『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
11 項羽と劉邦
8 高祖と韓信
さて高祖は皇帝となるや、一族や功臣たちを王侯に封じた。
王となれば、その領地は数郡、数十県にわたり、その土地と人民とを支配して、絶大な勢力をにぎった。
劉氏(皇帝の一族)にあらずして、王たる者は、楚王韓信をはじめ、七人であった。
王のほかに、列侯があった。
その領地は一県以下、戸数は大なるものも万戸にすぎず、小なるものは数百戸であった。
高祖一代の間、功臣として列侯となった者は、百余人をかぞえた。
王侯に封ぜられた者の大半は、乱世に活躍した武将たちである。
天下が定まったとはいえ、殺伐(さつばつ)の気風は、なおみなぎっていた。
即位の年(前二〇二)の七月、はやくも燕王(蔵荼=ぞうと)が反乱をおこした。
これは、ただちに平定したが、十二月には、楚王の韓信が謀叛をくわだてている、という上書があった。
漢の暦では(十月が年始であるから)すでに六年(前二〇一)である。高祖は、陳平のはかりごとによって、南方に巡幸し、諸侯を召した。韓信もやってきた。
即座に、これを捕えた。
身におぼえのないこととて、韓信はさけんだ。
「まさしく、ことわざの通りであった。
狡兎死して良狗 煮られ、高鳥つきて良弓 蔵され、敵国やぶれて謀臣ほろぶ、とか。すでに天下は平定した。わしが煮られるのも、もとより当然だろう」。(狡兎=すばしこいウサギ、良狗=よいイヌ)
高祖は、ひややかにいった、「ある者が、公の謀叛(むほん)を密告したからだよ」。
しかし高祖は、まもなく韓信をゆるし、位を下げて淮陰(わいいん)候とした。
韓信は、じぶんの才能を高祖がおそれ、にくんでいることを知った。
こののちは、つねに病気を口実にして、朝廷にも出仕せず、行幸にもしたがわなかった。
あるとき高祖は、くつろいで韓信と語り、諸侯の品定めをしたことがある。高祖が問うた。
「わしのごときは、いくばくの兵に将たることができようか」。
韓信は答えた。「陛下は、せいぜい十万に将たる程度でございましょう」。
「君においては、いかほど」。
「臣は、多多(たた)ますます益(よ)し」(多ければ多いほど、よろしい)。
高祖はわらっていった、「多多ますます益(よ)ければ、何ゆえに我が禽(とりこ=家来)となれるや」。
「陛下は兵に将たる能(あた)わざるも、よく将に将たり。これ、すなわち信の陛下に禽とせられしゆえんなり。
かつ陛下(の才能)は、いわゆる天授にして、人力(の及ぶところ)にあらざるなり」。
この後、高祖はことごとに異姓の王侯をのぞき、そのあとに同姓(劉氏)の者を配置していった。
韓信も、いったんはゆるされたものの、趙に反乱がおこって高祖が親征すると、そのすきをねらって兵をあげようとした。
しかし呂后に探知され、宮中におびきよせられて殺された。
11 項羽と劉邦
8 高祖と韓信
さて高祖は皇帝となるや、一族や功臣たちを王侯に封じた。
王となれば、その領地は数郡、数十県にわたり、その土地と人民とを支配して、絶大な勢力をにぎった。
劉氏(皇帝の一族)にあらずして、王たる者は、楚王韓信をはじめ、七人であった。
王のほかに、列侯があった。
その領地は一県以下、戸数は大なるものも万戸にすぎず、小なるものは数百戸であった。
高祖一代の間、功臣として列侯となった者は、百余人をかぞえた。
王侯に封ぜられた者の大半は、乱世に活躍した武将たちである。
天下が定まったとはいえ、殺伐(さつばつ)の気風は、なおみなぎっていた。
即位の年(前二〇二)の七月、はやくも燕王(蔵荼=ぞうと)が反乱をおこした。
これは、ただちに平定したが、十二月には、楚王の韓信が謀叛をくわだてている、という上書があった。
漢の暦では(十月が年始であるから)すでに六年(前二〇一)である。高祖は、陳平のはかりごとによって、南方に巡幸し、諸侯を召した。韓信もやってきた。
即座に、これを捕えた。
身におぼえのないこととて、韓信はさけんだ。
「まさしく、ことわざの通りであった。
狡兎死して良狗 煮られ、高鳥つきて良弓 蔵され、敵国やぶれて謀臣ほろぶ、とか。すでに天下は平定した。わしが煮られるのも、もとより当然だろう」。(狡兎=すばしこいウサギ、良狗=よいイヌ)
高祖は、ひややかにいった、「ある者が、公の謀叛(むほん)を密告したからだよ」。
しかし高祖は、まもなく韓信をゆるし、位を下げて淮陰(わいいん)候とした。
韓信は、じぶんの才能を高祖がおそれ、にくんでいることを知った。
こののちは、つねに病気を口実にして、朝廷にも出仕せず、行幸にもしたがわなかった。
あるとき高祖は、くつろいで韓信と語り、諸侯の品定めをしたことがある。高祖が問うた。
「わしのごときは、いくばくの兵に将たることができようか」。
韓信は答えた。「陛下は、せいぜい十万に将たる程度でございましょう」。
「君においては、いかほど」。
「臣は、多多(たた)ますます益(よ)し」(多ければ多いほど、よろしい)。
高祖はわらっていった、「多多ますます益(よ)ければ、何ゆえに我が禽(とりこ=家来)となれるや」。
「陛下は兵に将たる能(あた)わざるも、よく将に将たり。これ、すなわち信の陛下に禽とせられしゆえんなり。
かつ陛下(の才能)は、いわゆる天授にして、人力(の及ぶところ)にあらざるなり」。
この後、高祖はことごとに異姓の王侯をのぞき、そのあとに同姓(劉氏)の者を配置していった。
韓信も、いったんはゆるされたものの、趙に反乱がおこって高祖が親征すると、そのすきをねらって兵をあげようとした。
しかし呂后に探知され、宮中におびきよせられて殺された。