「その場で振り掛かってきた事を、精いっぱいやって、自分に出来る限りのいい音楽をする事によって、いろんな事がなんとか運んできた」。こちらは指揮者の小澤征爾さんが半生を振り返り、その感想を述べた時の言葉だ。さて巨匠は、1935年(昭和10年)9月1日に満洲国奉天市(現:中華人民共和国瀋陽市)生まれている。父、開作は歯科医師であり、満洲国協和会創設者の一人である。その同志に満洲事変の首謀者となった板垣征四郎と石原莞爾が居り、一字ずつ貰って「征爾」と命名したとWikipediaにあった。なかなか曰くつきだ。さてその言葉だが、精一杯に苦難に立ち向かい、道を切り開く。長い人生、それでどうにか物事を運んだ経験は、誰しも色々とあるものだ。そんな事を改めて思ったりする。巨匠不在と言われる昨今だが、今や大時代も終わり、本当に大物が居ない。それはどの業界にも言える事だ。グローバルと言う言葉がある。早い話が無個性化であり、平均化だ。御国訛りが消えていく。それは方言ばかりではないのだ。音楽の話に戻るが、昔は各国のオーケストラなんぞは、頭の一音を聞いただけで、何処のオーケストラかが解ったものだ。奏法も様々だった。指揮者も然りで本当に皆、個性満開だった。「譜面に忠実」なんて言葉があるが、それとて人によって読み方が違う。それが個性だ。しかしながら現在の音楽教育に於いても、やはりグローバル化が進む。
大指揮者格のマスタークラスで、徹底的に音楽の構造論に拘り、指揮者を志す学生に教えていた名匠が居た。セルジュ・チェリビダッケと言う指揮者だが、つまり"構成が解れば楽曲の解釈も解る"と言う事。それは正しいと思う。そこで巨匠、小澤征爾氏をディスる訳でもないが、巨匠は自身のリズム感やアクセントを押し付ける傾向があり、そこが疑問だった。実際に巨匠から教えを得た学生は、後に指揮者になった時、皆一様に小澤さんそっくりの演奏をする。それを刻印として聴くかは人それぞれだが、小生は、客観的に音楽の構造理論を徹底的に叩き込む教え方に賛成だ。巨匠の音楽性は確かに素晴らしいが、何か勘違いをしておられる。さて趣味の方だが、TRIOのカセットデッキが満足に聴けるようになった途端、SONYのサブ機が沈没だ。今まで故障のひとつすらない機種なのだ。(調べてみたら動力系回路のフィルムコンデンサが飛んでいた。)なのでTRIOの方をメインにすべく、全ての調整を済まさなければならなくなった。正に「このタイミングで?」である。これも転機か?
さて今日は【建国記念日】である。官邸から岸田総理のコメントが発表されたが、色々と突っ込み処が満載だ。此処ではいちいち取り上げるのも面倒なのでやめておくが、否定したものを肯定するような内容で、言ってて、そのギャップに「恥ずかしくならないのか?」と思う程だ。
「建国記念の日」を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ
https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/discourse/20240211message.html
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