いまから一年くらいまえ、
おれは、ある女の人と、ひみつの関係を持っていた。
おれたちは、会社のメールで、「逢い引き」 の連絡をとっていた。
あの人が、会社のメールアドレスで送ってくるから。
なんとなく、おれも、会社のメールアドレスで送りかえしていた。
そうすれば、おれたちの 「逢い引き」 メールを、うっかり削除しわすれても、それぞれの見られてはならない人に、見られる心配はなかった。
携帯電話を持っていないあの人と会うのは、新宿の本屋。
青山ブックセンターの、マヤ・アンジェロウの棚のまえ。 これが、おれたちの、待ち合わせ場所だった。
新宿、七時半。 たったこれきりの文字列だけで、おれは、仕事もそこそこに、マヤ・アンジェロウの棚へと駆け出していった。
あるとき、待ち合わせ時間になっても、あの人が なかなかあらわれなかったので、すでに何度も読んだことのある詩集を手にとり、ぱらぱらとめくってみた。
ふと、押し花を模した栞がはさまれていることに気がついた。
いったい、どうしたのだろう? だれかが、なにかの思いを込めて、はさんだものだろうか? よりによって、マヤ・アンジェロウの詩集に? と、ちょっと気になったけれど、ふかく考えるのが、なんとなくこわくなって、本をぱたんと閉じた。
そうしているうちに、あの人がやって来て、おれたちは、ひっそりと、新宿の街へと流れていった。
その一週間後、また、あの人との待ち合わせのため、マヤのところへ出向いた。 あの人がまだあらわれていなかったので、ふと、例の詩集を開いてみた。
やはり、また、栞がはさまれていた。 今度は、ちがう花を模したものだった。
それ以来、あの人と、待ち合わせするたびに、マヤの本を開き、そのたびにちがう花を見ることが、「逢い引き」 のひとつのたのしみになった。
けれど。 このひみつの関係をつづけていくことが、ひどく、ひどく、負担になってしまって、おれは、あの人にさようならを告げた。
おれが、身を切るような思いで告げた、さようなら。 に、あの人は、こころを込めた、こんにちは。 を返してきた。 おれは、その場にくずれそうになりながら、声を殺して、泣いた。
あれから、一年が経ち、「青山ブックセンター」 が破産してしまった、というニュースを知っても、そのときは、そうなのか、と思っただけだった。 たった一年しか経っていないのに? 一年も経てば、それはそうさ?
仕事が早く終わったので、帰り道、ふと、青山ブックセンターに寄ってみることにした。 一年まえまでは、このエスカレーターを、はずむような気持ちで駆け上がっていた。 そして、マヤ・アンジェロウの棚を一直線に目指し、あの人の、長い黒髪、あの人の細い肩、あの人のちょっと猫背ぎみの後ろ姿を見つけるだけで、むねをときめかしていたのに ... 。
それが、いまでは、もう、変わってしまって。 このエスカレーターをのぼるのが、こんなに憂鬱だなんて。 そして、おれたちの思い出の待ち合わせ場所が、跡形もなく、なくなってしまうなんて。
おれは、一年まえに流した、あまりにもしょっぱすぎる涙を思い返しながら、マヤ・アンジェロウの棚のまえに立った。
例の詩集を手にとってみる。 ぱらりとめくると、一年まえと同じように、押し花を模した栞がはさまっていた。 「忘れな草」 だった。
ああ。 「わたしをわすれないで」 ! なんてことだろう。 一年まえのおれの悲痛な叫びが、こんなところにひょっこりとあらわれてしまったのだろうか、と思うと、とてもいたたまれなくなって、その場をはなれた。 めがねの奥に、涙をかくしながら。
それから数日後、おれは、インターネット上で、青山ブックセンターで働く ある女性の手記のようなものを、偶然にも見つけた。
その手記によると、その女性は、店で働くなかで、さまざまな人間模様を観察することがたのしみだったと語っていた。
いろいろな人が、いろいろな目的で、あすこにやって来ていた、と。
毎日のように、同じ本を買おうか買うまいか悩んで、結局本を棚に戻す学生。
まるで好きな作家のものをいとおしんでいるかのように、その作家の本を、発表順に並び替える、若い女性。
毎回ちがう女性を連れてきて、おなじ写真集を女性にプレゼントする年配の男性。
いつも、同じ棚のまえで、待ち合わせをするカップル。
―― 「いつも、同じ棚のまえで、待ち合わせをするカップル」?
