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3-11-8 高祖と韓信

2018-10-04 19:34:30 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

11 項羽と劉邦

8 高祖と韓信

 さて高祖は皇帝となるや、一族や功臣たちを王侯に封じた。
 王となれば、その領地は数郡、数十県にわたり、その土地と人民とを支配して、絶大な勢力をにぎった。
 劉氏(皇帝の一族)にあらずして、王たる者は、楚王韓信をはじめ、七人であった。
 王のほかに、列侯があった。
 その領地は一県以下、戸数は大なるものも万戸にすぎず、小なるものは数百戸であった。
 高祖一代の間、功臣として列侯となった者は、百余人をかぞえた。
 王侯に封ぜられた者の大半は、乱世に活躍した武将たちである。
 天下が定まったとはいえ、殺伐(さつばつ)の気風は、なおみなぎっていた。
 即位の年(前二〇二)の七月、はやくも燕王(蔵荼=ぞうと)が反乱をおこした。
 これは、ただちに平定したが、十二月には、楚王の韓信が謀叛をくわだてている、という上書があった。
 漢の暦では(十月が年始であるから)すでに六年(前二〇一)である。高祖は、陳平のはかりごとによって、南方に巡幸し、諸侯を召した。韓信もやってきた。
 即座に、これを捕えた。
 身におぼえのないこととて、韓信はさけんだ。

 「まさしく、ことわざの通りであった。

 狡兎死して良狗 煮られ、高鳥つきて良弓 蔵され、敵国やぶれて謀臣ほろぶ、とか。すでに天下は平定した。わしが煮られるのも、もとより当然だろう」。(狡兎=すばしこいウサギ、良狗=よいイヌ)

 高祖は、ひややかにいった、「ある者が、公の謀叛(むほん)を密告したからだよ」。
 しかし高祖は、まもなく韓信をゆるし、位を下げて淮陰(わいいん)候とした。
 韓信は、じぶんの才能を高祖がおそれ、にくんでいることを知った。
 こののちは、つねに病気を口実にして、朝廷にも出仕せず、行幸にもしたがわなかった。
 あるとき高祖は、くつろいで韓信と語り、諸侯の品定めをしたことがある。高祖が問うた。
 「わしのごときは、いくばくの兵に将たることができようか」。
 韓信は答えた。「陛下は、せいぜい十万に将たる程度でございましょう」。
 「君においては、いかほど」。
 「臣は、多多(たた)ますます益(よ)し」(多ければ多いほど、よろしい)。
 高祖はわらっていった、「多多ますます益(よ)ければ、何ゆえに我が禽(とりこ=家来)となれるや」。
 「陛下は兵に将たる能(あた)わざるも、よく将に将たり。これ、すなわち信の陛下に禽とせられしゆえんなり。
 かつ陛下(の才能)は、いわゆる天授にして、人力(の及ぶところ)にあらざるなり」。
 この後、高祖はことごとに異姓の王侯をのぞき、そのあとに同姓(劉氏)の者を配置していった。
 韓信も、いったんはゆるされたものの、趙に反乱がおこって高祖が親征すると、そのすきをねらって兵をあげようとした。
 しかし呂后に探知され、宮中におびきよせられて殺された。


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