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[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、2-4

2017-01-13 04:31:31 | 遠藤周作批判
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-4、キリスト者の信条  踏絵 (デルコル神父)

 キリストのこの教えは、きびしすぎると思われるかもわからない。信仰のない人、信仰のうすい人には、そう思われるのもやむをえないだろう。使徒聖パウロが明らかにのべているとおりである。

「実に十字架のことばは、滅びるものには怠かであるが、救われるもの、私たちにとっては、神の力である」(コリント前1・18)と。

 この世の知者や学者はキリストのみ言葉を認めることができない。それは、神の知恵ではなく、自分の知恵によりたのむからである。そのためにこそ、聖パウロは、「神は宣教のおろかさをもって信じるものを救おうとおぼしめされた」といっているのである。そして、こうつづける、

「そのために私たちは、十字架につけられたキリストをのべ伝える。それは、ユダヤ人にとって、つまずきであり、異邦人にとって、おろかであるが、しかし、召された人にとっては、神の力、そして、神の知恵キリストである。神のおろかさは、人間よりもかしこく、神の弱さは、人間よりも強いものだからである」(コリント前1・20-25)と。

 これよりもはっきりしたことばがありえようか?二千年ものあいだの殉教者、なかでもキリストに対する忠実を示すために、おそろしい拷問のなかで、いのちをなげすてた日本の英雄的なかずかずの殉教者たちのことを、踏絵に足をかけなかったから、かれらには知恵がたりなかったとでもいいたいのだろうか?それとも、いのちをなげうつべきだと考えたことは、まちがっていたとでもいいたいのだろうか?

 では、どういう名目のもとにキリストの福音を変えようとするのだろう?

 たとえ、殉教者たちに、キリストについて学問的な知識がなかったとしても、あるいは、教理の知識が最低限度であったとしても、しっかりした信仰、疑いをまじえない希望・熱烈な愛にもえていたからこそ、かれらは、すべてにこえ、知恵と心と力をつくして、キリストを愛したのだ!

 それなのに、遠藤周作氏のこの記事は、キリストのこの熱愛者のふかい信仰にかげを投げかけようとするのだろうか?

(続く)


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