市川健一さんのお話 1
皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの~、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。
弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。
当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。
で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4~5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。
私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの~学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。
たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。
父も仕入れですとか配達の時なんかに修一を車に乗せまして、連れ回しておりました。
修一が高校時代だったと思うんです。
こっそりと運転させて練習させておりました。
本当に高校3年になった時はすっごく上手になってたんですよね。
今そんなことしたら大変なんですけども、まぁその頃私どもの田舎ではそんなに厳しい取り締まりは無かったからそれを利用して上手になったんだと思います。
修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。
親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、いろいろと手伝いをしておりました。
そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。
大捜索にも関わらず、何も見つからず何も進展しないまま、捜索が打ち切られてしまいました。
日々悶々とした思いで月日が過ぎていきましたけども。
私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。
兄である私がこういう気持ちですがね。
ですから親としては本当に身を切られる思いだったと思います。
それから失踪からですね、2年後だったと思うんです。
東京の新聞記者の方(産経新聞の阿部雅美氏)から聞かされ、その時初めて私は全国各地でアベック失踪事件が起きているのを知りました。
それまでは修一は神隠しにあったんじゃないか?
あるいはUFOに連れて行かれたんじゃないか?
そういうことばかり思っておりました。
富山県でのアベック未遂事件で残された遺留品。
これから見て、おそらく修一さんも北朝鮮に拉致されている可能性が強いと言われました。
以前から拉致、北朝鮮に連れて行かれたんじゃないだろうか?と言う疑惑はありましたけれども、この話を聞いて絶対に北朝鮮に拉致されたんだと、確信を持ちました。なぜ?北朝鮮に連れて行かれたのか?
何の目的なのか?
全然分かりませんでした。
北朝鮮に拉致されたとしても、生きているのか?死んでいるのか?
本当に生死の分からない、これほど辛いものはありません。
弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私のね家では一切、あの~皆思ってるんですけども口には出しませんでした。
口に出していうとお袋が涙をいっぱい流し、また悲しそうな顔をするもので、本当にね長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。
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皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの~、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。
弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。
当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。
で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4~5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。
私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの~学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。
たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。
父も仕入れですとか配達の時なんかに修一を車に乗せまして、連れ回しておりました。
修一が高校時代だったと思うんです。
こっそりと運転させて練習させておりました。
本当に高校3年になった時はすっごく上手になってたんですよね。
今そんなことしたら大変なんですけども、まぁその頃私どもの田舎ではそんなに厳しい取り締まりは無かったからそれを利用して上手になったんだと思います。
修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。
親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、いろいろと手伝いをしておりました。
そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。
大捜索にも関わらず、何も見つからず何も進展しないまま、捜索が打ち切られてしまいました。
日々悶々とした思いで月日が過ぎていきましたけども。
私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。
兄である私がこういう気持ちですがね。
ですから親としては本当に身を切られる思いだったと思います。
それから失踪からですね、2年後だったと思うんです。
東京の新聞記者の方(産経新聞の阿部雅美氏)から聞かされ、その時初めて私は全国各地でアベック失踪事件が起きているのを知りました。
それまでは修一は神隠しにあったんじゃないか?
あるいはUFOに連れて行かれたんじゃないか?
そういうことばかり思っておりました。
富山県でのアベック未遂事件で残された遺留品。
これから見て、おそらく修一さんも北朝鮮に拉致されている可能性が強いと言われました。
以前から拉致、北朝鮮に連れて行かれたんじゃないだろうか?と言う疑惑はありましたけれども、この話を聞いて絶対に北朝鮮に拉致されたんだと、確信を持ちました。なぜ?北朝鮮に連れて行かれたのか?
何の目的なのか?
全然分かりませんでした。
北朝鮮に拉致されたとしても、生きているのか?死んでいるのか?
本当に生死の分からない、これほど辛いものはありません。
弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私のね家では一切、あの~皆思ってるんですけども口には出しませんでした。
口に出していうとお袋が涙をいっぱい流し、また悲しそうな顔をするもので、本当にね長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。
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