阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

11月7日広島県立図書館「厳島道芝記」など

2018-11-08 10:52:00 | 図書館

  書庫から出していただいたのは芸藩通志巻2と厳島道芝記巻4、道芝記は国立公文書館の画像を見て島廻りの記述がある巻四にしたのだけれど、中身は同じ版であるのに構成が違っていて公文書館だと巻6あたりだった。ちょうど大頭神社の記述がある部分だったのでそちらを先に読むことにした。担当の者が取って来るといつもより少し待たされた。道芝記は1702年刊と検索画面にあり、こういう和書は取り扱う人が決まっているのだろうか、そう言われるとページをめくるのも少し緊張した。公文書館の画像より鮮明できれいな本だった。

これだと鳥と烏は間違えようがない。御鳥喰式は厳島神社公式と同じトリの字、そうすると大頭神社公式にあったカラスの字は文献ではどれぐらい遡れるのだろうか。少し時代が下った厳島図会では霊烏や神烏に「ごがらす」とルビを振っていたが、ここでは「五烏」とある。四鳥の別れの神事では千四百年間にわたってカラスは親子二つがい四羽しか登場しないのに五烏とは面白い。また、道芝記には

「此供御あげてより親烏は行方しれず子烏一双相続して翌日よりは御島廻に子烏一つがひ出たまふ」

という記述はあるものの「四鳥の別れ」という言葉は登場しない。後年の厳島図会(1842)では、

「毎年の九月廿八日に四鳥の別といふことあり当社の祠官鳥居の傍に食を供し神楽を奏ずれば神鴉一双とび来り神供をあぐるなりそもそもこの神鴉といふは弥山の条に記すごとく往古より一双年々相續せり」

と四鳥の別が入っている。芸藩通志でも、

「九月廿八日、厳島祠官来会し、舞楽を奏し、社傍の石に鳥喰飯を供す、厳島弥山の神烏来りて之を啄み、親子別れ去る、此を四烏の別といふ」

とあり、四烏とカラスになっているが四鳥の別れが入っている。広島県史第2編はこれを引用した上で、

「按に四烏の別といふこと支那にもあり、秋長夜話に大頭大明神の祭りに烏喰と云物を供す、神鴉之を食て後親鴉雌雄いつくともなく去り、唯子鴉雌雄留まる、之を四烏の別といふは俗傳の誤なり、四烏の別といふは、初学記に孔子家語を引て曰、恒山之烏生四子羽翼既成将分離悲鳴以相送、これを四烏の別といふなりといへり。」

と秋長夜話を引用して四烏の別は俗伝としている。なるほど孔子の四鳥別離の故事では四羽とも子ガラス、それが大頭神社は親子二つがいで四羽になっている。道芝記にないことから、四鳥の別れという言葉は江戸中期頃に付け加えられたのかもしれない。長くなるからいちいち書かなかったけど、トリかカラスかの問題、ややこしさを増しているような。整理して語れる日が来るのだろうか。

 図書館に滞在できるのは午後の二時間、すぐに時間は過ぎて、「狂歌かゝみやま」が入っている近世上方狂歌叢書1と「鹿苑院殿厳島詣記」が収録されている中世日記紀行文学全評釈集成6の二冊を借りて帰った。厳島詣記は読みやすく帰りの芸備線のニ十分で義満が厳島参拝のあと強風のため九州を断念して引き返し尾道についたところまで読んでしまった。これを借りたのは大頭神社を参拝した時に大野浦駅前にあった今川了俊の歌碑がきっかけだった。その歌碑(再掲)には、


おおのうらを

  これかととえば

   やまなしの

 かたえのもみじ

  色にいでつつ


とあり、随分仮名遣いが現代風になってるのかなと思ったけれど、今回同じ本に収録してある「道ゆきぶり」に、


 大野浦をこれかと問へば山梨の片枝の紅葉色に出でつゝ


とあり、それほどでもなかった。「狂歌かゝみやま」の正月の歌の中に、元旦にえびす様のお札を売り歩く上方の風習、若夷の歌が数首あった。一首紹介しておこう。


     としたつ日                木端

 若えひす若えひすをはあめつちの産み出す春のうふこゑときく


そして最初ちょっと読んだところで「はんなり」の用例が出てきてテンション上がった。しかし、ここで舞い上がることなくじっくり読んでみたい。



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