「まだ見ぬ母」思い複雑
拉致被害者家族会メンバーの多くは、共有体験を持つ子どもやきょうだいとの再会を目指して活動している。だが、拉致被害者・田口八重子さん(当時23歳)の長男、飯塚耕一郎さん(30)だけは状況が異なる。
「講演会では母の救出を訴えます。でも、私は八重子さんのことを知らない。記憶にないんです」。耕一郎さんは、自分が1歳の時に拉致されてしまった母への複雑な思いを吐露する。
八重子さんが拉致された後、長兄の飯塚繁雄さん(69)が耕一郎さんを引き取り、20歳を過ぎるまで、拉致被害者の子どもであることを知らせずに育ててきた。だから、耕一郎さんは、実母のことを「八重子さん」と呼んでしまう。
「母親の欄にある田口八重子とは、一体どんな人なのか。なぜ、教えてくれなかったのか」
1998年秋、耕一郎さんはパスポート取得のために取って戸籍謄本を見て、自分が養子であることを知った。1週間悩んだが、耕一郎さんは意を決し、父である繁雄さんに「自分の本当の両親はだれなのか」と尋ねた。
繁雄さんは「いつかは言わなければいけないこと」と、耕一郎さんを近くのすし屋に連れ出した。カウンターから離れたテーブルに耕一郎さんを座らせ、静かな口調で話し始めた。「八重子」は、自分の一番下の妹で、北朝鮮による拉致被害者であること。大韓航空機爆破事件の金賢姫・元死刑囚の日本語教育係「李恩恵」とみられることなど。
さらに、繁雄さんは、いつも持ち歩いていた手帳から八重子さんの白黒写真を取り出し、「これがお前の母だ」と、息子にそっと差し出した。
「自分の中で吸収できない事実ばかりだった。ああ、そうなんだとしか言えない。すべてが上の空の状態が2,3年は続いた」。耕一郎さんは振り返る。
北朝鮮は2002年9月、八重子さんについては「86年に死亡」と説明した。それ以降、八重子さんの安否はまったくわからなくなった。
それまでは、繁雄さんとは「家族会というのがあるんだね」という会話を交わしたことはあった。ただ、八重子さんが拉致被害者であっても、大韓航空機事件にかかわったかのような報道もあり、「とても家族会に入って活動するような環境ではなかった」(繁雄さん)という。
しかし、02年以降、拉致問題はなかなか進展しない。耕一郎さんは、そんな状況を打破しようと、04年2月、参加を決めた。
同じころ、耕一郎さんは政府に金元死刑囚への手紙を託した。「まだ見ぬ母親像をはっきりさせたいから、ぜひ会いたい」と訴えるが、韓国にいるとされる彼女からの返事はない。
家族会に入って3年が過ぎた。横田滋さん(74)、早紀江さん(71)夫妻の魂の入った言葉など、これまでに、多くの家族会メンバーの姿に刺激を受けた。家族会のなかでは最年少。「自分はそこまでできていない。八重子さんに申し訳なく思う」と漏らす。
八重子さんは、耕一郎さんと長女を、東京・高田馬場にあるベビーホテルに預けたまま拉致されてしまった。
耕一郎さんは先月から、勤務先の合併に伴い、高田馬場にあるオフィスで働くことになった。29年前の「原点」で、自分ならばどんな活動ができるのか、模索する日々が続く。
(読売新聞 2007年7月6日朝刊 社会部・石間俊充)
拉致被害者家族会メンバーの多くは、共有体験を持つ子どもやきょうだいとの再会を目指して活動している。だが、拉致被害者・田口八重子さん(当時23歳)の長男、飯塚耕一郎さん(30)だけは状況が異なる。
「講演会では母の救出を訴えます。でも、私は八重子さんのことを知らない。記憶にないんです」。耕一郎さんは、自分が1歳の時に拉致されてしまった母への複雑な思いを吐露する。
八重子さんが拉致された後、長兄の飯塚繁雄さん(69)が耕一郎さんを引き取り、20歳を過ぎるまで、拉致被害者の子どもであることを知らせずに育ててきた。だから、耕一郎さんは、実母のことを「八重子さん」と呼んでしまう。
「母親の欄にある田口八重子とは、一体どんな人なのか。なぜ、教えてくれなかったのか」
1998年秋、耕一郎さんはパスポート取得のために取って戸籍謄本を見て、自分が養子であることを知った。1週間悩んだが、耕一郎さんは意を決し、父である繁雄さんに「自分の本当の両親はだれなのか」と尋ねた。
繁雄さんは「いつかは言わなければいけないこと」と、耕一郎さんを近くのすし屋に連れ出した。カウンターから離れたテーブルに耕一郎さんを座らせ、静かな口調で話し始めた。「八重子」は、自分の一番下の妹で、北朝鮮による拉致被害者であること。大韓航空機爆破事件の金賢姫・元死刑囚の日本語教育係「李恩恵」とみられることなど。
さらに、繁雄さんは、いつも持ち歩いていた手帳から八重子さんの白黒写真を取り出し、「これがお前の母だ」と、息子にそっと差し出した。
「自分の中で吸収できない事実ばかりだった。ああ、そうなんだとしか言えない。すべてが上の空の状態が2,3年は続いた」。耕一郎さんは振り返る。
北朝鮮は2002年9月、八重子さんについては「86年に死亡」と説明した。それ以降、八重子さんの安否はまったくわからなくなった。
それまでは、繁雄さんとは「家族会というのがあるんだね」という会話を交わしたことはあった。ただ、八重子さんが拉致被害者であっても、大韓航空機事件にかかわったかのような報道もあり、「とても家族会に入って活動するような環境ではなかった」(繁雄さん)という。
しかし、02年以降、拉致問題はなかなか進展しない。耕一郎さんは、そんな状況を打破しようと、04年2月、参加を決めた。
同じころ、耕一郎さんは政府に金元死刑囚への手紙を託した。「まだ見ぬ母親像をはっきりさせたいから、ぜひ会いたい」と訴えるが、韓国にいるとされる彼女からの返事はない。
家族会に入って3年が過ぎた。横田滋さん(74)、早紀江さん(71)夫妻の魂の入った言葉など、これまでに、多くの家族会メンバーの姿に刺激を受けた。家族会のなかでは最年少。「自分はそこまでできていない。八重子さんに申し訳なく思う」と漏らす。
八重子さんは、耕一郎さんと長女を、東京・高田馬場にあるベビーホテルに預けたまま拉致されてしまった。
耕一郎さんは先月から、勤務先の合併に伴い、高田馬場にあるオフィスで働くことになった。29年前の「原点」で、自分ならばどんな活動ができるのか、模索する日々が続く。
(読売新聞 2007年7月6日朝刊 社会部・石間俊充)