中間派ジャズ考
Thoughts on The Mainstream jazz
中間派ジャズとは何か?そもそも演奏的にはスウィング・ジャズと変わらないのではないか?しかも中間派という呼称は日本でしか通用せずメインストリーム・ジャズが正式な名称なのではないか?
ジャズをよく知る人の中には、こんな疑問を抱いたことのある人もいるかもしれない。
ここでは、大和明氏(やまと あきら 1936-2008 日本屈指のジャズ評論家。1970年代を代表するラジオ・ジャズ番組「NHK-FM ジャズ・フラッシュ」の解説者。)の「ヴァンガード・ジャズ・ショウケース論」をベースにしつつ、カンサス・シティ・ジャズの立役者でテナー・サックス奏者のレスター・ヤングの関わりを踏まえながら、中間派ジャズの性格についてその魅力や成立を把握する。基本的な考え方としては、『200ジャズ語事典(改訂新版)』『ヴァンガード・ジャズ・ショウケース論(大和 明)』『A HISTORY OF jazz / ジャズの歴史物語(油井 正一)』『バードは生きている(ロス・ラッセル)』などの引用やYoutube音源を使い中間派ジャズについて理解する。(S.I.H. - Sometines I'm Happy)
【資料・引用】
『200ジャズ語事典(改訂新版)』 200ジャズ語事典編集委員会
(出版社:学研プラス 発行:2007/3/22)
<中間派>
スウィング時代の未期からモダン・ジャズへの過渡期に、主としてコンボで行なわれたスウィング・セッションを指す。この言葉の命名者はかってジャズ評論家として活躍した大橋巨泉。
欧米ではメインストリーム・ジャズと呼ばれている。30年代初頭のカンサス・シティで行なわれたジャム・セッションに端を発し、40年代に入ると、マンネリズムとコマーシャリズムに陥った白人ビッグ・バンド・スウィングへの批判勢力として、主として黒人の優れたプレイヤーたちが行なったコンボ・セッションである。40年代といえば、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーらによってビ・バップがジャズの新興勢力として台頭しつつあり、その反動的現象として古い創生期のジャズへのノスタルジアがニューオリンズ・リバイバルを起こしつつあった。「オール・アメリカン・リズム・セクション」との異名を持ったカウント・ベイシー楽団のリズム・セクションを模範とし、その上に自由なアドリブを展開しようというものの原則として綿密な編曲はなく、いわゆる最低限の打ち合せだけによる「ヘッド・アレンジ」で、ジャム・セッションに興じたのである。代表的作品はヴァンガード・レーベルに多いが、なかでも「ヴィック・ディッケンソン・ショウケース』は傑作の誉れ高い作品。一般的な人気はイマイチだが、通ぶってくるとこのあたりに落ち着くファンも多い。
▶使用例
「ジャズの入門者って、ダンモが多いけど行き着く先は中間派なんだよな」
「フリーとスウィングしか聴かないくせに・・・・・」
【資料・引用】
『ヴァンガード・ジャズ・ショウケース論』 大和 明
出典:Webmaster'sChoice all rights reserved_VANGUARD JAZZ SHOWCASE
ヴァンガードのジャズ・ショウケースはいわば中間派ジャズの宝庫といえる。それらの中でも中間派ジャズの代名詞とでもいうべきアルバムがヴィック・ディケンソン・セプテットによる演奏だ。これは1953年12月29日とその約1年後の1954年11月29日の二度に亘って録音されたセッションで、それぞれ10インチ盤LP2枚ずつの計4枚のLPにまとめられて発売され、そのいずれもが絶賛を浴びた。のちにそれぞれのセッション毎に12インチLPにまとめられた。
そもそも中間派ジャズという用語は大橋巨泉氏の提唱によって定着したわが国において使われたジャズ用語で、欧米ではこれをメインストリーム・ジャズ(主流派ジャズ)と呼んでいるが、この用語では意味するところが曖昧で、造語としては中間派という用語の方が優れているように思う。
それでは中間派ジャズとはどういうようなジャズかというと、40年代前半のスウィング末期から50~60年代のモダン・ジャズ時代に至る過渡期に、黒人スウィング・ジャズメンを主体として行われたジャム・セッション形式によるコンボ演奏を指している。これは初期ジャズの三本柱である黒人たちによるニューオリンズ・ジャズ、ハーレム・ジャズ、カンサス・シティ・ジャズと、バップが発展しモダン・ジャズの主流となっていったハード・バップの中間にあって、両者をつなぐ重要な架け橋となったジャズという意味を強調してつけられた用語なのである。
