先日、友人のバンドのライヴを観に、下北沢のライヴハウスに行ったら。 なぜか、「元」 グラビアクイーンと言われていた人のライヴも 「対バン」 で行われたので、ついでに観てきた。 私の記憶のなかでは、たしか、一昔前のアイドル然とした、ちょっと古風な感じの女性というイメージがあったのだが、出てきたのは、ごくふつうの いまどきの女の人。 グラビアクイーンだったのなら、スタイルは相当良いであろうはずなのに、身体の線を強調するような服装もしていなかったし。 きっと、「元」 グラビアクイーンというイメージを払拭し、音楽で評価されたいと願っているのだろう。 が、その音楽、なんというのだろうか、「ロックっぽい」 ハードな演奏に女の子の心情をのせて切々と歌う、いまどきの 「オンナノコ・ロック」 とでも言うのだろうか、べつだん目新しいところや特筆すべきものは 私には感じられなかった。 客席にいた皆が皆、とくに反応もなく、ただじっと座って聴いていたところを見ると、そう思っていたのは私だけではなかったはず。 あきらかに寄せ集められただけのバックのミュージシャンたちは、じぶんの腕前を誇示しようと躍起になっているばかりで、「バンド」 としてのまとまりはない。 かの女の声は、轟音ギターにかき消され、客席との温度差は拡がるばかり。 かの女はいらだたしそうに、なにかを叫ぶも、それすらも聴こえない。 「元」 グラビアクイーンが、その大きな胸をひたかくしにしながら、小さなライヴハウスで、ロックバンドをバックになにかを伝えようとしている ― そんな場面にじぶんが居合わせたことに、なんとも不思議に痛々しい気持ちがした。 かの女が、自己を表現していく道程で一筋の光でも見出すことができればよいのだが。 # ほんの通りがかりに見かけ、もう二度と会うこともないであろう人だけれども。 # おまえもなー、という気もするけれども。 ... (初出: 2004.2.13 再出: 2004.5.18) BGM: The Smith “Queen Is Dead” |
「ねこキック」 をご存知であろうか?
噛み付き、引っ掻き、ねこパンチ、ねこジャンプ、ねこなで声、ねこすりすり、ねこキッス ... etc 同様、ねこの必殺技のひとつである。
対象に背を向け、後ろ足をお尻のほうに蹴り上げて繰り出す、破壊力はあまりないが、笑撃度ばつぐんの、非常にプリティーな技である。
わが家に、近所のねことけんかして、右だったか左だったかの後ろ足をけがしてしまった子がいたのだが。 そのけがは、表面上は治癒したのだけれど、さわったりすると痛むらしく、抱きかかえようとして、ついその古傷にさわってしまうと、「イヤ (ニャア) ! 」 と悲鳴をあげられ、噛み付かれ、引っ掻かれ、仕上げに ねこキックをお見舞いされてしまう。
その古傷、相当痛いのであろう。 反射的に繰り出される感じである。 こちらは、噛み付かれて引っ掻かれると、必死の 「反撃」 だけに 「あいたた」 となるが、仕上げに浴びる ねこキックには、つい、ぷっと吹き出しそうになってしまう。 ねこパンチよりも、もっとへなちょこなのだ。 なんとまあ、うまいやり方だ。 といっても、ねこはなんにも考えていなくて、ただもう必死さの余力っぽいところが、おかしさを倍増させる。
わたしにも、ねこキックのような必殺技があったらいいのに。
イタイトコロをつかれたときに、「イヤ ! 」 といって、噛み付いて、引っ掻いて、それでも、最後にはすべてチャラにさせてしまうような、すてきな反撃技が。
そうしたら、どんどん反撃しちゃうのに ... 。
けれども、われら人間の 「世間」 では、そういう 「ワザ」 のことを、いったい、なんと呼ぶのだろう ... ?
なんてね。
BGM:
MC5 ‘Kick Out the Jams’
噛み付き、引っ掻き、ねこパンチ、ねこジャンプ、ねこなで声、ねこすりすり、ねこキッス ... etc 同様、ねこの必殺技のひとつである。
対象に背を向け、後ろ足をお尻のほうに蹴り上げて繰り出す、破壊力はあまりないが、笑撃度ばつぐんの、非常にプリティーな技である。
わが家に、近所のねことけんかして、右だったか左だったかの後ろ足をけがしてしまった子がいたのだが。 そのけがは、表面上は治癒したのだけれど、さわったりすると痛むらしく、抱きかかえようとして、ついその古傷にさわってしまうと、「イヤ (ニャア) ! 」 と悲鳴をあげられ、噛み付かれ、引っ掻かれ、仕上げに ねこキックをお見舞いされてしまう。
その古傷、相当痛いのであろう。 反射的に繰り出される感じである。 こちらは、噛み付かれて引っ掻かれると、必死の 「反撃」 だけに 「あいたた」 となるが、仕上げに浴びる ねこキックには、つい、ぷっと吹き出しそうになってしまう。 ねこパンチよりも、もっとへなちょこなのだ。 なんとまあ、うまいやり方だ。 といっても、ねこはなんにも考えていなくて、ただもう必死さの余力っぽいところが、おかしさを倍増させる。
わたしにも、ねこキックのような必殺技があったらいいのに。
イタイトコロをつかれたときに、「イヤ ! 」 といって、噛み付いて、引っ掻いて、それでも、最後にはすべてチャラにさせてしまうような、すてきな反撃技が。
そうしたら、どんどん反撃しちゃうのに ... 。
けれども、われら人間の 「世間」 では、そういう 「ワザ」 のことを、いったい、なんと呼ぶのだろう ... ?
