※拉致問題を選挙の争点のひとつにするためにも、2002年9月17日を忘れないためにも、この文章をお読み下さい。
ドキュメンタリー漫画:めぐみ(後編)より
めぐみ13年間のアルバム~再び五人揃っての旅を~
取材・文 小山唯史
横田家は一家でよく旅をした。左下の写真は、佐渡へ旅行したときのもの。めぐみは小学校6年生だった。1976年夏。新潟に引っ越してきてすぐの夏休みだ。
佐渡における船の玄関口・両津港に近い加茂湖の国民宿舎に泊まり、翌日は島の西北部の相川方面へ。金の採掘で有名な佐渡金山を訪ね、尖閣湾では遊覧船を楽しんだ。
しかし、この旅が、一家揃った最後の旅となってしまう。翌年秋、めぐみは忽然と姿を消してしまったのだ。
自殺や家出の可能性も考えて、警察は、佐渡汽船の乗客名簿まで調べた。家族で旅した想いでの地を選んだかもしれないと。だが、名簿に、それらしき名は見あたらなかった。
北朝鮮による拉致だと分かるのはsっひっそうから20年もあとのことだ。それまでの間、滋も早紀江も、生殺しのような年月を生きてきた。事件が事故か。あるいは自殺か家出か。てがかりは何ひとつない。霧の中を手さぐりで歩むような無限の日々。滋も早紀江も、悲しみぬき苦しみぬいた。
失踪は1977年11月15日。めぐみは13歳。その時から横田家は旅をしない一家になった。「いつ、めぐみが戻ってくるかもしれない。そのときは、必ず家に居てあげたい」
滋も早紀江も思いは同じだった。
知り合いの結婚式、葬式・・・・どんな用事でも、夫婦一緒に出かけることはなくなった。どちらかが必ず家に残った。めぐみが何時帰ってきてもいいように、門灯は明るいものに換え、一晩中、つけっぱなしにした。新潟に住んでいるあいだ、一日もかかさず。
新潟に来る前の広島時代は、周辺の観光地へ、一家で本当によく旅をした。萩、津和野、宍道湖、浜田、大山・・・・・。計画は滋が立てた。「一番楽しかった時代」
滋も早紀江も、そして当時まだ幼かった双子の弟たちも、そう口をそろえる。そんなある年。バスに乗って山陰地方の海岸に行き、民宿に泊まって海水浴を楽しんだ帰りのこと。めぐみが、杭に鎖で繋がれている猿を長い棒でからかったことがある。まねして手を出した弟たちは、棒が短すぎたので猿につかまってしまった。頭の上に乗られて帽子を取られたり、ひっかかれたり。
めぐみは、その光景に大笑いしながらも、あわてて両親を呼んだ。哲也の膝には、いまもその傷が残っている。
そんな“痛い”体験も含め、旅の記憶の全てが輝いている。ただ一人“見知らぬ北の国”へ、自分の意思とは無関係に連れ去られためぐみの、今も帰路に付けずにいるその“長い旅”だけを除いて。
そして今、横田家は日本中を“旅”する一家となった、1997年、めぐみが北朝鮮にいると分かったときから。滋のメモ用紙には細かな文字で予定がびっしり記されている。どんな遠くの、どんな小さな集会にも駆けつけ、マイクを握り拉致問題を忘れないで」と訴える。
横田家の旅は終わらない。滋のメモ用紙に、五人揃った家族旅行の予定が、書き込まれる、その日までは。
ドキュメンタリー漫画:めぐみ(後編)より
めぐみ13年間のアルバム~再び五人揃っての旅を~
取材・文 小山唯史
横田家は一家でよく旅をした。左下の写真は、佐渡へ旅行したときのもの。めぐみは小学校6年生だった。1976年夏。新潟に引っ越してきてすぐの夏休みだ。
佐渡における船の玄関口・両津港に近い加茂湖の国民宿舎に泊まり、翌日は島の西北部の相川方面へ。金の採掘で有名な佐渡金山を訪ね、尖閣湾では遊覧船を楽しんだ。
しかし、この旅が、一家揃った最後の旅となってしまう。翌年秋、めぐみは忽然と姿を消してしまったのだ。
自殺や家出の可能性も考えて、警察は、佐渡汽船の乗客名簿まで調べた。家族で旅した想いでの地を選んだかもしれないと。だが、名簿に、それらしき名は見あたらなかった。
北朝鮮による拉致だと分かるのはsっひっそうから20年もあとのことだ。それまでの間、滋も早紀江も、生殺しのような年月を生きてきた。事件が事故か。あるいは自殺か家出か。てがかりは何ひとつない。霧の中を手さぐりで歩むような無限の日々。滋も早紀江も、悲しみぬき苦しみぬいた。
失踪は1977年11月15日。めぐみは13歳。その時から横田家は旅をしない一家になった。「いつ、めぐみが戻ってくるかもしれない。そのときは、必ず家に居てあげたい」
滋も早紀江も思いは同じだった。
知り合いの結婚式、葬式・・・・どんな用事でも、夫婦一緒に出かけることはなくなった。どちらかが必ず家に残った。めぐみが何時帰ってきてもいいように、門灯は明るいものに換え、一晩中、つけっぱなしにした。新潟に住んでいるあいだ、一日もかかさず。
新潟に来る前の広島時代は、周辺の観光地へ、一家で本当によく旅をした。萩、津和野、宍道湖、浜田、大山・・・・・。計画は滋が立てた。「一番楽しかった時代」
滋も早紀江も、そして当時まだ幼かった双子の弟たちも、そう口をそろえる。そんなある年。バスに乗って山陰地方の海岸に行き、民宿に泊まって海水浴を楽しんだ帰りのこと。めぐみが、杭に鎖で繋がれている猿を長い棒でからかったことがある。まねして手を出した弟たちは、棒が短すぎたので猿につかまってしまった。頭の上に乗られて帽子を取られたり、ひっかかれたり。
めぐみは、その光景に大笑いしながらも、あわてて両親を呼んだ。哲也の膝には、いまもその傷が残っている。
そんな“痛い”体験も含め、旅の記憶の全てが輝いている。ただ一人“見知らぬ北の国”へ、自分の意思とは無関係に連れ去られためぐみの、今も帰路に付けずにいるその“長い旅”だけを除いて。
そして今、横田家は日本中を“旅”する一家となった、1997年、めぐみが北朝鮮にいると分かったときから。滋のメモ用紙には細かな文字で予定がびっしり記されている。どんな遠くの、どんな小さな集会にも駆けつけ、マイクを握り拉致問題を忘れないで」と訴える。
横田家の旅は終わらない。滋のメモ用紙に、五人揃った家族旅行の予定が、書き込まれる、その日までは。