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絶・頂 / The Tide Is High

2004年05月28日 23時09分30秒 | 想在
 先日、たまに足を運ぶバーで飲んでいたときのこと。

 そのバーで知り合った男性と話していたら、なぜか恋愛の話題になった。

 その方には、現在付き合っている女の子がいて、店にも何度か連れて来たことがあったので、まあ、うまくいっているのだろうな、と思っていたのだが、その日はなぜだか、昔の女性のことばかり、なつかしそうに話す。

 曰く、彼は、現在 「不幸」 なのだそうだ。

 数年前、ある女性と付き合っていたとき、それが、彼にとっての 「絶頂期」 であったという。 そして、その女性を失ったいま、とても不幸なのだとか ... 。 もしも可能であるならば、「あのころに戻りたい」 とも言っていた。

 うん ... 。 そこまで好きな女性がいたことは、うらやましく思うし、とてもつらい別れを経験したのだろうということは、同情する。

 しかし。 彼の発言が、どうもむねにひっかかってしまった。

 まず、じぶんでじぶんを 「不幸だ」 と言ってしまえること。

 これは、(もしかしたら) 冗談半分で言っているのかもしれないが、なんだか変だ。 たとえ、そう思っていたとしても、公然と口にしてはいけないと思ってしまう。

 無理してまで 「幸福だ」 と言わなくてもいいが、軽々しく 「不幸だ」 と言ってはいけない。

 そんなことを言ったら、現在の彼女や友人に対して、失礼ではないか?

 それから、「あのころに戻りたい」 というのも ... 。

 かくいう私には、戻りたい過去は、ない。

 いや、なつかしい過去、たのしかった思い出、良かったと思える時期は、ある。

 しかし、戻りたいとは思わない。 いや、正確にいうと、戻ってみたい気もするが、戻ったところでどうなるのだ? という感じだろうか。

 おそらく、彼としては、「あのころに戻って、やり直したい」 のだと思うのだが、それって、どうだろう。

 もし、やり直したとしても、結局は、同じ結末を迎えるのではないか?

 なにかの偶然で、早くなったり、遅くなったりしても、結局、二人は、別々の道を歩むことになるのではないか?

 どういった経緯で二人の関係が終わったのかは、私には知る由もない。 男と女の間でのこと。 それは、当人同士にしか分からないだろう。

 しかし、やはり、なにか原因があったからそうなったに違いないように思うのだが ... 。

 二人の絆 あるいは 信念が強いものであったなら、どんな障害も乗り越えられたはず。 どうしても避けられない理由 あるいは 心のスキマがあったから、そのような結果になったのではないだろうか。

 もしかしたら、その女性と、なんとかうまくやっていけたかもしれないし、駄目になっていたかもしれない、それは神のみぞ知る、なのだろうが、やはり、そうなるべくして そうなってしまったのではないか?

 何度やり直しても、きっと同じことを繰り返すのではないか?

 ―― 私は、そう考えるが。

 (なかには、何度も何度も、別れてはくっついたり、という一蓮托生の奇妙な関係を続けているカップルがいないこともないようだが、果たしてかれらが、その関係に満足しているのかどうかは、私には疑問である。)

 私は、そんなふうな話を、かなりやわらかく、丸めて、彼に言ってみた。

 しかし彼は、納得いかないようだった。 どんなことがあっても、あのとき別れなければ良かった、とまで言っていた ... 。

 そんなこと言ったって、もう別れちゃったものは、しょうがないじゃないか !

 という一喝のかわりに、私は、こう言いたかった。

 もし、その女性と結婚してしまってから、別れることになった 「原因」 が持ち上がっていたら、あるいは、もっともっと不幸な破局 / どろどろの修羅場を迎えることになっていたかもしれないのだから、逆にあれで良かったのかもしれない、と、考えてみてはどうか、と。

 もし、その女性との関係が続いていたら、ありえなかった出会いもあるかもしれない、と、考えてみてはどうか、と。

 「しあわせ」 とか 「ふしあわせ」 とか。 そんなもの、考え方ひとつではないだろうか?

