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1979年(4)

2023年07月18日 | 記録・観察ノート

 1979年当時の学内の状況を記録しておきたいが、あまり個人的な内容に偏るわけにもいかないと思う。ただあの時代の一部を補足する意味から自分の知る範囲で整理しておく。あの場にいた彼ら彼女らの体験した日常だったと理解してほしい。

 

 文連では学内闘争として、前々年度の学園祭開催に向けて自主管理・自主運営を貫こうとする運動の中で大学当局による数名の不当処分者を出しており、1979年に入っても反処分闘争・学内管理強化反対闘争を続けていた。また、新施設建設計画があり当局による一方的施設建設反対とそれに伴う学費値上げ反対闘争を準備する状況にあった。

 学外の政治闘争では「成田空港」の建設をめぐり三里塚芝山連合空港反対同盟に連帯する三里塚空港粉砕・二期工事着工阻止闘争に「三里塚闘争に連帯する会」を通じて参加しており援農にも行っていた。関連して1978年の空港開港阻止闘争に横堀要塞の外で機動隊と対峙し公務執行妨害で逮捕された三闘委の一名を支援する裁判闘争が進められていた。また部落解放同盟に連帯し「狭山差別裁判糾弾闘争」に東京北部狭山闘争実行委員会として参加し、逮捕された石川一雄さんを奪還する再審請求闘争を続けていた。さらに日韓連帯闘争では地域の人たちと日韓連帯を考える学習会なども進めながら無実の在日韓国人政治犯釈放に向けて運動に共闘していた。当時の「朴正煕軍事独裁政権」が在日韓国人を「北朝鮮」のスパイとして逮捕した事件だ。その連帯運動は後に大きなムーブメントへとつながり、1980年の韓国の全斗煥政権打倒、金大中氏奪還や全羅南道光州蜂起に連帯する闘争へと発展した。これ以外にも障害者解放をはじめとして取り組むべきことはあったが、組織的な取り組みにはなっておらず未消化な状態だった。

 その頃、狭山闘争は「5.23部落解放・狭山差別裁判徹底糾弾闘争」に向け状況が活発化していた。北部狭山闘争実行委員会も西武線池袋駅頭でのビラ配りなどを原則的に実施し、学生、公務員、会社員が共同で情宣活動を行っていた。狭実委へは大学から文連と自治会が連帯しており両者は学内的に相容れないところもあったが地域への共闘に向け大学狭実委を形成していた。自治会は労働者階級解放闘争同盟(日本社会党社会主義青年同盟協会派系)というセクトだが、個別狭山闘争の地域共闘では委員会に対するヘゲモニィをとることはなく原則的な立場をとっていた。

 余談だが、池袋駅頭の情宣ではマル青同(マルクス主義青年同盟:元ブント・共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派系の流れを汲んだ組織)が戦闘服に街宣車で駅のロータリーに乗り込んできて大音響でアジテーションしながら機関紙『党旗』やビラを街ゆく人たちに配っていた。狭実委の人たちとは無関係だが街ゆく人たちから見れば同じに見えていたかも知れない。

 

 僕はあの頃、文連や新聞会の人からよくオルグに誘われ学生街の喫茶店に連れて行かれた。テーブルに向かい合わせに座り冷めたコーヒーをすすりながら「個別サンリヅカ、個別サヤマは既に理解していると思うので、そうではなくてカイキュウテキガクセイウンドウのゼンシンに向けて…云々」。大変勉強になった。日比谷公園、明治公園や清水谷公園、礫川公園、神田や四谷、労農合宿所での出来事、この年初めて6.28に開かれた東京サミットに党派がこぞって反対したサミット粉砕闘争などその後の話はまだまだあるが少し気が変わった。

 事実を記録するにしても暴露記事にするつもりはない。それでは笑い話だ。時代はこの後ポストモダンに急旋回しパラノからスキゾへと意識が変容していき、ストイックに語れば語るほどくちびるが寂しい。みんながどこかで自分らしく生きていることを祈りながら、僕もあと数年語るのをモラトリアムしておこうと思う。

(おわり)



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