なんてね。
BGM:
MC5 ‘Kick Out the Jams’
* | デトロイトロックの“雄”、MC5 の代表曲。 | |
Primal Scream がライヴでよくカバーするほか、Rage Against the Machine のバージョンも有名だろうか? | ||
今年の Summer Sonic には、MC5 改め DKT-MC5 として出演決定 ! |
ついでといってはなんだが。 「彼女」 のことについて語ろうか。
彼女と出会ったとき、彼女はすでに、わたしには理解できない、ある 「コミュニティ」 に属していた。 あまりにも無知だったわたしは、その 「コミュニティ」 のことをまったく知らなかったのだが。
いつも、人と会っているか、電話をしているか、携帯電話メールの読み書きをしている彼女は、電話番号登録のメモリが足りない、と、こぼしていた。
わたしが、何件までメモリ登録できるのか、とたずねると、彼女は、「五百件」 とこたえた。
五百人もの 「友だち」 がいる彼女には、いろいろなところに連れて行ってもらった。
いわゆる celebrity とでもいうのか、有名人・著名人が集うお店。
雑誌やテレビなどで紹介されるような人気の場所。
わたしひとりでは、決して足を踏み入れることができないような豪華なパーティ。
彼女を介さなければ、ぜったいに相まみえることもないであろう人とも出会った。
彼女の 「友だち」 の乗る、イタリア製の車にも乗せてもらった。
さいしょはたのしかった。
正直にいうと、いろいろな体験をさせてもらえることに魅力を感じていたのも事実だが、それにもまして、いつも明るくて、人生に対して前向きな考え方をもつ彼女が好きだった。
けれど、徐々に徐々に、なにかがおかしい、と思うことがあらわれはじめ、彼女の属している 「コミュニティ」 の存在とその実態を知り、衝撃を受けた。
彼女の言う 「友だち」 は、ぜんぜん、友だちなどではないじゃないか、と。
或る雨のふる夜、彼女から飲みに行こうと誘われ、近所のバーでおち合った。
いったい、急になんだろう。 あの 「コミュニティ」 に関わることだろうか、と不安になった。
けれども、いつもどおりに彼女が、おかしな話をとめどもなくつづけていたのでほっとしていたのだが、わたしがふたりに共通の知人の名まえを口にした途端、表情をこわばらせたかと思うと、堰を切ったかのように、とつぜん泣き出した。
声を殺して。 肩をふるわせながら。
そのとき、わたしは、 「その人」 と彼女とのあいだになにかあったのだ、ということを悟った。 おそらく、彼女にとって、なにかのぞましくないできごとが。 そして、勝手な想像だが、彼女があの 「コミュニティ」 にたずさわっていることが大きく関係しているのではないか、と。
わたしは、だまってハンカチを差し出した。 お気に入りの、Vivienne Westwood.
五百人もの 「友だち」 がいる彼女が、まだ、出会って数ヶ月しか経っていないわたし ―― メモリ登録がその半分もないような ―― の目の前で、小さな子どものように泣いているさまを、わたしは、ただ、じっと見守っていた。
その数日後に会ったときの彼女は、いつもどおりの彼女だった。
いろいろな苦悩をかかえているのだな、と思った。 そして、その苦しみをうちあけられる 「ほんとうの友人」 がいないのだな。 と。
そのときから、わたしは、彼女の 「友だち」 になった。
いまでも友だちである。
もっとも、あの 「コミュニティ」 の 「あれ」 は、もう購入してあげることはしなくなったけれど。
なかには、わたしがいまだに彼女と交遊しているのを訝る(いぶかる)人もいるが。
「○○の人と付き合ってると、** ちゃんも、周りから変な目で見られるかもよ」 なんてね。
なんとまあ、ありがたいことばだ。 涙が出てくらあね。
太宰 治の 『人間失格』 の挿話を思い出す。
なんどもなんども失敗を重ねる主人公に対し、学友だった男が、「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 と言う。 主人公は、世間とはいったいなんのことか、と考え、ふいに 「世間というのは、君じゃないか」 ということばが舌先まで出かかる ... という部分。
わたしも、変な目で見るのは、「周り」 ではなく、あなたでしょう? と言いかけたが、『人間失格』 の主人公のように、そのことばをのみ込んで、「そうかなあ」 なんて言って、わらってごまかした。
まあ。 「忠告」 ももっともだ、という気もする。
けれども、ほかの多くの人と同じように、わたしまで彼女から離れてしまったら、彼女がなにかのきっかけで目を覚まし、あの 「コミュニティ」 から脱出しようとするとき、いったいだれが、「こちらがわ」 から手を差し伸べてあげることができるのだろうか?