この初期ジャズとモダン・ジャズとの間にはスウィング・ジャズという用語がすでに定着しているではないかと反論されそうだが、ともするとスウィング・ジャズという用語は白人ビッグ・バンドからダンス・バンド的なものまで含めた広範囲な使い方がされているので、初期ジャズからモダン・ジャズに移行する過程で重要な役割を果たしたのは、あくまでもジャズ本来の真髄を伝えてきた黒人ジャズメンによるインプロヴィゼーションを主体としたスウィング・コンボ・セッションということを強調する意味が込められていたのであった。
こういった形式による中間派ジャズは、1940年代前半に雨後のたけのこのように出現した多くのマイナー・レーベル(キーノートやシグネチャーなど)や、それ以前からあるマイナー・レーベル(コモドアやブルーノートなど)によってスウィング末期の40年代半ばに次々と録音されていった。いわばこれが中間派ジャズの第一期黄金時代といってよいだろう。この時期は白人ビッグ・バンド・スウィングの衰退期であり、またビ・バップがジャズの新興勢力として台頭しつつあり、一方ではその反動的現象として創生期のジャズを見直そうというニューオリンズ・リバイバルが起きつつあった。
そういった状況の中でベテランの黒人ジャズメンの多くはビバップに馴染むこともできず、といって古い創生期のジャズに後退する気にもなれず、ここにスウィング全盛期にビッグ・バンド演奏における制約によってアドリブの腕前を思う存分発揮できなかった彼らは、オール・アメリカン・リズム・セクションとまでいわれたカウント・ベイシー楽団のリズムを模範とし、その上にくつろいだ自由なアドリブを繰り広げていったのである。それゆえ原則として編曲はなく、その場の簡単な打合せでまとめるヘッド・アレンジによってジャム・セッションを展開したのである。
ところで50年代に入り、世の中はモダン・ジャズ一辺倒の時代になったとき、再びこの種のジャズ・ブームが起こり、中間派ジャズの第二期黄金時代を迎えることになる。それはLP時代の到来によって、高音質による長時間録音が可能になったことがきっかけとなっていた。ここにジャズ界の名タレント・スカウトであり、またジャズ評論やレコーディング・プロデューサーとしての手腕を振るっていたジョン・ハモンド氏がヴァンガード・レコードで次々と中間派ジャズの制作に乗り出したのである。当時、同レーベルは最良のハイファイ録音を誇っており、そのスタジオに中間派ジャズメンを集め、LPの特色を生かした演奏時間の制約のない、くつろいだ雰囲気による自由なジャム・セッションによるプレイを行わせたのである。
また彼は、ほぼ同時にコロムビア・レコードでジョージ・アヴァキアンがプロデュースしたバック・クレイトンを中心とした一連の中間派ジャム・セッションのシリーズにも協力し、ここに中間派ジャズの第二期黄金時代の到来をみたのであった。(1991)
【参 考】
Vic Dickenson – The Vic Dickenson Showcase
I Cover the Waterfront 1953.12.29
VIC DICKENSON_VANGUARD JAZZ
Walter Page (Bass), Edmond Hall (Clarinet), Les Erskine (Drums), Steve Jordan (Guitar), Sir Charles Thompson (Piano), Vic Dickenson (Trombone), Ruby Braff (Trumpet)
中間派ジャズは前述の大和明氏の説明の通り、「40年代前半のスウィング末期から50~60年代のモダン・ジャズ時代に至る過渡期に、黒人スウィング・ジャズメンを主体として行われたジャム・セッション形式によるコンボ演奏を指している。」中間派の代表的演奏者はヴァンガード・レコードによってヴィック・ディッケンソンが有名になったが、トランペット奏者のルビー・ブラフなども録音技術が飛躍的に良くなった50~60年代にリーダー・アルバムを録音し活躍しており中間派の第二次ブームの立役者になった。ただし、これはメイン・ストリーム・ジャズの威力というよりもスウィング・ジャズ時代のあたたかい演奏へのノスタルジーだったと思える。
本来のスウィング末期の中間派には、カウント・ベイシーをはじめとした面々が揃っており、カンサス・シティのジャズを大いに盛り上げていた。そこにはチャーリー・パーカーに影響を与えたレスター・ヤングがおり、当時のテナー・サックス奏法の王道を行っていたコールマン・ホーキンズと異なる演奏法によってモダン・ジャズへの潮流を生み出していた。中間派ジャズが単にノスタルジックな時代を蘇らせるだけのプレイではないことが、次のくだりを読むことで理解できる。(S.I.H.)
