カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

5-11-4 低迷のフランス王国

2023-05-23 01:52:50 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
11 狂王シャルル六世治下のフランス
――英仏百年戦争――
4 低迷のフランス王国

 一四一九年九月十日、ジャン無怖侯は、五百の騎士、二百の弓兵をひきいて、モントローにおもむいた。
 モントローは、ムランの南、セーヌ川の支流ヨンヌ川が本流に流れこむ地点からすこし上流の町である。
 一四一五年にイギリス軍が侵略を再開して以来、ブルゴーニュ侯と王太子シャルルとのあいたに協調をはかる交渉がつづけられていたが、その一環として、この月モントローのヨンヌ川にかかる橋上で、両者の会見が行なわれることになったのである。
 ブルゴーニュ侯は、一旦、橋をへだてて町の対岸にある城に入ったのち、夕方の五時頃、王太子の指定したとおり一〇名の供廻りを連れて橋を渡り、橋の中央に設けられた柵状の囲いのなかに入った。
 おそらく、その直後、事件がおきた。
 王太子の手勢が一行を襲い、ジャン無怖侯は、手斧の一撃で頭蓋骨を打ちわられ、拳を切断された。
 ただひとりを除いて、一行全員が捕虜にされた。
 ブルゴーニュ侯を殺害したのは、アルマニャック派のリーダーのひとり、前バリ代官タヌギイ・デュ・シャテルであった。
 従来、この事件は偶発的におこったことと説明されてきた。
 もちろん、王太子自身、事件の直後、その趣旨の声明を発している。
 だが、これが周到にねられた謀殺であったことは、いまやほとんど疑いをいれないのである。
 王太子は、というよりもそのとりまきのアルマニャック派貴族は、一三年前のオルレアン侯暗殺の復讐を果したのであった。

 ビエイユ・デュ・タンプル街の暗殺からモントローの殺害までの十余年間、フランス王国は低迷のうちにあった。
 ジャン無怖侯は王妃イザボーと結んで、王政を掌握した。 ルイ・ドルレアンを継いだオルレアン侯シャルルは、当時まだ十代後半の若者であったが、ブルボン侯、アルマニャック伯、クレルモン伯、アランソン伯等、ブルゴーニュ侯の専横を喜ばぬ諸侯に支持され、一四一〇年四月、彼らと協定をむすび、オルレアン党派を結成し、ブルターニュ侯等の支援もうけて、父侯の殺害者への報復を誓った。
 同年夏、シャルルは、前年に死別したイザベル・ド・フランスにかわる妻として、アルマニャック候の娘ボンヌをめとり、南フランスに強大な勢力を張るアルマニャック候家との連繋を強めた。
 オルレアン侯の党派をアルマニャック派と呼ぶ慣用は、ここから出たのである。
 年代記家ビエール・ド・フェナンは伝えている。

 シャルトルの周辺からパリの城壁近くにまで、オルレアン侯にくみする軍勢が布陣し、とくにアルマニャック伯の軍勢の軍衣の飾り、白地の飾り幕が人目をひき、「これよりのち、ブルゴーニュ侯ジャンに敵対して徒党を組むものたちは、すべてアルマニャック派と呼ばれた」と。
 実際、この年、一四一〇年の夏に、パリをはさんで南北に対峙した両派の軍勢は、オルレアン侯派が二万、ブルゴーニュ侯派が二万五千をかぞえたという。
 まさしく一触即発の内戦の危機は、ベリー侯を先頭とする和戦派の動きがあって、翌年まで避けられた。
 だがそれは問題の回避にすぎなかった。翌年夏以降、フランスの国土は内乱の季節をむかえた。
 はじめは、ブルゴーニュ侯がパリと国王をおさえ、敗勢のオルレアン侯方の諸侯は、ロワール川中流のブールジュに拠るという態勢がつづいた。
 だが、ジャン無怖侯の首都での地位は、それほど安定したものではなかった。
 パリは、大学、上層市民、職人層、全市民あげてジャン候を支持し、侯が王政の実権をにぎることを期待したのだが、シャルル六世の長子、王太子ルイとその取りまきが、ジャン侯の専横をおさえようと策動していたのである。
 一四一三年初頭に開かれた北フランス三部会につづく春から夏にかけて、三部会にみなぎった国政改革の志向に刺激されたパリの民衆は、ジャン侯を立てて不穏な動きを示した。
 それが、ブルゴーニュ侯自身の意向を越えて、いわば超ブルゴーニュ派的な民衆暴動へと高まったとき、王太子のとりまき連中は、ジャン無怖侯の権力をそぐのに、この機会を利用した。
 この民衆暴動は、その首謀者のひとり、皮剥(かわはぎ)職人シモン・カボシュの名にちなんで、「カボシュ党の暴動」と呼ばれる。
 ジャン無怖候は、いわば自派内に起こったこの過激な動きを統制することに失敗し、八月二十三日、パリを離れ、北に向かった。
 数日おいて、オルレアン侯派の諸侯がバリに入った。
 その後、翌一四年いっぱいから一五年の初頭にかけて、ブルゴーニュ派はアラスに拠点をおき、パリはアルマニャック派の制圧下におかれた。
 ジャン無怖侯はこの期間、守勢に立った。北フランスにはアルマニャック派の軍勢が跳梁(ちょうりょう)し、アラスも一時は攻囲された。
 一四年から一五年にかけて両派のあいだに休戦交渉が行なわれ、一時、戦乱の中止を告げる喜ばしい鐘の音が、パリや、その他の町々に鳴りひびいた。
 しかしそれも束の間のことで、内乱のフランスは、ふたたび外敵の侵入を迎えたのである。
 イギリスでは一三九九年に王朝が交替し、ランカスター朝のヘンリー四世の代をへて、一四一三年、ヘンリー五世が登位していた。
 ヘンリー五世は、父王ヘンリー四世とは異なり、対仏戦争に積極的に対処する政策をとった。
 またブルゴーニュ侯と提携する方針をかため、即位当初から、ジャン無怖候としばしば使節をとりかわしていた。
 ヘンリーのみるところでは、ジャン無怖候は、フランス王位をねらうものではなく、自領の保全と王国の政治に対する第一席の発言権とを要求する存在であった。
 「無怖侯の希求と、イギリス側の要求とは、たがいに排除しあうものではない。
 イギリスは、フランス王位継承問題に関する発言権と、さきにブレチューの和解で確認された領土の割譲を要求する。
 さしあたり、たがいに同盟を組み、シャルル六世および王太子ルイの権利を否認して、共通の政策を追求しようではないか」。

