『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
13 内陸の王者
6 大帝国の末路
ティムールが急死すると、君主の位をめぐって内乱がおこった。
まもなく、ティムールの第四子シャー・ルフが、これを鎮圧のうえ即位して、その子のウルグ・ペグをサマルカンドの太守とする。シャー・ルフみずからは、南方のヘラートにとどまって、ティムール帝国に君臨することになった。
シャー・ルフは、父のティムールにもまして文化にふかい理解をもっていた。
その三十八年におよぶ治世(一四〇九~四七)に、ヘララートとその北のメルヴとの復興につとめ、立派な宮殿をたて、学芸や美術を保護し、奨励した。
また外交的手腕にたけ、明との国交を回復し、オスマン帝国と親善関係をたもつ。
さらに南インドの一王国にまで使節を派遣して、友好をはかり、通商をさかんにした。
ティルーム帝国の君主の開明的性格は、ウルグ・ペグにおいてきわまった。
父が在位している間はサマルカンドを支配していたが、その宮廷に学者や文人や芸術家をあつめ、市の中央広場にいまなおのこるタルクニヘク学院をはじめ、いくたの建築物をたてた。
また、東北郊の小丘の上に天文台をつくって、みずから天体を観測し、何人かの学者の協力のもとに天文表を編纂(へんさん)した。
これは十七世紀のなかごろヨーロッパへ伝えられ、天文学者たちを、その正確さで驚かせたものであった。
いわゆる開明君主は、学者を保護し学芸を奨励するけれども、ウルグ・ペグのように自身もまた、すぐれた学者だった人物は少ないであろう。
当時の人々が、彼を「玉座にある学者」として、アリストテレスの弟子たるアレクサンダー大王にくらべたといわれるのも、理解できぬことではない。
ウルグ・ペグの天文台は、その死後まったく見すてられ、地中に埋まっていた。
それを二十世紀のはじめ、ロシアの一考古学者が文献から位置を推測して発掘した。
その結果、天体の高度を測定する象限儀が掘り出された。
発掘はそののちもつづけられ、この天文台の全貌が明らかになった。
現在では、そのそばにウルグ・ベクの記念碑と、発掘品などを陳列し、ウルグ・ペグの業績をしめす壁画で飾られた小博物館とが建っている。
ティムールのときに開かれた文芸復興は、シャー・ルフとウルグ・ペグの保護奨励、活動によって、その黄金時代をむかえた。
ここに、西のオスマン帝国の文化とならぶ、東のトルコ・イスラム文化が栄えるに至る。
しかし、このようなイスラム文化の発展につれて、モンゴル的伝統が衰えたことは否定できない。
チンギス汗の法令は、しだいにわすれられ、イスラムの聖法の権威が支配するようになった。
ウルグ・ペグは、君主としては悲劇の人であった。シャー・ルフのあとをつぐと(一四四七)、たちまち内乱がおこる。
そして治世わずか三年たらずで、わが子のアブドル・ラティーフのはなった刺客に殺された(一四四九)。
このアブドル・ラティーフも翌年には暗殺され、その首級は、おのが手にかけたウルグ・ペグの学院にさらされた。
ティムールによって建設された大帝国は、これを期として、音をたてて崩壊してゆく。
いまもサマルカンドにのこっているティムール一族の霊廟は、もともとティムールが、その愛孫ムハンマドの墓所として建てたものであった。
ムハンマドは、オスマン帝国と戦って、スルタン・バヤジット一世を捕え、そのときの戦傷がもとで死んだのである。
のち、ここにはティムールをはじめ、シャー・ルフ、ウルグ・ペグなどの遺骸が収められた。
ティムールの棺は、ウルグ・ペグが祖父にならって東方へ遠征した際(一四二五)、天山山脈の北方、イリ川上流から運びかえったという暗緑色の軟玉でつくられている。
その表面には、ティムールがチンギス汗の一族であることが、アラビア語で刻まれた。
ティムールは、その死後もなお、モンゴル帝国の復興をさけびつづけているともいえようか。
ティムールとウルダ・ペグの遺骸は、一九四一年、棺からとり出されて調査され、翌年もとにもどされたが、棺をひらいてから数日後に、独ソ戦が勃発(ぼっぱつ)した。
土地の老人は、これは墓をあばいたたたりであろとしておそれたという。
この調査の結果、ティムールが、伝えられるとおり実際にびっこで、右足が極端に短かったことが明らかになった。
また、ウルグ・ペグの遺骸は、首と胴とが切りはなされており、これによって、この「玉座にある学者」の悲劇的最期が証明された。
さてアブドル・ラティーフの暗殺によって、シャー・ルフの血統は断絶する。
そののち、ティムール帝国の内部では同族間の争いがつづいただけではない。
各地に土着の勢力が割拠し、トランスオキシアナさえも、一族諸王のあいだに分割されてしまった。
やがて一五〇〇年、キプチャク汗国の血統をひくウズベク族が北方から侵入し、サマルカンドからヘラートを占領するにおよんで、中央アジアにおけるティムール帝国の命脈は絶たれた。
その一族であったバーブルは、やがてアフガニスタンにうつって、インドのムガール帝国の基(もとい)をきづく。
ティムール帝国の滅亡は、中央アジアを四分五裂の状態におとしいれ、かってはなやかに栄えたトルコ・イスラム文化も、これとともに衰えた。
ティムール帝国の文化は、あくまでも君主の嗜好(しこう)にとどまり、民衆のあいだに根をおろさぬあだ花にしかすぎなかったのである。