【資料・引用】
『A HISTORY OF jazz / ジャズの歴史物語』 油井正一・著
(発行所:株式会社スイング・ジャーナル社 発行:1977/3/25 第六版)
<レスター・ヤング>
一九三四年春ベイシー楽団と共にリトル・ロックに巡業していた時、フレッチャー・ヘンダーソンから手紙で「いい給料を出すから来てくれないか?」といって来た。コールマン・ホーキンズがヨーロッパに行くためやめた、というのである。レスターはニューヨークのコットン・クラブにゆき、ヘンダーソンのオーディションをうけた。
その場に居合わせたジョン・ハモンドの回想ー「今までに聴いたこともないすばらしいテナー奏者だった。だれにも似ていない。だが反響はひどいものだった。バンドのメンバーは口を揃えて、ホークの後任なら最も似ているチュー・ベリーを入れるべきだしといったのだ。レスターの音はまるでアルトだ…とジョン・カービー(b)、ラッセル・プロコープ(as)、バスター・ベイリー(a)たちはガッカリしていた」
一九六六年エリントン楽団の一員として来日したラッセル・プロコープをつかまえて、「なぜあの時レスターに総スカンをくわせたのだろう。あの新しいフレージングがあなた方にわからなかったためだろうか?」ときいてみた。プロコープは見るのも気の毒なほどテレて、「わからなかったわけじゃない。あれはあれで当時も立派なスタイルだと思っていた。だがわれわれはホーキンズに似ている人を必要としたんだ。それだけだったんだ」と答えた。
ハモンドの言葉に出てくる三人のミュージシャンはスイング時代の末期、不材の都会派コンボ「ジョン・カービー・セクステット」をつくったメンバーである。「わからなかったわけじゃない」というプロコープの言葉その通りだと思う。わかっていながら反発に出た彼らが、それから数年後にはレスターの音楽のように洗練度を感じさせるコンボをつくった人たちであるところに、この時代における黒人心理状態の急速な変化を感じるのである。
レスターはそれでもヘンダーソン楽団に三~四か月はいた。
レスターの回想ー「バンド全体が私を白い眼でにらんだ。ホーキンズのあとがまにやとわれながら、ホークの音色を持ちあわせていなかったからー。当時、私はヘンダーソンの家に下宿していた。ヘンダーソン夫人は朝早く私を起とし、ホーキンズのレコードをきかせてくれたものだ。そうすることによって私がホーキンズのように吹けることを期待していたにちがいない。私は自分流に吹きたかったのだが、黙って聴き入っていた。彼女の気持を傷つけたくなかったのでー。とうとう私はヘンダーソンに辞任を申し出た。ただし、決してクビになったのではないという書面はもらい、カンサス・シティに戻った。私は私なりに音楽へのビジョンをもっていたし、いつもそれに従って吹いてきた。今考えると、私流に吹くなーと他人から強制されたことは、あとにもさきにもこの時だけだったんだ」
その後カンサス・シティおよびミネアポリスの二、三のバンドを経て、三六年にカウント・ベイシーの許に帰った。カウント・ベイシー楽団におけるレスター・ヤングは、彼の絶頂期にあり、どれを聴いてもすばらしい。
しかしここで重点としたいのは、どのレコードの、どのソロがすばらしいといったことではなく、彼のプレイの特徴がどのようなものであり、それが後世にどのように影響していったかということである。
レスター・ヤングが現われるまでテナー・サックスにはコールマン・ホーキンズ流の吹き方しかなかった。男的なフル・ヴォイス、顕著なヴィブラート、説得力にみちた表現と強烈なスイング……テナーという楽器にとれ以上の吹奏法はないと思われていた。黒人はむろんのこと、すべての白人プレイアーも彼に追随した。三四ー三九年までホーキンズはアメリカを留守にしていたが、チュー・ベリー、ベン・ウェブスターといった彼の後輩はホークに発するスタイルを守り、尊敬を集めていた。
