映画「沈黙」の公開が近いので、急遽、掲載します。これらの記事は半年前にカトリックグループに掲載されたものです。
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』
◆2、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)
「弱い人のためにキリストは、この世にきた」
昭和四七年一月二三日のカトリック新聞第六面に、遠藤周作氏の「踏絵」という短かい記事がある。
この記事で、まず目にとびこんでくるのは、「弱い人のためにキリストは、この世にきた」というキャッチフレーズだ。
まったくそのとおりだと私は思う。キリストは、私たち弱い人間のためにこそこられたのである。しかし私は、その記事をよんでいくうちに、あまりのおどろきに目をみはった!
そこでキリストは、弱い人間を強め、その弱さから救いあげるためにこられたのではない。結論からみると、かえって人間をめめしくし、その弱さのどれいにしてしまって、救いの希望をまったく奪いとってしまうのである。
記事には、こう書いてある。
”私はこれ(=踏絵)をふんだ人の足も随分つらかったと思います。もちろん大部分の人は、それを平気で足にしたにちがいない。しかし、少なくとも信徒である者は、乙の踏絵に足をかけることに、心とともに体の痛さを感じたでしょう。自分がそんな強者ではないゆえに、おのが弱さや拷問への恐怖、家族への配慮そんないろいろな悲しい理由で足をかけたのでしょう。
くろい足指のあとには、人びとのせつない気持がこもっているような気がしました。私は、その時、凹み、すりへったキリストの顔かまた、こういうように言っている気がしました。「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と。
遠藤周作氏は、「小説家」だったら、なにをいってもよいと思っているのだろうか?
かれはまた、”自分は、そんな感じがした”といっているが、感じたことはみな真理だとでも思っているのだろうか?
”沈黙”のなかで、かれは、キリストに同じことを言わせているのだから、ここは、そのくりかえしにすぎない。
いやしくも信仰あるものなら、かれが、「早くふむがいい、それでいいのだ」とキリストのみ顔にいわせるのをきいて、キリストに対する大きな侮辱だとふんがいするだろう。
「私が存在するのは、お前たちの弱さのためにあるのだ」とキリストにいわせたのも、ひじょうに矛盾がある。
キリストがこの点について、すなわち、この根本的な問題について、ひとこともふれなかったとしても、常識にもとづいて考えるなら、こんなことは、とても考えられないことである。
ましてキリストは、これについて、ひじょうにはっきりした容赦のないことばをいっておられる。とすると、なおさら、遠藤周作氏のいっていることは、単に信徒としての立場からだけでなく、人間であるかぎり、いな、小説家としても、みとめることはできない。
なぜなら、非常識に対して、小説家だからという口実はなりたたないからである。
では、これについて、実際キリストが、何をいっておられるかを明記してみよう。つぎに抜粋するところは、マタイによる福音書(第一〇章)に書かれ、二千年ものあいだ忠実な全キリスト者の信仰をささえ、力づけてきたことばである。
もちろん教会のなかにも、福音を、フィクションとか、神話とかいっている人々もいるが、かれらのことは問題にする必要はない。
ところでキリストは、こういっておられる。
「人を警戒せよ、そうしないと、あなたたちは、衆議所にわたされ、あるいは会堂でむち打たれるだろう。また、あなたたちは、私のために総督や王の前にひきだされるだろう。それは、その人たちと異邦人との前で証言するためである。出頭するときには、どういうふうに、なにをいおうかと心配する必要はない。いうべきことは、そのときに教えられるだろう。話すのは、あなたたちではない。あなたたちのうちにある父の霊が話してくださる。兄弟は兄弟を、父は子を死の手にわたし、子は親にさからい、親を死なせるだろう。あなたたらは、私の名のために、すべての人から憎まれる。しかし、終わりまでたえしのぶ人は救われる・・・。弟子は、先生以上のものではない。下男も主人以上のものではない。弟子は、先生のように、下男は主人のようになればじゅうぶんである。人々が家父をベルゼブルといったのなら、その家の者にたいしては、なんというであろうか? かれらをおそれるな」。
ごらんのとおり、キリストの言葉は、ひじょうにはっきりしている。
(続く)
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』
◆2、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)
「弱い人のためにキリストは、この世にきた」
昭和四七年一月二三日のカトリック新聞第六面に、遠藤周作氏の「踏絵」という短かい記事がある。
この記事で、まず目にとびこんでくるのは、「弱い人のためにキリストは、この世にきた」というキャッチフレーズだ。
まったくそのとおりだと私は思う。キリストは、私たち弱い人間のためにこそこられたのである。しかし私は、その記事をよんでいくうちに、あまりのおどろきに目をみはった!