... なんて言ったら、かっこつけすぎかしら?
BGM:
The Kinks ‘Living on a Thin Line’
Leon Russell ‘Tight Rope’
彼女と出会ったとき、彼女はすでに、わたしには理解できない、ある 「コミュニティ」 に属していた。 あまりにも無知だったわたしは、その 「コミュニティ」 のことをまったく知らなかったのだが。
いつも、人と会っているか、電話をしているか、携帯電話メールの読み書きをしている彼女は、電話番号登録のメモリが足りない、と、こぼしていた。
わたしが、何件までメモリ登録できるのか、とたずねると、彼女は、「五百件」 とこたえた。
五百人もの 「友だち」 がいる彼女には、いろいろなところに連れて行ってもらった。
いわゆる celebrity とでもいうのか、有名人・著名人が集うお店。
雑誌やテレビなどで紹介されるような人気の場所。
わたしひとりでは、決して足を踏み入れることができないような豪華なパーティ。
彼女を介さなければ、ぜったいに相まみえることもないであろう人とも出会った。
彼女の 「友だち」 の乗る、イタリア製の車にも乗せてもらった。
さいしょはたのしかった。
正直にいうと、いろいろな体験をさせてもらえることに魅力を感じていたのも事実だが、それにもまして、いつも明るくて、人生に対して前向きな考え方をもつ彼女が好きだった。
けれど、徐々に徐々に、なにかがおかしい、と思うことがあらわれはじめ、彼女の属している 「コミュニティ」 の存在とその実態を知り、衝撃を受けた。
彼女の言う 「友だち」 は、ぜんぜん、友だちなどではないじゃないか、と。
或る雨のふる夜、彼女から飲みに行こうと誘われ、近所のバーでおち合った。
いったい、急になんだろう。 あの 「コミュニティ」 に関わることだろうか、と不安になった。
けれども、いつもどおりに彼女が、おかしな話をとめどもなくつづけていたのでほっとしていたのだが、わたしがふたりに共通の知人の名まえを口にした途端、表情をこわばらせたかと思うと、堰を切ったかのように、とつぜん泣き出した。
声を殺して。 肩をふるわせながら。
そのとき、わたしは、 「その人」 と彼女とのあいだになにかあったのだ、ということを悟った。 おそらく、彼女にとって、なにかのぞましくないできごとが。 そして、勝手な想像だが、彼女があの 「コミュニティ」 にたずさわっていることが大きく関係しているのではないか、と。
わたしは、だまってハンカチを差し出した。 お気に入りの、Vivienne Westwood.
五百人もの 「友だち」 がいる彼女が、まだ、出会って数ヶ月しか経っていないわたし ―― メモリ登録がその半分もないような ―― の目の前で、小さな子どものように泣いているさまを、わたしは、ただ、じっと見守っていた。
その数日後に会ったときの彼女は、いつもどおりの彼女だった。
いろいろな苦悩をかかえているのだな、と思った。 そして、その苦しみをうちあけられる 「ほんとうの友人」 がいないのだな。 と。
そのときから、わたしは、彼女の 「友だち」 になった。
いまでも友だちである。
もっとも、あの 「コミュニティ」 の 「あれ」 は、もう購入してあげることはしなくなったけれど。
なかには、わたしがいまだに彼女と交遊しているのを訝る(いぶかる)人もいるが。
「○○の人と付き合ってると、** ちゃんも、周りから変な目で見られるかもよ」 なんてね。
なんとまあ、ありがたいことばだ。 涙が出てくらあね。
太宰 治の 『人間失格』 の挿話を思い出す。
なんどもなんども失敗を重ねる主人公に対し、学友だった男が、「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 と言う。 主人公は、世間とはいったいなんのことか、と考え、ふいに 「世間というのは、君じゃないか」 ということばが舌先まで出かかる ... という部分。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
わたしも、変な目で見るのは、「周り」 ではなく、あなたでしょう? と言いかけたが、『人間失格』 の主人公のように、そのことばをのみ込んで、「そうかなあ」 なんて言って、わらってごまかした。
まあ。 「忠告」 ももっともだ、という気もする。
けれども、ほかの多くの人と同じように、わたしまで彼女から離れてしまったら、彼女がなにかのきっかけで目を覚まし、あの 「コミュニティ」 から脱出しようとするとき、いったいだれが、「こちらがわ」 から手を差し伸べてあげることができるのだろうか?
... なんて言ったら、かっこつけすぎかしら?
BGM:
The Kinks ‘Living on a Thin Line’
Leon Russell ‘Tight Rope’