レスター・ヤングがデビューしたのは、ちょうどその頃であった。小さなヴォリューム、おどおどしてかぼそくしなやかな音色は、ホーク派が男性的なのに対して、ひどく女性的であった。ヴィブラートはほとんどなく、のっぺりとした発声......こうした特徴はすべてホーキンズのそれと正反対の性格である。しかし、もっとちがうのはフレージングであった。ホーキンズ派のように、切れるべきところで切れるスタイルではない。時々停濃したり途切れたり、かと思うと当然切れるべきはずのところが切れずに続く……ホーク派の雄弁に対しておそろしくトツベン・スタイルだ。テンション(緊張)という言葉がホーキンズにあてはまるとすれば、レスターのスタイルをいいあらわすのにリラックセイション(緩和)という言葉以上のものはない。これだけ対照的なレスターのスタイルが他のミュージシャンに真似られるのにたっぷり十年を要したーというのはどういうわけだろう?
レスターのフレージングに興味をもった黒人は多かったが、あの女性的なサウンドに問題があったーとぼくは考える。
一九三九年ジョン・ハモンドがオクラホマから発見してきたチャーリー・クリスチャン(g)がグッドマン・コンボでデビューすると、たちまち注目の的になった。アーヴィング・アッシュビー、ジョニー・コリンズ、メリー・オズボーン、オスカー・ムーア、ジム・シャーリー、バーニー・ケッセルといったギター奏者が堰(せき)を切ったように輩出してクリスチャンのそれはたちまちギターの標準スタイルとなった。ところがチャーリー・クリスチャンのフレージングはレスター・ヤングにうりふたつなのである。どっちがどっちを真似たのか。
【参 考】
Lester Young Quartet – Afternoon Of A Basie-ite
/ Sometimes I'm Happy
Bass – "Slam" Stewart
Drums – Sidney Catlett
Piano – John Guarnieri
Tenor Saxophone – Lester Young
Keynote Recordings, Inc.
recorded in New York City, NY December 28, 1943.
Sometimes I'm Happy
The Jazz Giants ’56
I Guess I'll Have To Change My Plan
Bass – Gene Ramey
Drums – Jo Jones
Guitar – Freddie Green
Piano – Teddy Wilson
Tenor Saxophone – Lester Young
Trombone – Vic Dickenson
Trumpet – Roy Eldridge
Norgran Records – MG N-1056 Columbia Apr 1956 Style: Bop, Swing
The Jazz Giants '56 - I Guess I'll Have to Change My Plan
【資料・引用】
『バードは生きている』
チャーリー・パーカー の栄光と苦難
ロス・ラッセル 著/池 央耿(いけ ひろあき) 訳
(発行所:草思社 発行:1975/4/10)
<試練>
チャーリーが手本と仰ぐことにしたサキソフォンの名手は、地方のバンドを長く渡り歩いた後、前の年にカンザス・シティにやって来た男だった。その時レスター・ヤングは二十五歳であった。彼がすでにプロとして十七年の経験を持っていたということは、今日では驚異である。レスターは、タスキギー大学を出た父親ビリー・ヤングがやっているバンドの少年ドラマーとして出発した。バンドはビリー・ヤング・オーケストラと言い、メンバーはすべてヤング一家の家族だった。ヤングの子供たちは歩きはじめると同時に歌を仕込まれた。五、六歳の頃には皆楽譜を読むことができ、少なくとも何か一つは楽器をこなした。