 幸福だから笑うのではなく、笑うから、幸福なのだ (アラン著 『幸福論』 より) と。



 (初出: 2004.2.20 再出: 2004.5.28)



 BGM:
 Blondie ‘The Tide Is High’

 * 邦題は、「夢見るNo.1」 という。
  「潮が満ちてしまったけれど、耐えてみせる」
  「すぐにあきらめたりするような女じゃない」
  という区に共感をおぼえる。
コメント (3)
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セカチューして手にプリン、地味で変で、スカタンな

2004年05月28日 12時27分05秒 | 戯れ言
 とある web サイトの無料オンライン会員とやらに登録したら、毎日のようにダイレクト・メールが来るようになった。 携帯電話のほうに。 まあ、それは承知の上で登録したので、いいのだが。

 ときどき、わけのわからないメールが来る。

 仕事中に、「ポルノ ベストリリース 予約受付中」 とかいうのが来たとき、思わずふきだしそうになってしまった。

 よくよく読むと、「ポルノグラフィティ」 というグループがなにか CD を発表するらしく、その予約を受け付けているらしい。 なあんだ。 よかったよかった。

 携帯電話のメールへの送信ゆえ、データ量を減らすためにグループ名を略したのだと思うが、いくらなんでも、「ポルノ」 は ... と思ってしまった。 私のように勘違いして、むだにドキドキする人が何人かいるのではないかな、と思う。



 昨日のには、『セカチュー』 などと書かれていて、セカンド・チュー (first kiss ならぬ second kiss ?!) ということであろうか? などと考えてしまった。 んン? せかせかしたチュー? むはー、もお、がまんできねえ、みたいな ... ?



 それから、もっとなぞだったのは、『テニプリ』

 うーむ。 手にプリン、かしらん。 ... そんなわけないか。 だいたい意味がわからない。

 とりあえず、例によって、 web 検索し、あっさりと答えがわかったのだが。



 私のように、世の中の流れに逆行して、どんどん情報を閉じているようなものにとっては、ますますなぞだらけの略語に囲まれているような気がして、なんともかんとも、住みにくいような ... 。

 けれども、こういった略称というのは、むかしからあるような気もしてくる。

 わたしの好きな blues やら rock やらの話でいけば、Robert Johnson なんて、「ロバジョン」 とか言う人がいるし、Carol King なんて、「キャロキン」 だし (「クリキン」 か?!)、 Jaco Pastorius は 「ジャコパス」 だし .... 。

 Johnny Thunders を 「ジョニサン」 という人もいる。 「おれ、大のジョニサン好き」 とか言われると、「ウソだ !! 」 と言いたくなってしまう。

 そういえば、「ピーガブ」 なんてのもあったもよう ... (Peter Gabriel)

 かつて、Paul Weller が組んでいたユニット、Style Council のことを 「スタカン」 と言っている人もいたような ... 。 「このスカタンが ! 」 と怒られているみたいで、なんとなく気になる。



 ほかにも、マイブラジザメリエコバニジョンスペレッチリレニクラスマパンオフスプレディヘベルセバ、etc ...

 邦楽だと、ミスチルオザケンエレカシモンパチトミフェブとか ... ?

 なにがなんだか、わけがわからない。 (いや、わかっているけど)

 しゃべりことばならいざ知らず、文字にすると、なんとなく間のぬけた感じがする。 あえてその効果を狙っているのだろうか?



 もっとも、Jimi Hendrix の 「ジミヘン」 に関しては、もはや登録商標という感じで、いまさらいちゃもんをつける気にすらならない域に達しているように思うが。

 Rolling Stones は 「ストーンズ」 で、 Aerosmith は 「エアロ」 で、それぞれ通るし ... 。

 そう考えると、略される、というのは、それだけたくさんの人に認知されて、愛されていることの証しなのかな、という気もするので、結局、ま、いっか、となってしまうのかもしれない。



 こんなの。 世の流れについていけない、世の動きに柔軟に対応できない、あわれなものの、かなしき うめき に過ぎないのであろうか?



 BGM:
 Miles Davis ‘Tasty Pudding’

 Joni Mitchell ‘In France They Kiss on Main Street’
  * “夏草の誘い / The Hissing of Summer Lawns” に収録。
   jazz に接近したこのアルバムの後、Jaco Pastorius と共演することになる。
コメント (2)
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