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黙想の性質 『基督信者宝鑑』

2021-02-04 01:08:50 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

5-2
黙想の性質

「黙想の有益なことは、私等とても分からぬじゃありません。しかし、それは、普通の信者の到底実行できるところではないんですもの」という人がいる。
これは、黙想の性質をよくご存知ないところから出て来る思い違いというものである。

 では、黙想とは何ですか。

1 黙想は勉強ではない
 勉強には、主に頭を使うが、黙想にはかえって心を働かせる。で、黙想するためには、そうまで深い智慧はいらない。何にも知らぬ田舎人であっても、天主様を一身と愛する心さえあれば、立派に黙想することができる。
 要は、ただまっすぐな意向、清い心、ぜひとも黙想の道をわかりたいという熱い望みを持っていることで、それがありさえすれば、学問が無かろうと、才知が浅かろうと、そんなことは少しも差し支えありません。

2 黙想は読書でもない
 読書は、たとえれば、汽車の窓から四方をのぞくようなもので、山も川でも瞬く間に飛び去ってしまう。
 黙想はこれに反して、ゆるゆる杖を留めて、青い山や、白い川を眺め、静かにその美しい景色を楽しむのにもたとえられます。
 ミツバチは、花を尋ねて八方に勢い鋭く飛んでゆくが、ひとたび佳い花を見当たると、それにとどまり一心と蜜を吸い、花粉を集めるようなものである。
 それでは、黙想とは何しょうか。

3 黙想は天主様と親密に、情愛を込めて御話することである
 子が父と、友が友と物語るように、天主様と親しく物語ることである。だから、黙想は決してひとりごとではない。対話である。親しい対話である。
 天主様に自分の思惑を申し上げるとともに、また、天主様の御言葉をも聴くのである。しかし天主様がわたしのような者にでも御話くださるでしょうか。くださいますとも。
 あなたに御出現になって、親しく御耳にささやいてくださることはあるまい。でも、胸に善い思いが起こり、心に美しい感じが燃え出したときには、これは、天主様に御声が響いているではありませんか。

 黙想は天主様と御話することだから、ただ天主様に向かって
「主を愛します」
だの
「私の罪を赦し給え」
だのと繰り返し申し上げたばかりでも、既に立派な黙想である。だから黙想は決して難しいものではない。だれにでも出来る。する気にさえなれば、できない人は無い。
 人は、自分の好きなことだの、利益になり、損害になる物だのは、始終忘れないで思うものでしょう。そうすれば、天主様を愛し、救霊を気にするほどの人ならば、おのずとそれらのことを思うはずではありませんか。
 これが、いわゆる黙想というもので、何もそんなに難しいものではないのであります。




黙想『基督信者宝鑑』

2021-02-01 04:11:46 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

5 黙想

5-1
黙想の必要とその利益

 朝の祈祷の後、しばらくの間黙想することにいたしなさい。
 黙想は救霊のために極めて肝要であって、かねがね黙想しない人で、罪を怖れ、主を愛し、永く聖寵を保持って行くというのは、ナカナカおぼつかないのである。

 聖書にも、
「地は荒れに荒れた。心に想う人が無いものだから」(エレミヤ12-2)
とあるが、世の中に徳の光が次第に薄れ行って、罪の暗はいよいよ深くたちこめるようになるのは、実に永遠の大理を黙想する人がないからである。

 死去だの、審判だの、天国、地獄だの、いうことについて始終まじめに黙想していると、どうしても罪なんて犯されはせぬはずである。
 こころみに、今、地獄で泣いている霊魂に向かって、
「どうしてこんな所へ来たのだ」
と尋ねてごらん。
「地獄を想わなかったからですよ」
と大概のは答えるでございましょう。

 黙想は実に心の闇を照らす光明である。永遠の旅路に輝く太陽である。
したがって、黙想しない人は、闇夜にちょうちんを持たぬで、知らぬ土地を旅行する愚か者といわなければならぬ。
 救霊の大切なる、罪の憎むべき、地獄の怖るべきことなども、いっこうに見えないものだから、つまづいて、転んで、倒れるのは、不思議ではない。
 だから聖テレジアは、
「黙想になまける霊魂は、悪魔の手を借りないでも、自分で地獄へ飛び込むよ」
とおっしゃったくらいであります。

