Run, BLOG, Run

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理由など要らないときみは言うかもしれないけれど。

2004年04月14日 23時58分19秒 | 覚書
 こんな時間に書いても、しょうがないと思うのだが。 今日、四月十四日は 「オレンジデー」 である。

 「バレンタインデー、ホワイトデーときて、その一ヶ月後のこの日に、二人の愛を確かなものにする日」 だそう。 「オレンジ、またはオレンジ色のプレゼントを持って恋人を訪問」 するとか。

 (いまごろ言ってもおそいよ ! ですね ... )

 まあ、Valentine's Day も White Day も便乗商法というかなんというか、なので、あまり踊らされてしまうのもどうか、という気がしなくもないが。



 ― 今日は、好きな人といっしょにすごせましたか? 好きな人と話ができましたか?



 日々の雑多な出来事にもみくちゃにされ、なかなか好きな人とゆっくりすごす時間をつくれないけれど、こういった 「記念日」 にワザと乗ってみて、会う理由を探してみるのも、わるくないのかもしれない。



 BGM:
 XTC “Oranges and Lemons”



 (revised 13 May, 2004) (CD ジャケット画像削除)
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けつえきがったがた / Stereo Type A

2004年04月14日 20時41分06秒 | 診・換・占
 『血液型推測Web版ver1.01』 というサイトを教えてもらった。 A・B・O・AB型それぞれの気質の割合を判定してくれるものらしい。

 まあ、私は、やらなくても結果がわかっているし ... と思ったのだが、話のたねに、いちおうやってみた。

 そうしたら ...

 なによ、

  A型 120%

 って。

 (ありえねーっ ... って、一回言ってみたかった)

 そう。 典型的な A型人間だということが、あらためてわかった。



 ところで、話がずれるが、私の現在付き合っている人は、血液型が B型である。

 A型の人とB型の人の相性は さいあくだと聞く。

 ちなみに、私は、星座がしし座なのだが、かれは かに座だそうである。 しし座と かに座も さいあくなのよね、たしか ... 。

 私は、占いを鵜呑みにするたちではないのだが、さいあくとばかり言われると、やはりこころおだやかではない。

 ちょっとは気にしたりして。

 でも、統計的にさいあくな組み合わせだからこそ、万が一に相性がぴったりと合った場合には、さいこうの組み合わせになるのかもしれない ... とでも考えなくちゃ、やってなどいられない !



 明日、私が泣いているか、わらっているか、は、だれにもわからない。



 BGM:
 CIBO MATTO “Stereo Type A”



 (revised 13 May, 2004) (CD ジャケット画像削除)
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啄木忌 / ことばの砂 / Substitute

2004年04月14日 02時07分51秒 | 想在
 日付が変わってしまって申し訳ないが、昨日、四月十三日は、「啄木忌」 ― 歌人であり詩人でもある石川 啄木さんが亡くなった日であった。(一九一二年没、享年二十七歳)

 石川 啄木さんの短歌は、好きなものが多いが、とくに好きなのは、歌集の題名となった、


  「いのちなき砂のかなしさよ
   さらさらと
   握れば指のあひだより落つ」


 であろうか。

 砂に 「いのち」 を見出そうとした啄木氏の心境を思うと、むねにじんとくる。



 ほかに、


  「かなしくも
   頭のなかに崖ありて
   日毎に土のくづるるごとし」


  「白き蓮 沼に咲くごとく
   かなしみが
   酔ひのあひだにはつきりと浮く」


  「山の子の
   山を思ふがごとくにも
   かなしき時は君を思へり」


 などを読むと、並々ならぬ言語感覚に、はっとさせられる。



 ほかのサイトでも、ちとふれてしまったことだが、ここにも書いておこう。

 石川 啄木という人は、もともと小説家志望であった。 それは、『弓町より』 で、


 「私は小説を書きたかった。 否、書くつもりであった。 また実際書いてもみた。 そうしてついに書けなかった。 その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使することに発見した。 」


 と語られている。

 啄木氏にとって、短歌は、「悲しき玩具」 であった ― そして、その 「玩具」 が、啄木氏の名を後世にまで残すことになった ― 。 なんという皮肉であろうか。

 しかし、啄木氏に限らず、多くの人が 「悲しき玩具」 を有しているのではないだろうか?

 ほんとうになりたかったもの、ほんとうにやりたかったことの代替として、「なにか」 を選択した人は、いったいどれだけいるのだろう?

 そもそも、すべてが思いどおりに運んでいるいる人など、いるのだろうか? だれもがなにかしらの「悲しき玩具」 を持っているのではないか ... ?

 「代わり」 としての仕事、趣味、遊び、恋、そして、blog を ... 。

 けれども、その 「玩具」 を選択したからには、いっしょうけんめい遊んでみせなくては、と思う。

 「遊び」 だからといって、手を抜いてちゃあ、だめだよね。

 ほら、子どもを相手に相撲をとるとき、子どもだからと手を抜くと、子どもはそれを知って、怒ったり、傷ついたりするでしょ。

 どんな 「遊び」 でも、本気で立ち会わなきゃ、失礼だ。 どんなことにも真っ向から立ち向かっていけば、明日には、いいことがあるかもしれない ... なんてね。





 さて、最後に、「砂」 つながりで、他サイトでちらほらと見かけた 「ことばの砂時計」 へのリンクでも ... 。

 ことばが砂となって落ちていくさま。 不思議な気持ち。
コメント (7)
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