
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
2 殷より周へ
3 殷周の革命
周の文王は、いよいよ中原に兵をすすめたが、陣中で没した。
よって征服の事業は、その子の発(はつ)にひきつがれた。これが、武王である。
武王のひきいる周の軍は、殷の都にせまった。
そして都の西南、牧野(ぼくや)において、天下わけ目の決戦がおこなわれ、ついに周が勝った。
殷の軍は総くずれとなり、紂王(ちゅうおう=帝辛)は宮殿に走り入って、火をかけ、そのなかで死んだ。
こうして周の天下は定まった。
文王から武王の代にかけ、軍師として重きをなしたのが、太公望である。
その名は呂尚(りょしょう)、かつて渭水(いすい)のほとりにつり糸をたれていたところ、たまたま通りかかった文王に見いたされたという。
しかし、これも伝説にすぎない。この時代には、名もなき民が重くもちいられるようなことはなかった。
呂尚もまた、周の王室と婚姻をむすんでいた氏族の出身であった、と考えられる。
のち、呂尚は大名に取りたてられ、「斉」の国をひらいた。
また武王が兵を発するとき、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)という兄弟は、王の馬をおさえていった。
「父王が亡くなられて、葬礼(そうれい)もおこなわぬうちに、兵をおこすのは、孝といえましょうか。
臣たる身で、主君を殺そうとするのは、仁といえましょうか」。
しかも武王は殷をほろぼし、周の天下となった。
伯夷・叔斉は、これを恥として首陽山(しゅようざん)にかくれ、ワラビを食しつつ、ついに餓死した、という。
ところが、この話も事実とは認められない。
やはり後世になって(戦国時代)、つくりあげられたものとおもわれる。
武力による革命(天命をあらためること)を否定する思想から、理想の人物として、このような義人の姿がえがきだされたものであろう。
ともあれ武王は、殷をほろぼしたが、その地を直接に統治しようとはせず、紂王の子の武庚(ぶこう)を立てて、自治にまかせた。
そして弟の管叔(かんしゅく)・蔡叔(さいしゅく)・霍叔(かくしゅく)を三監として、その監督にあたらせた。
殷をたおしたものの、中原を統治するだけの力はなかったためであろう。
武王は西へもどった。そして都を鎬京(こうけい)にうつした。
この殷周の革命の時期は、最近の説によれば、前一〇二七年のことと推定されている。
まず前十一世紀の後半とかんがえられよう。
それから二年にして、武王は死んだ。もとより王朝の基礎は、まだ安定していない。
あとつぎの成王も、なお幼少であった。よって武王の弟たる周公旦(たん)が、政務をつかさどった。
ところが、たちまちにして大反乱がおこったのである。
武庚(ぶこう)が、殷の遺民をひきいて立ちあがった。
のみならず、これを監督すべき管叔や蔡叔まで、周公が位をうばったと称して、反乱に呼応した。
かつて殷に服していた東夷の諸族も、また立った。
この報に接して周公は、召公?(せき)と力をあわせ、大軍をくりだして東へむかった。
さいわいにして周の軍は、ふたたび勝利をおさめ、武庚や管叔らは殺された。
ついで周の軍は、このたびの反乱におうじた東夷の地へすすんだ。
その足跡たるや、東は山東半島から、また南は長江をこえた江南の地(江蘇)にまでおよんだのである。
これほどの大遠征について、古典にはほとんど記すところがない。
しかし近年になって、山東や江南から、周の銅器が発見されて、その銘文(めいぶん)に、この遠征のことが、きざまれてあったのである。
いまや周の勢力のおよぶ範囲は、さきの殷の時代よりもひろまった。
殷の故地には、ふたたび反乱のおこることがないように、周公の弟の康叔が封ぜられた。
これが「衛(えい)」の国のおこりである。
しかも殷の祭祀(さいし)が絶えることのないように、殷王の一族(紂王の兄)を商邱(しょうきゅう)にうつして、あたらしい国を建てさせた。
これが「宋」の国のおこりである。
祖先のまつりというものは、その子孫たるもののほかは、おこなうことができない。
そこで、国をほろぼしても、あたらしい支配者(たとえば周)は、ほろびた国(たとえば殷)のまつりを、おこなえないのである。
まつられなければ、その祖先神は、あたらしい支配者にたたるであろう。
それをおそれて、ほろびた国の祭祀も、絶えることがないように処置されたのである。
事実かどうかはわからないが、「宋」が殷の子孫であると同じように、「杞(き)」の国は夏(か=禹)の子孫であり、「陳(ちん)」の国は舜の子孫である、と伝えられていた。
