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1977年という年

2005-09-03 | フレーズ
ドキュメンタリー漫画:めぐみ(後編)より
めぐみ13年間のアルバム
取材・文 小山唯史

1977年という年
めぐみは卒業式の謝恩会で「流浪の民」を歌う。
独唱したソプラノの歌詞は「なれし故郷を放たれて」だった。

横田家にとって絶対忘れられない年・・・1977年、昭和52年。前年末に福田内閣が誕生し、北海道では有珠山が爆発、巨人の王貞治が796号の本塁打記録を作った年だ。

その1977年の始まりは、横田家にとっても穏やかなものだった。正月、めぐみは玄関前で雪を背景に和服姿の写真を撮っている。(下写真)早紀江が「お母さんの若い頃の着物があるから、お正月だし、それを着て写真に撮っておかない?と言い出して写したものだ。

赤と白の大きな市松模様。髪は和服用に後ろに束ねた。めぐみは「わあ、私って、こんなに素敵だったんだあ」と、はしゃぎ、早紀江は「あら、厚かましい」と笑った。小学校最後の冬休みのことだ。

3月、コーラス部だっためぐみは卒業式の謝恩会で『流浪の民』を歌う。独唱したソプラノの歌詞は「なれし故郷を放たれて」だった。

4月、新潟市立寄居中学校に入学。めぐみは風疹で入学式を欠席する。入学式と始業式の間の日曜、父親の滋は「さくらの散らないうちに」と記念撮影にめぐみを連れ出した。中学の制服姿で。その写真の中で、病後のめぐみは寂しげな顔をしている。

失踪後の捜索に使われたのは、その写真。明るかっためぐみが、内気そうな少女として人々の目に触れることになったのは、そのためだ。

中学ではバトミントン部に。長年習っていたバレエは、『花のワルツ』を踊った8月の公演を最後に、やめた。部活に専念するために。

新潟での二度目の夏。早紀江は中学生になっためぐみのために浴衣を縫う。紺地に赤と緑と黄色の花柄。

その浴衣を着て、めぐみは夏祭りに。佐渡おけさ、新潟甚句・・・・「新潟まつり」の大民謡流しは阿波踊りにも劣らない大規模なものだ。地元企業も会社ぐるみで参加する。滋も日銀新潟支店の一員として菅笠をかぶり、踊りの隊列に。だが、滋の菅笠のヒモがほどけてしまう。余り器用とは言えない滋は、なかなかヒモを結び直せない。

その光景を、電話ボックスの横で早紀江らと見つめていためぐみ。
「どうする?お父さん、まだ結べないよ。大丈夫?でも、ここでお母さんが出ていって結んであげたら、もっとカッコ悪いし・・・」

ハラハラし続けていた。母の手縫いの浴衣を着て、父を案ずる娘。大人への階段を上り始めていた。

やがてカレンダーは秋を告げる。

10月5日、めぐみの13才の誕生日。
11月14日、滋の45歳の誕生日には、携帯用の櫛をプレゼントした。「お父さん、これからはオシャレにも気をつけてね」という言葉を添えて。

その翌日のことだったのだ。めぐみが忽然と消えてしまったのは。

けなげに、他の多くの少女達と同じように、平凡ながら夢いっぱいに生きていた、めぐみ。その先にも続くはずだった。“未来の暦”を突然引きちぎった拉致━━

今早紀江は川崎の自宅で、季節ごとにめぐみの写真を選び、額に入れて居間置いている。いつでもめぐみと一緒にいるために。

正月に飾るのは、いつも和服姿のめぐみだ。1977年、あの年を希望の中で迎えためぐみだ。

 

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