浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行
5-2
黙想の性質
「黙想の有益なことは、私等とても分からぬじゃありません。しかし、それは、普通の信者の到底実行できるところではないんですもの」という人がいる。
これは、黙想の性質をよくご存知ないところから出て来る思い違いというものである。
では、黙想とは何ですか。
1 黙想は勉強ではない
勉強には、主に頭を使うが、黙想にはかえって心を働かせる。で、黙想するためには、そうまで深い智慧はいらない。何にも知らぬ田舎人であっても、天主様を一身と愛する心さえあれば、立派に黙想することができる。
要は、ただまっすぐな意向、清い心、ぜひとも黙想の道をわかりたいという熱い望みを持っていることで、それがありさえすれば、学問が無かろうと、才知が浅かろうと、そんなことは少しも差し支えありません。
2 黙想は読書でもない
読書は、たとえれば、汽車の窓から四方をのぞくようなもので、山も川でも瞬く間に飛び去ってしまう。
黙想はこれに反して、ゆるゆる杖を留めて、青い山や、白い川を眺め、静かにその美しい景色を楽しむのにもたとえられます。
ミツバチは、花を尋ねて八方に勢い鋭く飛んでゆくが、ひとたび佳い花を見当たると、それにとどまり一心と蜜を吸い、花粉を集めるようなものである。
それでは、黙想とは何しょうか。
3 黙想は天主様と親密に、情愛を込めて御話することである
子が父と、友が友と物語るように、天主様と親しく物語ることである。だから、黙想は決してひとりごとではない。対話である。親しい対話である。
天主様に自分の思惑を申し上げるとともに、また、天主様の御言葉をも聴くのである。しかし天主様がわたしのような者にでも御話くださるでしょうか。くださいますとも。
あなたに御出現になって、親しく御耳にささやいてくださることはあるまい。でも、胸に善い思いが起こり、心に美しい感じが燃え出したときには、これは、天主様に御声が響いているではありませんか。
黙想は天主様と御話することだから、ただ天主様に向かって
「主を愛します」
だの
「私の罪を赦し給え」
だのと繰り返し申し上げたばかりでも、既に立派な黙想である。だから黙想は決して難しいものではない。だれにでも出来る。する気にさえなれば、できない人は無い。
人は、自分の好きなことだの、利益になり、損害になる物だのは、始終忘れないで思うものでしょう。そうすれば、天主様を愛し、救霊を気にするほどの人ならば、おのずとそれらのことを思うはずではありませんか。
これが、いわゆる黙想というもので、何もそんなに難しいものではないのであります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/94/2ad3efb5cc5ab609fa616498aca4e104.jpg)
5-2
黙想の性質
「黙想の有益なことは、私等とても分からぬじゃありません。しかし、それは、普通の信者の到底実行できるところではないんですもの」という人がいる。
これは、黙想の性質をよくご存知ないところから出て来る思い違いというものである。
では、黙想とは何ですか。
1 黙想は勉強ではない
勉強には、主に頭を使うが、黙想にはかえって心を働かせる。で、黙想するためには、そうまで深い智慧はいらない。何にも知らぬ田舎人であっても、天主様を一身と愛する心さえあれば、立派に黙想することができる。
要は、ただまっすぐな意向、清い心、ぜひとも黙想の道をわかりたいという熱い望みを持っていることで、それがありさえすれば、学問が無かろうと、才知が浅かろうと、そんなことは少しも差し支えありません。
2 黙想は読書でもない
読書は、たとえれば、汽車の窓から四方をのぞくようなもので、山も川でも瞬く間に飛び去ってしまう。
黙想はこれに反して、ゆるゆる杖を留めて、青い山や、白い川を眺め、静かにその美しい景色を楽しむのにもたとえられます。
ミツバチは、花を尋ねて八方に勢い鋭く飛んでゆくが、ひとたび佳い花を見当たると、それにとどまり一心と蜜を吸い、花粉を集めるようなものである。
それでは、黙想とは何しょうか。
3 黙想は天主様と親密に、情愛を込めて御話することである
子が父と、友が友と物語るように、天主様と親しく物語ることである。だから、黙想は決してひとりごとではない。対話である。親しい対話である。
天主様に自分の思惑を申し上げるとともに、また、天主様の御言葉をも聴くのである。しかし天主様がわたしのような者にでも御話くださるでしょうか。くださいますとも。
あなたに御出現になって、親しく御耳にささやいてくださることはあるまい。でも、胸に善い思いが起こり、心に美しい感じが燃え出したときには、これは、天主様に御声が響いているではありませんか。
黙想は天主様と御話することだから、ただ天主様に向かって
「主を愛します」
だの
「私の罪を赦し給え」
だのと繰り返し申し上げたばかりでも、既に立派な黙想である。だから黙想は決して難しいものではない。だれにでも出来る。する気にさえなれば、できない人は無い。
人は、自分の好きなことだの、利益になり、損害になる物だのは、始終忘れないで思うものでしょう。そうすれば、天主様を愛し、救霊を気にするほどの人ならば、おのずとそれらのことを思うはずではありませんか。
これが、いわゆる黙想というもので、何もそんなに難しいものではないのであります。
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