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ヴァロアの聖フェリクス証聖者 St. Felix de Valois

2024-11-20 00:00:07 | 聖人伝
ヴァロアの聖フェリクス証聖者 St. Felix de Valois    記念日 11月 20日


 教会のすすめる肉身上慈善事業の7つある中に、捕虜囚人を救い助ける事が数えられているが、これは罪なくして捕らわれの身となっている人を救うは勿論、罪を犯した罰としてその不自由を忍んでいる者を慰める事も及ぶ限りするがよいというのである。その意を体し中世紀に、罪なき身を哀れ回教徒の海賊に拉致され、アフリカへ奴隷に売り飛ばされたキリスト教徒を救い出す修道会が設けられた。この会は賠償金を集めそれにより贖うか、或いは会員自ら身代わりとなるかして奴隷達を自由の身とする事を目的とし、聖ヨハネ・デ・マタ、並びに本日記念される聖フェリクスの協力創立にかかり、「三位一体会」と称するものである。
 右のフェリクスが何故ヴァロアの聖者と呼ばれるかは明らかでない。ある人々はその理由を彼の生まれ故郷がフランスのヴァロア州であった為であるとしている。然し多くはそれを彼がヴァロア王家の近親であったからであると証明する。
 彼をみごもったその母が、いよいよ産期も近づき安産を祈っていた時の事である。彼女は一の幻を見た。それは幼きイエズスを抱き給う聖母の傍へ、一人の愛らしい男児が現れて、イエズスに美しい花輪を献げたと思うと、その御手から引き換えに十字架を賜ったというのである。彼女はその折りこそやがて自分の産み落とすべき子供の運命の暗示に相違ないと感じた。
 かくてフェリクスが産声を挙げたのは、1127年の事であった。彼は幼い時から殊に憐れみの情け深く、門口に乞食でも来た場合、母親が彼の手から施しさせるのを、この上ない喜びとしていたが、その慈悲心は長ずるに及んで益々加わり、自分の食を節して貧しい人々に恵むのを毎日の習慣とした位であった。その後神学を修め司祭になったが、間もなく隠遁生活を望んで静かな山中に退いた。それには常日頃母から聞いていたあの幻の話があずかって力あり、主から十字架を戴いた象徴をそのままに、世を離れ、天主の事のみを考えて、祈祷と苦行の修道に専念しようと決心したのである。
 かくて彼は全く世を忘れ、世に忘れられたと信じていた所、はからずも隠遁して20年目に、パリ大学教授ヨハネ・デ・マタ博士が来って彼の指導を請うた。これこそ実に両聖人の尊い共同生活の始まりであったのである。
 ある時彼等が林間の泉のほとりに座って、心霊上の問題や、回教徒の奴隷とされた同信の兄弟姉妹の身の上に就き語り合っていると、がさがさと音がするので、振り向いて見たところ、木の繁みから現れたのは一頭の白い大鹿で、不思議にもその角の間には赤青の十字架が燦然と輝いていた。彼等がいよいよ奴隷解放の修道会を建てるに当たり、その会服として白地に赤青の十字架の紋章をつけたものを用いたのは、この示現に基づいたに他ならない。
 その前に彼等は先ずローマに旅して、時の教皇インノセンシオ3世に拝謁し、会創立の趣旨を説明してその教示の掩祝とを請うた。すると教皇も大いに喜ばれ、適当な会則を定め、同会を聖三位に献げて「三位一体会」と名付けよと仰せられた。
 フェリクスは当時既に71歳の高齢であったが、ヨハネと共にフランスに戻り、あの鹿の現れた所に修道院を設けて之をセルフロア修道院と称した。その後ヨハネはアフリカに渡って捕虜の解放に努力し、フェリクスはセルフロアに在って同志を募り、之が修練に当たった。かようにして会の目的貫徹を計る事14年、フェリクスの上にはようよう帰天の日が訪れて来た。
 その臨終に彼が後に遺して行く教え子修士達の事を心配していると、聖母マリアが現れ給い「私が母となって彼等の指導を引き受けましょう」と仰せられたので彼も己が使命の成就を喜びつつ安んじて瞑目したという話がある。享年時に85歳。

教訓

 人の臨終における悩みの1つは、わが亡き後、わが子の行く末、わが事業の成り行き如何との心配ではなかろうか。しかしそれに対しては聖フェリクスに仰せられた聖母のこの上ない慰めとなろう。実際我等が存命中わが子の教育に、わが事業の発展に最善の努力を尽くしておけば、あとは慈母たる聖マリアが引き継いで、十分な効果を挙げさせて下さるに相違ないのである。






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