「嫉妬」
午後十一時。
レイラは、つい先刻まで接客していた若い客を見送り、休憩室という名のもとの荷物置き場へ、ひとまず避難した。
借りものの履き慣れていない靴のために足が痛むので、靴を脱いで、足の指を伸ばした。 ストッキングのなかで、足がじんわりしているのがわかった。 一息ついてから、くわえたタバコに火を点けると、深くけむりを吸い込んだ。 かたわらの、先刻の若い客からもらった一輪の黄色いバラを見つめながら。
じぶんの弟よりも若い客と過ごした数時間。 若さにつられて、妙にはしゃいでしまったので、なんとなく、疲れていた。 タバコの煙で、頭がくらくらした。
そんななか、彼女は、あるできごとを思い返していた。 もう三年近くまえのできごとであるが、じぶんの弟におこった 「情事」 を。
「
わたしの弟。 二歳年下。 二十歳のときに結婚した。 いわゆる 「できちゃった結婚」 というやつ。
お嫁さんは、弟より三歳年上なので、わたしよりも、年上。 いまのわたしと同じように、夜の店で働いていたとき、弟と出会い、子どもができたので、結婚することになった。
弟が彼女の店に通うようになってから、十ヶ月くらいのことだ。
女の子が生まれた。
名まえは、わたしが付けてあげた。 「るい」。 漫画からとった。
るいは、食欲旺盛な子で、ほかの女の子よりも、だいぶ体格が良かった。三歳になるころには、りっぱすぎて、周りの子たちにからかわれるほどだったようだ。
弟は、結婚するまで、まともな職についたことがなかったのだけれど、結婚を機に、中学の先輩の伝手(つて)で、道路工事の仕事に就くことになった。
重労働に追われて、身体中がバラバラになるような痛みと疲労にたえる日々だったそうだ。
朝早くから働き、夕方仕事を終えて帰宅すると、ゴハンを食べて、お風呂に入る以外になにかする気力もなく、死んだように眠っていたとか。
奥さんのほうから、とくに不平や不満を訴えてくることはなかったので、気にも留めていなかったのだけれど、そのうち、なんとなく、奥さんの行動がどうにも怪しく思われるようになりはじめた。
たとえば、昼間、雨が降ってしまって、工事が中止になったので、そのまま自宅に帰ると、奥さんが 小さい子を連れて不在にしていることや、妙な電話をかけていることが、何度かあった。
まさか、と思いつつも、夜も眠れぬくらい気になってしまって、なんと、探偵に調査を依頼したという。
依頼から、わずか一週間。 弟の予想が かなしいくらい的中した、なんともあっけない調査結果が返された。
ここで、ぐっとこらえて奥さんをゆるすか、あるいは、証拠を突きつけて責めたてるか、あるいは、おだやかに話し合うか。 はたまた、罵詈雑言を浴びせでもするか。
人それぞれなのだと思う。 私は結婚したことがないので、いざ、その立場となったとき、どう行動するのか、まったく予想がつかないけれど。
恋愛経験の足りない弟は、そのいずれの考えも思いつかず、いきなり突拍子もない行動に出た。 いったいどうしたのか、というと、はげしい感情に突き動かされ、奥さんの過去をすべて知りたくなって、さらに調査を依頼してしまったのだ。 じぶんと知り合う以前、そして結婚後まもないころから現在にいたるまでの知り得ることを。
そうして弟は、知らなくても良かったのではないか、ということまで知ることになった。
―― その後、弟たちは、別居することになった。
奥さんのほうが、キレてしまったのだ。 身から出たさびとはいえ、やはり、勝手にじぶんの過去を調べられるのは、気持ちがいいものではないのだろう。
せめて、一度目の調査で、やめていたら、そんなことには ならなかっただろう。
弟は、知ってはいけないことを知ってしまったのだ。
そして、裁判に持ち込まれ、弟は、負けた。
奥さんも、るい も、家も、お金も、みんな失った。
もう、やり直しできないところまで、いってしまったのだ。
るい の存在さえ、それを とめることができなかった。
弟は、その後 東京を去り、いまは、知人の頼って、富山県に住んでいる。 まる三年、帰ってきていない。
富山県は、空気もきれいだし、水もうまい。 いいところだ。 という便りが一通届いたきりだった。 そして、じぶんは決してまちがってはいない、という思いをこころの糧に、ひっそりと生きているようだ。
弟の行動は、まちがっていたのか、まちがっていなかったのか。 わたしには、わからない。
けれど、行き過ぎていたのかもしれない、とは思う。
だとしても、弟は 妻の過ちを、彼女は 夫の行き過ぎた行動を、それぞれゆるし合えなかったのだろうか?
弟たちがやり直すすべは、なにひとつ、なかったのだろうか?
狂おしいまでの 「嫉妬」 が、家庭を、人の一生を、崩壊させてしまうことがあるのだろうか?
わたしが、まだ会社勤めをしていたときのこと。 女性の上司が、たまたま仕事帰りにいっしょに飲んだ夜の、酔いの果てに言っていたことを、ふいに思い出す。
「女の嫉妬なんて、屁でもない。 たかだか一時の感情に任せたものに過ぎないから。 けれど、男の嫉妬は、ほんとうに、こわい」
上司いわく、男は、めったに嫉妬することはないが、一度 嫉妬の焔を燃やすと、心の奥深くで、ずっとぶすぶすと くすぶりつづけてしまうことがある。 その点は、女性よりも、執念深いかもしれない。 とのことだった。
その当時のわたしには、よくわからなかったけれど。
この店で働くようになって、シオリさん (という人気ナンバー・ワンの人) が、似たようなことを言っていて、はっと思いあたった。
女たちの嫉妬をものともせず、頂点まで登りつめ、その座を維持していくのは、並大抵のことではないだろう。 同僚たちの嫉妬よりも、「客」 の感情を、うまくコントロールしていくことが、どれほど大変であるか、わたしには、想像もつかないけれど。
「嫉妬」 という字は、いずれも女偏なのに。 と、シオリさんは言っていたっけ。
フォークナーを読んでみなよ。 と言われて、本屋に行った。
その名もずばり 『嫉妬』 という作品があった。 男性の根深い嫉妬を描いていた。
」
―― レイラが、もの思いにひたっていたら、マキという女がやって来た。 その日いちばん乗りで来店した会社専務の接客をやっと終えて、休憩しに来たのだ。
「そのバラ、どうしたんですか?」 と、たずねてきたので、レイラは、とれてしまったアクセサリーのかわりに、と、客が贈ってくれた旨を説明した。
「かわいい男の子ですね。でも、注意してくださいね」 とマキが言うので、レイラは首をかしげた。
「どうして?」
「黄色いバラの花ことばは、『嫉妬』 です」
BGM:
John Lennon ‘Jealous Guy’
* 新潮文庫
『フォークナー短編集』 などで読むことができる。
関連リンク : 当 blog 内
「女をきれいにする方法」
「記憶の男 / 父の味」
「ほおづえをつかない女」
「女と花 / 彼女ができる方法」