そして、この店員の女性は、あるとき、ふと思いついた 「いたずら」 をはじめたという。
いわく、彼女がいつも気にかけている人々の目的の本に、押し花の栞をはさみはじめたのだという。 その栞に気がついて、不思議がっている人々を、そっと見つめるのが、ひそかなたのしみだった、とか。
そして、今回の閉店の知らせが発表されたとき、さいごの 「いたずら」 をした。
この本屋のことをわすれないでほしいという願いをこめて、「忘れな草」 の押し花の栞をはさんだ、というのだ。
ああ。 このことに、おれの 「あの人」 は気がついているのだろうか? おれたちは、見知らぬ人から、こんなふうに気づかわれていたなんて。 あの人と、この押し花の栞のことについて、語り合えたなら、どんなにかすばらしいことだろう。 けれど、もう、おれたちの恋は終わってしまった。 そんな日は、きっと、二度とやって来やしない。
なんて、かなしい事実だろう?
けれど、おれたちは、こんな、身を引き裂かれるような思いを、何度も何度も繰りかえしながら、生きていかなくてはならないのだろうか?
―― こんなかなしみのなか、おれを唯一なぐさめてくれるのは、青山ブックセンター閉店の日、手記を書いた店員の女性あてに、たくさんの花束が届けられた、というニュースだけなのである。
* この物語は、フィクションです。
関連リンク:
・asahi.com 「青山ブックセンターが営業中止」
・Nikkeibp.jp 「個性派書店「青山ブックセンター」閉店が示唆するもの」
BGM:
The Kinks ‘Do You Remember Walter’
The Beatles ‘Hello, Goodbye’
おれは、ある女の人と、ひみつの関係を持っていた。
おれたちは、会社のメールで、「逢い引き」 の連絡をとっていた。
あの人が、会社のメールアドレスで送ってくるから。
なんとなく、おれも、会社のメールアドレスで送りかえしていた。
そうすれば、おれたちの 「逢い引き」 メールを、うっかり削除しわすれても、それぞれの見られてはならない人に、見られる心配はなかった。
携帯電話を持っていないあの人と会うのは、新宿の本屋。
青山ブックセンターの、マヤ・アンジェロウの棚のまえ。 これが、おれたちの、待ち合わせ場所だった。
新宿、七時半。 たったこれきりの文字列だけで、おれは、仕事もそこそこに、マヤ・アンジェロウの棚へと駆け出していった。
あるとき、待ち合わせ時間になっても、あの人が なかなかあらわれなかったので、すでに何度も読んだことのある詩集を手にとり、ぱらぱらとめくってみた。
ふと、押し花を模した栞がはさまれていることに気がついた。
いったい、どうしたのだろう? だれかが、なにかの思いを込めて、はさんだものだろうか? よりによって、マヤ・アンジェロウの詩集に? と、ちょっと気になったけれど、ふかく考えるのが、なんとなくこわくなって、本をぱたんと閉じた。
そうしているうちに、あの人がやって来て、おれたちは、ひっそりと、新宿の街へと流れていった。
その一週間後、また、あの人との待ち合わせのため、マヤのところへ出向いた。 あの人がまだあらわれていなかったので、ふと、例の詩集を開いてみた。
やはり、また、栞がはさまれていた。 今度は、ちがう花を模したものだった。
それ以来、あの人と、待ち合わせするたびに、マヤの本を開き、そのたびにちがう花を見ることが、「逢い引き」 のひとつのたのしみになった。
けれど。 このひみつの関係をつづけていくことが、ひどく、ひどく、負担になってしまって、おれは、あの人にさようならを告げた。
おれが、身を切るような思いで告げた、さようなら。 に、あの人は、こころを込めた、こんにちは。 を返してきた。 おれは、その場にくずれそうになりながら、声を殺して、泣いた。
あれから、一年が経ち、「青山ブックセンター」 が破産してしまった、というニュースを知っても、そのときは、そうなのか、と思っただけだった。 たった一年しか経っていないのに? 一年も経てば、それはそうさ?