 世には、ロザリオなどを怠らずとなえながらも、罪悪と手を握り合っている人が無いわけではないが、平生熱心に黙想しながら、罪悪に親しんでいるという人を見たことはない。黙想と罪悪は、ふたつとも並び立って行けるものではない。黙想を病めなければ必ず罪悪を棄てるものであります。

 黙想は、ただ罪を避けるのに助けとなるのみならず、善を行うのにも、また、極めて肝要である。聖人といわれる御方は、いずれも黙想によって聖人となられたのだ。鏡にむかってこそ顔の汚点も見られる。お化粧もされる。
 黙想は心を照らす明鏡だ。不足も過失も、罪の汚点も、鮮やかにこれに映るので、とてもはずかしくてじっとしておられない。一日も早くその汚点を洗い落として、身分相応に徳のお化粧を施したくなってくるのであります。

 そのうえ、黙想をすれば、永遠だの、天国だの、地獄だのというような大切な思想が始終頭に浮かんでいるので、おのずから罪を怖れ、徳を愛する気になる。イエズス様、聖マリア様、諸天使、諸聖人等とも親しく交わり、いわば、共に道連れとなっていただいて、天国の旅行をするようなものであるから、なぐさめてももらえる、励ましてももらえる、注意してももらえる、倒れてもすぐに手をとって引き起こしてもらえるのだ。

これほど安全な旅行があるでございましょうか。



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4-3 朝の祈祷の唱え方

2021-01-31 07:58:26 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行
4-3 朝の祈祷の唱え方

 朝の祈祷を怠ってはならぬことは誰でも知っている。しかし、怠らずとなえはとなえても、善く唱えなければいけないのだが、さて善くとなえるとはどのようにとなえるのだか、それをご存知ない方は多いものである。
 朝の祈祷を善く唱えるには、

1 起きて顔を洗ったら、すぐに唱えなければならぬ。牛馬の世話をする前に、タバコを吹かし、新聞に目を通す前にまず天主様に御挨拶を申し、その日の御初穂を献げるのが当たり前じゃありませんか。
 後で後でと差し延ばしていると、思わず時間がたつ、人が来る、用件が起こるして、やむを得ずこの大切な御勤行を怠るようになるものであります。

2 十字架の前か、聖母の御像の前かにひざまずいて唱えねばならない。
 聖堂に於いてとなえれば最も良い。服を着ながら、道を歩きながら、火にあたりながら、あるいは仕事片手に天主様にお話を申し上げると言うのは、ちょっと失礼ではありますまいか。

3 そろそろ唱えねばならぬ。
 御威光限りない天主様の尊前に出て、御挨拶を申し上げるだのに、自分ながら何を言っているのか分からないくらいに口早にとなえては失礼であろう。そんなに急いではじめから終わりまで唱えるよりか、半分でも、三分の一でも、そろそろと、念を入れてとなえたほうが、天主様のみこころにかないますし、自分の為にもなります。

4 気をつけてとなえねばならぬ。毎日毎日同じ文句を繰り返すのだから、ついにはそれが習慣となって格別こころを留めなくなってくる。気は八方に散り乱れる。いろいろのつまらぬ想像は、やたらに頭脳の中に跳り廻る。唇は動いた。声も聞こえたが、霊魂は何も言っていない。
 天主様は霊魂の声しかお聞き入れくださらないのに、霊魂が何も言わなくては、いくら口の先で、ペラペラとしゃべり立てても、なんにもなりません。せめてはその祈祷のことばに注意して唱えるとか、あるいはそのことばの意味を思いながら唱えるとか、もしくは天主様のことやら、イエズス様のことやら、その御降誕なり、御苦難なり、聖体なりを考えつつ、うやうやしく申し上げるとかしなければならぬ。
 口先ばかりの祈祷は、天主様の御耳には、とどかないものであります。