2 殷より周へ
3 殷周の革命
周の文王は、いよいよ中原に兵をすすめたが、陣中で没した。
よって征服の事業は、その子の発(はつ)にひきつがれた。これが、武王である。
武王のひきいる周の軍は、殷の都にせまった。
そして都の西南、牧野(ぼくや)において、天下わけ目の決戦がおこなわれ、ついに周が勝った。
殷の軍は総くずれとなり、紂王(ちゅうおう=帝辛)は宮殿に走り入って、火をかけ、そのなかで死んだ。
こうして周の天下は定まった。
文王から武王の代にかけ、軍師として重きをなしたのが、太公望である。
その名は呂尚(りょしょう)、かつて渭水(いすい)のほとりにつり糸をたれていたところ、たまたま通りかかった文王に見いたされたという。
しかし、これも伝説にすぎない。この時代には、名もなき民が重くもちいられるようなことはなかった。
呂尚もまた、周の王室と婚姻をむすんでいた氏族の出身であった、と考えられる。
のち、呂尚は大名に取りたてられ、「斉」の国をひらいた。
また武王が兵を発するとき、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)という兄弟は、王の馬をおさえていった。
「父王が亡くなられて、葬礼(そうれい)もおこなわぬうちに、兵をおこすのは、孝といえましょうか。
臣たる身で、主君を殺そうとするのは、仁といえましょうか」。
しかも武王は殷をほろぼし、周の天下となった。
伯夷・叔斉は、これを恥として首陽山(しゅようざん)にかくれ、ワラビを食しつつ、ついに餓死した、という。
ところが、この話も事実とは認められない。
やはり後世になって(戦国時代)、つくりあげられたものとおもわれる。
武力による革命(天命をあらためること)を否定する思想から、理想の人物として、このような義人の姿がえがきだされたものであろう。
ともあれ武王は、殷をほろぼしたが、その地を直接に統治しようとはせず、紂王の子の武庚(ぶこう)を立てて、自治にまかせた。
そして弟の管叔(かんしゅく)・蔡叔(さいしゅく)・霍叔(かくしゅく)を三監として、その監督にあたらせた。
殷をたおしたものの、中原を統治するだけの力はなかったためであろう。
武王は西へもどった。そして都を鎬京(こうけい)にうつした。
この殷周の革命の時期は、最近の説によれば、前一〇二七年のことと推定されている。
まず前十一世紀の後半とかんがえられよう。
それから二年にして、武王は死んだ。もとより王朝の基礎は、まだ安定していない。
あとつぎの成王も、なお幼少であった。よって武王の弟たる周公旦(たん)が、政務をつかさどった。
ところが、たちまちにして大反乱がおこったのである。
武庚(ぶこう)が、殷の遺民をひきいて立ちあがった。
のみならず、これを監督すべき管叔や蔡叔まで、周公が位をうばったと称して、反乱に呼応した。
かつて殷に服していた東夷の諸族も、また立った。
この報に接して周公は、召公?(せき)と力をあわせ、大軍をくりだして東へむかった。
さいわいにして周の軍は、ふたたび勝利をおさめ、武庚や管叔らは殺された。
ついで周の軍は、このたびの反乱におうじた東夷の地へすすんだ。
その足跡たるや、東は山東半島から、また南は長江をこえた江南の地(江蘇)にまでおよんだのである。
これほどの大遠征について、古典にはほとんど記すところがない。
しかし近年になって、山東や江南から、周の銅器が発見されて、その銘文(めいぶん)に、この遠征のことが、きざまれてあったのである。
いまや周の勢力のおよぶ範囲は、さきの殷の時代よりもひろまった。
殷の故地には、ふたたび反乱のおこることがないように、周公の弟の康叔が封ぜられた。
これが「衛(えい)」の国のおこりである。
しかも殷の祭祀(さいし)が絶えることのないように、殷王の一族(紂王の兄)を商邱(しょうきゅう)にうつして、あたらしい国を建てさせた。
これが「宋」の国のおこりである。
祖先のまつりというものは、その子孫たるもののほかは、おこなうことができない。
そこで、国をほろぼしても、あたらしい支配者(たとえば周)は、ほろびた国(たとえば殷)のまつりを、おこなえないのである。
まつられなければ、その祖先神は、あたらしい支配者にたたるであろう。
それをおそれて、ほろびた国の祭祀も、絶えることがないように処置されたのである。
事実かどうかはわからないが、「宋」が殷の子孫であると同じように、「杞(き)」の国は夏(か=禹)の子孫であり、「陳(ちん)」の国は舜の子孫である、と伝えられていた。