しだいに衰えていったのも、当然の運命であったといえるであろう。
13 内陸の王者
6 大帝国の末路
ティムールが急死すると、君主の位をめぐって内乱がおこった。
まもなく、ティムールの第四子シャー・ルフが、これを鎮圧のうえ即位して、その子のウルグ・ペグをサマルカンドの太守とする。シャー・ルフみずからは、南方のヘラートにとどまって、ティムール帝国に君臨することになった。
シャー・ルフは、父のティムールにもまして文化にふかい理解をもっていた。
その三十八年におよぶ治世(一四〇九~四七)に、ヘララートとその北のメルヴとの復興につとめ、立派な宮殿をたて、学芸や美術を保護し、奨励した。
また外交的手腕にたけ、明との国交を回復し、オスマン帝国と親善関係をたもつ。
さらに南インドの一王国にまで使節を派遣して、友好をはかり、通商をさかんにした。
ティルーム帝国の君主の開明的性格は、ウルグ・ペグにおいてきわまった。
父が在位している間はサマルカンドを支配していたが、その宮廷に学者や文人や芸術家をあつめ、市の中央広場にいまなおのこるタルクニヘク学院をはじめ、いくたの建築物をたてた。
また、東北郊の小丘の上に天文台をつくって、みずから天体を観測し、何人かの学者の協力のもとに天文表を編纂(へんさん)した。
これは十七世紀のなかごろヨーロッパへ伝えられ、天文学者たちを、その正確さで驚かせたものであった。
いわゆる開明君主は、学者を保護し学芸を奨励するけれども、ウルグ・ペグのように自身もまた、すぐれた学者だった人物は少ないであろう。
当時の人々が、彼を「玉座にある学者」として、アリストテレスの弟子たるアレクサンダー大王にくらべたといわれるのも、理解できぬことではない。
ウルグ・ペグの天文台は、その死後まったく見すてられ、地中に埋まっていた。
それを二十世紀のはじめ、ロシアの一考古学者が文献から位置を推測して発掘した。
その結果、天体の高度を測定する象限儀が掘り出された。
発掘はそののちもつづけられ、この天文台の全貌が明らかになった。
現在では、そのそばにウルグ・ベクの記念碑と、発掘品などを陳列し、ウルグ・ペグの業績をしめす壁画で飾られた小博物館とが建っている。
ティムールのときに開かれた文芸復興は、シャー・ルフとウルグ・ペグの保護奨励、活動によって、その黄金時代をむかえた。
ここに、西のオスマン帝国の文化とならぶ、東のトルコ・イスラム文化が栄えるに至る。
しかし、このようなイスラム文化の発展につれて、モンゴル的伝統が衰えたことは否定できない。
チンギス汗の法令は、しだいにわすれられ、イスラムの聖法の権威が支配するようになった。
ウルグ・ペグは、君主としては悲劇の人であった。シャー・ルフのあとをつぐと(一四四七)、たちまち内乱がおこる。
そして治世わずか三年たらずで、わが子のアブドル・ラティーフのはなった刺客に殺された(一四四九)。
このアブドル・ラティーフも翌年には暗殺され、その首級は、おのが手にかけたウルグ・ペグの学院にさらされた。
ティムールによって建設された大帝国は、これを期として、音をたてて崩壊してゆく。
いまもサマルカンドにのこっているティムール一族の霊廟は、もともとティムールが、その愛孫ムハンマドの墓所として建てたものであった。
ムハンマドは、オスマン帝国と戦って、スルタン・バヤジット一世を捕え、そのときの戦傷がもとで死んだのである。
のち、ここにはティムールをはじめ、シャー・ルフ、ウルグ・ペグなどの遺骸が収められた。
ティムールの棺は、ウルグ・ペグが祖父にならって東方へ遠征した際(一四二五)、天山山脈の北方、イリ川上流から運びかえったという暗緑色の軟玉でつくられている。
その表面には、ティムールがチンギス汗の一族であることが、アラビア語で刻まれた。
ティムールは、その死後もなお、モンゴル帝国の復興をさけびつづけているともいえようか。
ティムールとウルダ・ペグの遺骸は、一九四一年、棺からとり出されて調査され、翌年もとにもどされたが、棺をひらいてから数日後に、独ソ戦が勃発(ぼっぱつ)した。
土地の老人は、これは墓をあばいたたたりであろとしておそれたという。
この調査の結果、ティムールが、伝えられるとおり実際にびっこで、右足が極端に短かったことが明らかになった。
また、ウルグ・ペグの遺骸は、首と胴とが切りはなされており、これによって、この「玉座にある学者」の悲劇的最期が証明された。
さてアブドル・ラティーフの暗殺によって、シャー・ルフの血統は断絶する。
そののち、ティムール帝国の内部では同族間の争いがつづいただけではない。
各地に土着の勢力が割拠し、トランスオキシアナさえも、一族諸王のあいだに分割されてしまった。
やがて一五〇〇年、キプチャク汗国の血統をひくウズベク族が北方から侵入し、サマルカンドからヘラートを占領するにおよんで、中央アジアにおけるティムール帝国の命脈は絶たれた。
その一族であったバーブルは、やがてアフガニスタンにうつって、インドのムガール帝国の基(もとい)をきづく。
ティムール帝国の滅亡は、中央アジアを四分五裂の状態におとしいれ、かってはなやかに栄えたトルコ・イスラム文化も、これとともに衰えた。
ティムール帝国の文化は、あくまでも君主の嗜好(しこう)にとどまり、民衆のあいだに根をおろさぬあだ花にしかすぎなかったのである。
しだいに衰えていったのも、当然の運命であったといえるであろう。