5 前もって、意向を定めねばならぬ。
こどもの病を癒してもらいたい、試験に及第させてもらいたい、遠方に出かけた夫を無事に帰宅させていただきたい、愛する父母の霊魂を早く煉獄から救い上げて戴きたいと思って祈るときには、
誰でも熱心になる。
 心など散らしはしません。
 だから、朝の祈祷をとなえるにも、誰のために祈る、何の御恵みを願う。
 この罪を避け、あの徳を修める力を乞い求めるというように、しかと意向を定めて、祈祷をはじめたら、よほど心の散り乱れるのを防ぐことが出来ます。

 なお、祈祷を始める前にちょっと心をしずめて、天主様の尊前に在ることを思い出すのもよほど助力になります。

 ひばりという鳥は、地上に居っては鳴くものではない。鳴くときには必ず天に舞い昇る。うらうらと霞んだ春の大空に、チョロチョロと、美しい声でさえずりながら、高く高く天に登って行く、いつまでも登っていく、登れるだけ登ってから、
 いよいよ銀鈴のような声で、チョロチョロと歌うのですが、それを聞くと、全く御祈祷でもしているかのように思われるくらい、しばらく歌ってから、万物の創造主である天主様に讃美歌を献げられたのが嬉しいといわんばかりに、スウと降りてきて、静かに草の中に隠れるのであります。

 祈祷をするときも、このひばりの真似をせねばならぬ。しばらくの間、地を離れ、側の人や、身の回りのことを忘れ、用件も何も放ってしまって、心を高く天にあげて、「天主様がそこに在します。私のことばに耳を傾けてくださる。私は、今、天主様に向かってお話するのだ」
 このように一心に考えて、祈祷を始めると、よほど心が引き締まってきて、むやみに散り乱れる憂いはないものであります。

要するに朝の祈祷の目的は、

1 天主様を礼拝していままでかたじけなくした聖恩を感謝する
2 自分の思い、望み、言葉、行いを献げる
3 罪を避け、徳を修めるに要する聖寵を乞い求める

 この3つであるから、
 心が非常に散り乱れて、何をとなえたか自分ながらわからなかったというようなときには、この3つの目的に従って、主祷文、天使祝詞、栄誦を各々3回ずつでも、熱心にとなえて、これを補うようにするがよいかと思われます。




朝の祈祷の利益『基督信者宝鑑』

2021-01-28 03:55:54 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行
4-2 朝の祈祷の利益

 一日のうちに、私どもの為すべき事は多いものである。したがって、いつも天主様に助けてもらい、導いてもらい、強めて照らして、慰めてもらわなければならぬのだから、朝の祈祷をもってそれらのお恵みを願っておくのです。

 一日の中には、随分と艱難苦労にも出くわさねばならぬから、朝の祈祷をもってあらかじめこれをすべての慰めの神なる主の御手に献じて置くのです。ゲッセマニの園におけるイエズス様に倣い

「主よ、出来るものなら この艱難苦労を私より遠ざけて戴きたいものですが、しかし私の意のままにとは申しません。みこころに従ってお計らいください」

と祈ったら、きっとまたイエズス様のように、奮ってこれを引き受け、勇ましくこれを耐え忍ぶ力を与えられるでございましょう。

何事も、すべて
「天主様の御ために」と思って、これを致しますると、すくなからぬ功徳になることは既に
申し上げたとおりである。

 何のとりえもない尋常一様の行為でも、心がけひとつでは案外に立派な宝を産み出せるのだから、是非とも恭しくひざまづいて、朝の祈祷をとなえ、その日その日を天主様に献げてその尋常一様の行為に、黄金の実を結ばせるようにせねばならないのじゃありませんか。

 終に一日の中には危険を遠ざけねばならぬ。誘惑にうちかたねばならぬ。あやまちも改め、徳も磨かねばならぬ。しかし、私どもは極々か弱いもので天主様の聖寵に頼らなくては、何一つやりきれるものではない。そこで、朝の祈祷をもってその聖寵を求めておくのであります。

 ある少女が、見事なつぼみのついた、一株のバラの樹を友達からもらって来て、これを鉢に植え、朝と晩には必ず水を遣って、大切に培養していました。つぼみはだんだん大きくなって、ついには朱の唇を開きました。大きな美しい花になりました。ところがある朝、ちょっと常より忙しかったために、スッカリ水を遣るのを忘れました。あいにく、その日は太陽がガンガン照りつけたものだからたまりません。夕方いってみると、その見事なバラの花も葉もグンニャリと首をうなだれて、全く見られたものじゃありません。