ビリーは楽器は何でもござれだったが、中でもトランペットを得意としていた。彼の妻がバンドのピアノを受持った。兄弟姉妹たちが弦やサキソフォンに回った。レスターは八歳の頃からドラマーとしてバンドの巡業に加わった。レスターは一九〇九年ニューオーリーンズ生まれだが、ニューオーリーンズはヤング一家が冬を越す場所だった。春になると、彼らはテント張りの大道芸人や小さなサーカス一座と共に九ヵ月ないし十カ月にわたる地方巡業に出掛けるのであった。大道芸人と一緒の場合は、彼らは客寄せや、蛇の油や万病に効く妙薬を売る手伝いなどもした。サーカス一座の場合は、前室伝のパレードや入場行進のマーチ、それに道化や曲馬や空中ブランコの伴奏が彼らの受持ちであった。
これは古くはシャトークヮやミンストレル・ショウ以来の習慣の名残だった。
十代のはじめに、レスターは正確なリズムを保つことや、いろいろなリズムを複合させることをしっかりと教え込んでくれたドラムスを捨てた。その理由は、彼自身の話によれば、彼はものぐさで、ドラマーの楽器は持ち運びが骨だったからだった。彼はアルト・サックスに転向した。ヤング家では、バンドの全員が初見で楽譜を読むことを要求されていた。レスターはこの要求に背を向けた。楽譜を読むことを覚えはしたが、あまり熱心ではなかった。楽譜は自由な発想を妨げるように彼には思えた。彼は一風変わった自尊心の強い少年だった。長身でやや太りぎみの、夢見るような目を持った彼は生まれながらのボヘミアンだった。
十六歳になり、男としての自覚を持ちはじめた頃、レスターは父親と決定的に衝突し、家族バンドを飛出して、カンザス州サライナの地元ダンスバンド、アート・ブロンソンズ・ボストニアンズに加わった。
父親の正統主義を嫌ったと同様に、レスターは当時広く行われていた、コールマン・ホーキンズを模倣したサキソフォンのスタイルにも反発した。レスターの手本は白人演奏家ジミー・ドーシーとフランキー・トラムバウアーの二人だった。彼らの、ヴィブラートのない澄んだ音やメロディに対する感覚にレスターは惹かれていた。彼らの演奏は美しかった。トラムバウアーは常に"ちょっと聞かせる話”を持っていた。レスターはトラムバウアーのレコードを肌身離さず持ち歩き、白人サックス奏者の持味を学んだ。まだボストニアンズにいる頃、彼は最終的にアルトからテナーに転向したが、その時の彼の音にはトラムバウアーのまろやかな響きを髣髴とさせるものがあった。しかし、レスターはただ美しい演奏をするだけのプレーヤーではなかった。彼は巧みなフレイズに大地を揺がすほどの深い響きでめりはりを付けることができたし、大きくスウィングすることも知っていた。
この頃に、レスターは自分の理想とする演奏に技術的な 裏付を持つようになっていったのである。ボストニアンズとの契約が終わると彼はキング・オリヴァーの下に移った。
ニューオーリーンズの有名なトランペット奏者でジャズの歴史に大きな足跡を留めたオリヴァーは、その当時、後の栄光に向かって坂を登りはじめたところで、小さなバンドを率いて平原諸州の各地を一晩ずつ巡演していた。成年に達する前の一時期、レスターはオクラホマ・シティ・ブルー・デヴルズの演奏旅行に加わった。南西部中のすべてのバンドが恐れをなしているグループだった。ブルー・デヴルズはいろいろなバンドと技を競い合い、当たるを幸い難ぎ倒していた。リード・セクションは圧倒的な音と響きで他のバンドをして顔色なからしめた。彼らはリフの名手たちであった。どのパートにもソロの名人が顔を連ねていた。
カンザス・シティの一流バンドはことごとく、ベニー・モーテンでさえ、彼らには兜を脱いでいた。大恐慌がなかったら、おそらくブルー・デヴルズを凌ぐバンドは出現しなかったであろう。一九三〇年にはじまって、一人一人スターがブルー・デヴルズを去って行った。ベイシー。リップス・ペイジ。ウォルター・ペイジ。エディ・ダラム。ジミー・ラッシング。彼らは皆、安定した仕事を求めて、ペンダーギャストの不景気知らずのカンザス・シティに移った。