そこでキリストは、弱い人間を強め、その弱さから救いあげるためにこられたのではない。結論からみると、かえって人間をめめしくし、その弱さのどれいにしてしまって、救いの希望をまったく奪いとってしまうのである。
記事には、こう書いてある。
”私はこれ(=踏絵)をふんだ人の足も随分つらかったと思います。もちろん大部分の人は、それを平気で足にしたにちがいない。しかし、少なくとも信徒である者は、乙の踏絵に足をかけることに、心とともに体の痛さを感じたでしょう。自分がそんな強者ではないゆえに、おのが弱さや拷問への恐怖、家族への配慮そんないろいろな悲しい理由で足をかけたのでしょう。
くろい足指のあとには、人びとのせつない気持がこもっているような気がしました。私は、その時、凹み、すりへったキリストの顔かまた、こういうように言っている気がしました。「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と。
遠藤周作氏は、「小説家」だったら、なにをいってもよいと思っているのだろうか?
かれはまた、”自分は、そんな感じがした”といっているが、感じたことはみな真理だとでも思っているのだろうか?
”沈黙”のなかで、かれは、キリストに同じことを言わせているのだから、ここは、そのくりかえしにすぎない。
いやしくも信仰あるものなら、かれが、「早くふむがいい、それでいいのだ」とキリストのみ顔にいわせるのをきいて、キリストに対する大きな侮辱だとふんがいするだろう。
「私が存在するのは、お前たちの弱さのためにあるのだ」とキリストにいわせたのも、ひじょうに矛盾がある。
キリストがこの点について、すなわち、この根本的な問題について、ひとこともふれなかったとしても、常識にもとづいて考えるなら、こんなことは、とても考えられないことである。
ましてキリストは、これについて、ひじょうにはっきりした容赦のないことばをいっておられる。とすると、なおさら、遠藤周作氏のいっていることは、単に信徒としての立場からだけでなく、人間であるかぎり、いな、小説家としても、みとめることはできない。
なぜなら、非常識に対して、小説家だからという口実はなりたたないからである。
では、これについて、実際キリストが、何をいっておられるかを明記してみよう。つぎに抜粋するところは、マタイによる福音書(第一〇章)に書かれ、二千年ものあいだ忠実な全キリスト者の信仰をささえ、力づけてきたことばである。
もちろん教会のなかにも、福音を、フィクションとか、神話とかいっている人々もいるが、かれらのことは問題にする必要はない。
ところでキリストは、こういっておられる。
「人を警戒せよ、そうしないと、あなたたちは、衆議所にわたされ、あるいは会堂でむち打たれるだろう。また、あなたたちは、私のために総督や王の前にひきだされるだろう。それは、その人たちと異邦人との前で証言するためである。出頭するときには、どういうふうに、なにをいおうかと心配する必要はない。いうべきことは、そのときに教えられるだろう。話すのは、あなたたちではない。あなたたちのうちにある父の霊が話してくださる。兄弟は兄弟を、父は子を死の手にわたし、子は親にさからい、親を死なせるだろう。あなたたらは、私の名のために、すべての人から憎まれる。しかし、終わりまでたえしのぶ人は救われる・・・。弟子は、先生以上のものではない。下男も主人以上のものではない。弟子は、先生のように、下男は主人のようになればじゅうぶんである。人々が家父をベルゼブルといったのなら、その家の者にたいしては、なんというであろうか? かれらをおそれるな」。
ごらんのとおり、キリストの言葉は、ひじょうにはっきりしている。
(続く)