 少女は泣き出したくなりました。今更のように朝の仕損を後悔しましたけれども、もう後の御祭り、どうすることもできなかったということであります。

 私どもの霊魂も、このバラの樹のようなもので、これに美しい徳の花を咲かせるには、毎朝毎晩怠らずに聖寵の水を遣らなければならぬ。
 でも、その聖寵の水を遣るジョーロは、祈祷であるから、一朝でもこの祈りのジョーロを手にとることを忘れたものなら、たちまち霊魂は悪魔の熱気に当てられて、グンニャリと萎れてしまわぬとも限りません。とにかく、聖寵の水が無くては、徳の花は咲かない。そして、聖寵の水は、祈祷のジョーロによらなければ注がれぬものだということを忘れてはなりません。




朝の祈祷の必要『基督信者宝鑑』

2021-01-27 07:53:54 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行
4-1 朝の祈祷の必要

 起きて、顔を洗い、身支度をすましたら、何はさておき、まず朝の祈祷をとなえなければならない。朝の祈祷は私どもが天主様に対して尽すべき当然の義務である。子どもは毎日、父母の前へ出てお辞儀する。お辞儀しない子どもは、しつけが悪いと賎しめられましょう。
 ところで、私どもは天にも御父をもっている。いかなる父も及ばぬ慈愛を傾けて私どもを愛してくださる御父を持っている。毎朝この御父の前へ出て、朝の祈祷をとなえてお辞儀をするのは、子どもたる私どもの当然の義務ではありませんか。
 しつけの良いキリスト信者が、どうして一朝でもこれを怠りてなりましょう。

 天主様は私どもの御父たると共にまた御主君でもあらせられる。主君に対して相当の礼を尽すのは、臣下たる者の本分である。してその天主様に対して尽すべき相当の礼とは、礼拝したり、感謝したり、罪の赦しや必要の恵みを願ったりすることで、祈祷というのは、つまり、この4つの義務を果たすに他ならぬのである。
 しかし、日の内には人が来るやら、用事が起こるやら、野に山に稼ぎまわらねばならぬやらで、とてもゆっくり祈祷なんかしている余裕がない。
 だから、せめて朝、未だ人も来ない、仕事も取りかからない前に御祈祷をして、臣下の道を尽すのであります。

 このように祈祷は、人が天主様に対して服従の尊敬、愛慕などの情を表す為に捧げる貢ぎ物みたいなもので、必ずしも朝に限るというわけではない。
 しかしながら、朝の祈祷を怠るほどなら、とても日の中にひとくちの祈祷でもとなえるはずがない。従って、全く人の人たる義務を怠って、終には犬猫も同然になってしまうのであります。

 フランスがアルジェリアを征伐したころ、敵の捕虜となった一人の士官があった。
 ある日、どうした都合だったか、護衛の兵士がその士官に向かって

「クリスチャンの犬め」

と怒鳴りつけた。
 士官は犬と言われて起こるまいことか、火のようになって、

「ナニ俺を犬だと?

 貴様の捕虜にこそはなっているが、貴様と同じく立派な人間様だ」
と申しました。
 兵士はジロジロとその士官を見つめ、いかにも軽蔑した調子で

「お前が人間様ッて。よくまあそんな口幅広いことが言われたものだ。考えてみい。俺の捕虜になってからもう6ヶ月にもなるだろう。それに、ただの一度でもお前が祈祷をするのを見たことはない。いくら人間様だと威張ったからって、それではどうして人間様にはもったいない、犬じゃ、犬じゃ。」
と答えたとか。

 なるほどそう言われては一言もない。自分を造り、あがない、護り、たすけてくださる、まことの神様を明らかに認めているキリスト信者の身を持ちながら、朝夕の祈祷もしないようでは、犬猫と何の違ったところがありましょう。
 ただ、地面ばかりを眺め、一度でも頭をもたげて天を仰ごうともしないような人は、どうして霊魂を持たぬ、神様も識らぬ犬猫も同様だとしか思われますまい。



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