レスター・ヤングとプロフ・スミスは最後まで踏留まり、呪われた東部巡業で遂に解散という、バンドの悲惨な最後を見届けた。そして二人は、他の者たちを追ってカンザス・シティにやって来た。彼らはリノ・クラブで再会した。同じジャズの言葉で語り、長年のジャム・セッションと巡業を通じて共に鍛え上げた神技を分け合う、情熱に弱く演奏家たちであった。レスター・ヤングは彼らの新しい発想の源泉であり、花形ソリストであった。彼は偉大なジャズ奏者の一人に数えられる運命にあったのだ。
リノ・クラブに出入りしはじめた頃、チャーリー・パーカーはプロフ・スミスの美しい流れるような演奏にはほとんど関心を示さなかった。スミスの影響はもっと後のことである。彼にとっては誰よりもレスター・ヤングだった。
バルコニーに坐ったり、クラブの裏手に行んだりしながら、チャーリーは彼のおんぼろサキソフォンでレスターの音を一つ一つなぞった。フレイズの作り方、音の出し方、微妙なダイナミックス。すべての要素はチャーリーの心の耳で吸収された。彼はまだ、それを自分自身で演奏する技術には欠けていたけれども。
事情が許せば、チャーリーは最後のフロア・ショウの後のジャム・セッションまで粘った。そんな時には、地元のぴか一の演奏家や、巡業で立寄った他所の名人たちを相手に妙技を披露するレスター・ヤングを聞くことができた。
コールマン・ホーキンズのような大家がカンザス・シティに来ていることもあったし、デューク・エリントン・オーケストラのラビットことジョニー・ホッジズが顔を出すこともあった。白人演奏家が黒人と技を競うためにリノに乗込んで来る時もあった。ミュールバック・ホテルの上流ダンスバンドのリーダー、ディック・スタビルはなかなかの腕前で人々を驚かせた。スタビルの透明な、歌うような音にチャーリーは感動した。スタビルは長年ヴォードヴィルで人気を集めていたルディ・ウィーデフトに学んで自分のスタイルを作り上げていた。チャーリーは一度ダウンタウンの劇場でウィーデフトを聴いたことがある。この名人がCメロディのサキソフォンで作り出す目の覚めるような響きに彼は感心した。これらの演奏家すべての影響を彼は受けている。チャーリーはひたむきにサキソフォンを研究した。毎晩彼は音の世界に暮らした。カンザス・シティの、質の高い豊潤なサキソフォンの音だった。
スウィングからモダン・ジャズへと移る過渡期にこれらをつなぐ形で中間派は存在した。したがって、「主流派」という形式としての呼称より「中間派」という呼び名の方が馴染むように感じられる。中間派と直接関係があるわけではないが、スウィング・スタイルのアルト・サックス奏者とビ・バップ・スタイルのチャーリー・パーカーの演奏を同じステージで順に聴くことができるライヴを例として挙げておく。ウィリー・スミスやベニー・カーターはそれぞれ主流派でもあり独自の演奏を双方が披露しており美しいが、新しい時代の夜明けを感じさせるパーカーの「チェロキー」の激しいアドリブには息を飲む。我々がこの演奏を聴くことができるのも、カンサス・シティ時代のレスター・ヤングがいてくれたからこそである。(S.I.H.)
【参 考】
"Yardbird In Lotus Land"
Spotlite(ENG)SPJ123 1946/04
Medley (Tea For Two / Body And Soul / Cherokee)
Charlie Parker, Willie Smith, Benny Carter (as)
Nat Cole (p)
Oscar Moore (g)
Johnny Miller (b)
Buddy Rich (ds)
Yardbird In Lotus Land : Medley -Cherokee- Charlie Parker
(おしまい)