ここ数日、weblog について、いろいろ考えさせられているのだが、
私の知人で、blog を執筆している方が、じぶんの書く記事について、こんなことを言っていた。
「私は、記事を書くときには、一気に書いて、ほとんど書き直さない。 自分の中から一番最初に出てきた言葉なのだから、そのままアップする。 直感で勝負したい」
細かい言い回しは忘れてしまったのだが、大意はこんなところだったと思う。
文章が多少乱れていても、「てにをは」 がおかしいところがあっても、あえて手を加えない、というのだが、それは、じぶんの直感そのままをのこしておきたい、という 「こだわり」 からくるものだとか。
じぶんのなかから自然に湧き上がってきたことばをたいせつにする、というのはわかる。 それがもっともじぶんに正直な、素直な表現である、といえるのかもしれないのだから。 そして、そういった作品で人のこころを動かすことができたなら、どんなにかすばらしいだろう、と思う。
しかし。 じぶんに関していうと、「わたしは、直感だけでものを書けるほど、すぐれた書き手なのか?」 「そして、そのままそれを、world wide web 上に公開できるほど、じぶんの書いたものに自信がもてるのか?」 という疑問に突き当たる。
これが、じぶんだけが読む、じぶんのためだけの日記などであったら、私も、じぶんのなかからすんなりと出てきたことばをそのままのこすであろう。
けれども、曲がりなりにも、インターネットという開けた空間に向けて発信しているものであれば、じぶんのためだけでなく、読み手のことも考えなければならないのではないか?
果たして、私は、じぶんのなかから自然に湧き上がってきたものだけで、受け手に伝えることができるのか?
... と思ってしまうと、どうしても、解体/再構築、 削減/補填、 冷凍/解凍、 過熱/冷却 ... などという工程を経た、つぎはぎだらけのものになってしまうこともある、と言わなければならない。
(むろん、ほとんど 「無傷」 のものをのせている場合もあるが。)
そういった過程を通ることで、じぶんがほんとうに伝えたかったことが明確になったり、 ぼんやりとしていた部分が明瞭になったり、 難解な言いまわしを平易にすることができたり、 つい無意識に吐き出されている使い古された常套句を じぶんなりのことばに置き換えたりすることができる。 あえて多義性をもたせたり、 受け手の印象を変えることも可能か。
文字の書き方ひとつ、 句読点の置き方ひとつ、 改行ひとつ ... テキストの魔術に、おどらされている気もしなくもない、が。
非凡なるひとは、なんの迷いもなく、すらりすらりと書いて、そのままそれを公表することができるのであろうか。
太宰 治は、『駆け込み訴え』 というユダのキリストへの愛憎を描いた独白体の短編小説を、よどみなく一気に口述したと言われている。 それは、まさに天才のなせるわざであろうが、私のような無芸無能のものにはとうてい無理だ。
天からことばがふってきて、それをただ、キーボードにたたきつけるだけ、なんてことが起こらない限り ... ?
今後も、私は、前述の知人とは対極の考えをもって、つぎはぎだらけで、ぼろぼろの記事を書きながら、明日をも知れず走りつづけていくのだろうか ... ?
BGM:
Bruce Springsteen “明日なき暴走 / Born to Run”
(revised 13 May, 2004) (CD ジャケット画像削除)
私の知人で、blog を執筆している方が、じぶんの書く記事について、こんなことを言っていた。
「私は、記事を書くときには、一気に書いて、ほとんど書き直さない。 自分の中から一番最初に出てきた言葉なのだから、そのままアップする。 直感で勝負したい」
細かい言い回しは忘れてしまったのだが、大意はこんなところだったと思う。
文章が多少乱れていても、「てにをは」 がおかしいところがあっても、あえて手を加えない、というのだが、それは、じぶんの直感そのままをのこしておきたい、という 「こだわり」 からくるものだとか。
じぶんのなかから自然に湧き上がってきたことばをたいせつにする、というのはわかる。 それがもっともじぶんに正直な、素直な表現である、といえるのかもしれないのだから。 そして、そういった作品で人のこころを動かすことができたなら、どんなにかすばらしいだろう、と思う。
しかし。 じぶんに関していうと、「わたしは、直感だけでものを書けるほど、すぐれた書き手なのか?」 「そして、そのままそれを、world wide web 上に公開できるほど、じぶんの書いたものに自信がもてるのか?」 という疑問に突き当たる。
これが、じぶんだけが読む、じぶんのためだけの日記などであったら、私も、じぶんのなかからすんなりと出てきたことばをそのままのこすであろう。
けれども、曲がりなりにも、インターネットという開けた空間に向けて発信しているものであれば、じぶんのためだけでなく、読み手のことも考えなければならないのではないか?
果たして、私は、じぶんのなかから自然に湧き上がってきたものだけで、受け手に伝えることができるのか?
... と思ってしまうと、どうしても、解体/再構築、 削減/補填、 冷凍/解凍、 過熱/冷却 ... などという工程を経た、つぎはぎだらけのものになってしまうこともある、と言わなければならない。
(むろん、ほとんど 「無傷」 のものをのせている場合もあるが。)
そういった過程を通ることで、じぶんがほんとうに伝えたかったことが明確になったり、 ぼんやりとしていた部分が明瞭になったり、 難解な言いまわしを平易にすることができたり、 つい無意識に吐き出されている使い古された常套句を じぶんなりのことばに置き換えたりすることができる。 あえて多義性をもたせたり、 受け手の印象を変えることも可能か。
文字の書き方ひとつ、 句読点の置き方ひとつ、 改行ひとつ ... テキストの魔術に、おどらされている気もしなくもない、が。
非凡なるひとは、なんの迷いもなく、すらりすらりと書いて、そのままそれを公表することができるのであろうか。
太宰 治は、『駆け込み訴え』 というユダのキリストへの愛憎を描いた独白体の短編小説を、よどみなく一気に口述したと言われている。 それは、まさに天才のなせるわざであろうが、私のような無芸無能のものにはとうてい無理だ。
天からことばがふってきて、それをただ、キーボードにたたきつけるだけ、なんてことが起こらない限り ... ?
今後も、私は、前述の知人とは対極の考えをもって、つぎはぎだらけで、ぼろぼろの記事を書きながら、明日をも知れず走りつづけていくのだろうか ... ?
BGM:
Bruce Springsteen “明日なき暴走 / Born to Run”
(revised 13 May, 2004) (CD ジャケット画像削除)