仕事が早く終わったので、帰り道、ふと、青山ブックセンターに寄ってみることにした。 一年まえまでは、このエスカレーターを、はずむような気持ちで駆け上がっていた。 そして、マヤ・アンジェロウの棚を一直線に目指し、あの人の、長い黒髪、あの人の細い肩、あの人のちょっと猫背ぎみの後ろ姿を見つけるだけで、むねをときめかしていたのに ... 。
それが、いまでは、もう、変わってしまって。 このエスカレーターをのぼるのが、こんなに憂鬱だなんて。 そして、おれたちの思い出の待ち合わせ場所が、跡形もなく、なくなってしまうなんて。
おれは、一年まえに流した、あまりにもしょっぱすぎる涙を思い返しながら、マヤ・アンジェロウの棚のまえに立った。
例の詩集を手にとってみる。 ぱらりとめくると、一年まえと同じように、押し花を模した栞がはさまっていた。 「忘れな草」 だった。
ああ。 「わたしをわすれないで」 ! なんてことだろう。 一年まえのおれの悲痛な叫びが、こんなところにひょっこりとあらわれてしまったのだろうか、と思うと、とてもいたたまれなくなって、その場をはなれた。 めがねの奥に、涙をかくしながら。
それから数日後、おれは、インターネット上で、青山ブックセンターで働く ある女性の手記のようなものを、偶然にも見つけた。
その手記によると、その女性は、店で働くなかで、さまざまな人間模様を観察することがたのしみだったと語っていた。
いろいろな人が、いろいろな目的で、あすこにやって来ていた、と。
毎日のように、同じ本を買おうか買うまいか悩んで、結局本を棚に戻す学生。
まるで好きな作家のものをいとおしんでいるかのように、その作家の本を、発表順に並び替える、若い女性。
毎回ちがう女性を連れてきて、おなじ写真集を女性にプレゼントする年配の男性。
いつも、同じ棚のまえで、待ち合わせをするカップル。
―― 「いつも、同じ棚のまえで、待ち合わせをするカップル」?
そして、この店員の女性は、あるとき、ふと思いついた 「いたずら」 をはじめたという。
いわく、彼女がいつも気にかけている人々の目的の本に、押し花の栞をはさみはじめたのだという。 その栞に気がついて、不思議がっている人々を、そっと見つめるのが、ひそかなたのしみだった、とか。
そして、今回の閉店の知らせが発表されたとき、さいごの 「いたずら」 をした。
この本屋のことをわすれないでほしいという願いをこめて、「忘れな草」 の押し花の栞をはさんだ、というのだ。
ああ。 このことに、おれの 「あの人」 は気がついているのだろうか? おれたちは、見知らぬ人から、こんなふうに気づかわれていたなんて。 あの人と、この押し花の栞のことについて、語り合えたなら、どんなにかすばらしいことだろう。 けれど、もう、おれたちの恋は終わってしまった。 そんな日は、きっと、二度とやって来やしない。
なんて、かなしい事実だろう?
けれど、おれたちは、こんな、身を引き裂かれるような思いを、何度も何度も繰りかえしながら、生きていかなくてはならないのだろうか?
―― こんなかなしみのなか、おれを唯一なぐさめてくれるのは、青山ブックセンター閉店の日、手記を書いた店員の女性あてに、たくさんの花束が届けられた、というニュースだけなのである。
* この物語は、フィクションです。
関連リンク:
・asahi.com 「青山ブックセンターが営業中止」
・Nikkeibp.jp 「個性派書店「青山ブックセンター」閉店が示唆するもの」
BGM:
The Kinks ‘Do You Remember Walter’
The Beatles ‘Hello, Goodbye’