」っていうもんですから、私はノートとペンを出してやるんですよ。
そしたら、「何するの?」って言ったら、ペンを握って、今日持って来れば良かったんですけれども、「薫」って・・・(涙で言葉を詰まらせる)
それもこういう・・・それで「会いたい」って書いてあるんです。
で・・・最後に・・・「スナヨ」って書くんですけどね。
本当にもう・・・何を・・・政府はこんなに弟を・・・30年も26年もほったらかしにして、これで日本の国は良いんだろうか?って私本当に涙がこぼれます。(終始涙で声を詰まらせながらのお話)
可哀想で。
でもご飯を食べながらでも一生懸命生きようとする。
食べたくないといっても何としてでも食べさせて、必ず生きさせて、薫に会わせなければいけないという気持ちで私も看病しておりますので、「ご飯も一生懸命食べてね」って「必ず帰ってくるから」って毎日言っております。
ですから、本当に骨の件でも私は2度も骨を持たされました、うちの家族は。
私はそういうことでは絶対に負けないという気持ちがありますから、橋本先生にも、それを鑑定してくださった先生にも本当に良くして頂き。
あの、(骨の)良い所をちゃんとして鑑定して頂いたので、他人の物と言うのが分かりましたので。
私は何度突きつけられても本人の骨で無い限りは私は認めるわけには行きませんので、何としてでも薫達が帰ってくるまで私は頑張り通して、皆様のお力を借りして。
本当に私は無力なんです。
何にも出来ない、毎日毎日、どうしたら良いんだろう?と思っております。
そういう事で挫けていたら、今日は有本のお父さんのお話を聞いていて、私の父が生きていたら同じ事を言ってたんだな、と。
有本のお父さんの言うとおりだな、と思って聞いておりました。
だから私はより以上頑張って、少しでも皆さんが帰ってこれれば、本当にまた笑顔も、家族会の方々の少しの笑顔でも出てくればこれに越した事はないと思っておりますので。
全員帰って来ることが、それが一番望ましい事ですけども、例え何人でもという、私はいつもそういう気持ちでおります。
皆さん本当に何人かでも帰って来れますように、これからもずっと私たちの家族をこんなに泣かせるようなこと、日本政府にさせないように支えになってください。
私たちも一生懸命頑張りますのでどうぞ宜しくお願い致します。(拍手)
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