ボナさんの北海道の釣り三昧II(休養中)

投げ釣り主体に北海道の沿岸に出かけます。夏にはフナや鯉釣りも。

「石狩川」と小樽

2012-07-13 12:35:35 | 釣り
本庄陸男の歴史小説「石狩川」は、戊辰戦争に敗れた東北列藩同盟のうちで伊達藩の支藩岩出山の武士団と家族が石狩川の北にあるシップに移住し、農作物の育たない砂地で飢えの為に辛い冬を送り、やがて余市に定着した会津藩の開拓予定地になっていた今の当別町を譲り受け、シップから再度移り住み開拓した物語である。私が、はじめのころ、北海道への移住と開発に釣りを加えたブログとして開いていたいきさつがあった。「陸」「睦」と多くの書物で入り混じっているが、小説「石狩川」では陸男、「本庄陸男の研究」の著者布野栄一先生(札幌大学木村元学長から紹介された)も陸男としている。画像をクリックすると拡大します。

先日訪れた朝里川温泉のホテルで「月刊おたる」7月号を開いて驚いた。小説「石狩川」の中で札幌へ連絡係として出向く途中で石狩川に呑み込まれた祐筆玉目三郎(記録係)のモデルとなった鵙目貫一郎が、病弱だったこともあって、実際には当別と岩出山支藩などの連絡係として小樽に移り住み小樽の学問の創設に貢献したことが語られている。以前、このブログに鵙目の子孫がコメントを何度か寄せて呉れた。

パレット「鵙目先生のころ」(睦男になっている)として、小樽市立量徳小学校のことが書かれている、作者不詳。明治6年(1873)9月25日の開校であったが、今年の3月に閉校した。岩出山から最初の踏査隊の一員として鵙目が北海道に渡ったのは明治3年(1870)、その際の記録は「従駕日録」として残されている(下の写真は「抄」、布野先生の著書より)。当時の札幌の人口は184人。小樽は3000人ほどだった。明治4年に家族とともに小樽にやってきて、翌年明治5年に新政府が学制発布。開拓使役人が鵙目に小樽学校見込書を提出させ明治6年に小樽郡郷学所と発足したのが量徳小学校の前身で鵙目は初代教授となった。

開拓使は造らせたが、経済的援助はせず公立だからと謝礼、入学金もとらせなかった。食べて行けず、妻が浜人夫相手の茶屋を出すほどの苦境に陥り半年で教授を退き塾を開くが貧乏と縁が切れなかった。当別の郷党が助け船を出して、石狩教育所(当別小学校の前身?)を開設し、教授になるよう家老だった吾妻らが計ったが明治10年に病没している。苦境の一因に当時、子弟の教育に積極的でなかった小樽の住民意識が垣間見える。嬉しいことに、その後、鵙目の子孫は小樽の教育の先駆者として開校記念式典には招待されていたのは救いである。




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