 このヘンリーの提言はブルゴーニュ侯のうけいれるところではなかった。
 この提案は、ジャンがアルマニャック勢に対して、守勢に立っていた時期になされた。
 だから、いわば弱身につけこんでの提言というかんじが強かったのだが、ジャン無怖候は、これを拒否したのである。
 けっきょくは、ブルゴーニュ侯家もまたバロワ王家の一員であるという大前提から、ジャン無怖俣も自由ではなかったのである。

 ジャン無怖候との交渉をあきらめたヘンリー五世は、一四一五年二月パリに使者をおくり、最後通牒をつきつけた。
 要求事項は、とうていフランス王のうけ入れがたいものであった。
 ジャン二世の身代分未払い分百六十万フランの支払い、ヘンリー五世とフランス王女カトリーヌとの結婚、カトリーヌの婚資として金二百万フランの支払い、ブレチューの和解で割譲された領土に加えて、プロビンス伯領の半分、その他の領土の割譲等々であった。
 フランス王の名代ベリー候は、イギリス王の使者を冷たく遇した。
 ブルゴーニュ侯は、アルマニャック派との和平の調印をいそいだ。
 二十三日に、調印はなった。対立していた両派は、外敵イギリスに対し、たがいに身内であることをともかくも確認しあったのである。
 八月のなかばに、三万の軍勢をひきいてノルマンディーに上陸したヘンリー五世は、セーヌ河口に近いアルフルールの町を攻囲し、九月の末にようやくこれを占領した。
 この攻略に手間どって、季節はすでに冬に向かいかけていた。
 おりしも流行した赤痢のため、五千の死者と五千の病人をだすという思わぬ事故も発生した。
 そこで、パリには向かわず、カレーに向けて北上を開始した。
 なんのことはない、エドワード三世の故事にならったようなものであった。
 この動きに対処したフランス側の行動もまた、半世紀前とくらべて、ほとんど変わっていなかった。
 フランス軍は、数においてこそじつに六万と、イギリス軍を圧倒していたものの、シャルル賢王の教訓はまもられず、アルマニャック派諸侯が供出した軍勢の連合体にほかならなかった。
 ジャン無怖候の申し出た協力は拒否され、ブルゴーニュ派の貴族は、自由意志によって参加したのである。
 ジャン無怖侯は、暗澹(あんたん)たる想いを抱いて、ディジョンにいた。
 雨の多い季節であった。十月二十五日、カレーの南東五十キロの地点、アザンクールで、両軍は対峙した。
 戦闘の経過は、いまさらここに述べるまでもない。
 全体の構図は、ポワチエの戦いと同じであった。
 夕闇のせまった戦場には、一万のフランス兵の死体が泥土にまみれてころがっていた。
 うち、七千は騎士であったという。これに対し、イギリス側の死者は千五百ほどであったという。
 時おり、想い出したように沛然(はいぜん)たる雨が降った。フランスの悲劇を弔うかのように。
 アザンクールの敗戦はアルマニャック派にとって手痛い打撃となり、その後の情勢はブルゴーニュ侯に有利に展開した。
 オルレアン侯シャルルは捕虜としてイギリスに抑留され、アルマニャック派は、北フランスにおいて守勢にまわった。
 そのうえ、イギリス勢がノルマンディーにいくつかの拠点を設けて、東をうかがっていた。
 王太子ルイは、この年の末に没し、次子のジャンもまた、一四一七年四月に没して、王太子の称号は末子シャルルにあたえられた。
 一四一七年から翌一八年にかけて、ジャン無怖侯は、アルトワ、ピカルデー、ノルマンディー方向でイギリス勢と抗争しながら、パリを追われた王妃イザボーと同盟をむすび、トロワに拠って、狂気の王と王太子シャルルをいただくパリのオルレアン派と対決する体制をととのえた。
 ブルゴーニュ侯のパリ奪回の機会が、間近にせまっていた。一四一八年五月二十九日の真夜中、六、七百騎のブルゴーニュ勢が、サン・ジェルマン門を破って、パリに攻めこんだ。不意をつかれたアルマニャック勢は、ほとんど抵抗らしい抵抗をみせなかった。
 『パリ一市民の日記』の筆者にいわせれば「パリの町をおおいに困らせていた」パリ代官タヌギー・デュ・シャテルは、王太子とともにムランに逃げ、「この世でもっとも悪質のキリスト教徒」クレルモンの司教ら、アルマニャック派の要人は、サン・タントワーヌ門の塔内に逃げこんだ。
 ジャン無怖侯はパリと国王とを奪回したのである。

 民衆はブルゴーニュ侯に協力した。年代記家ジュベナル・デ・ジュルサンの報告によれば、「プチ・ポンに居住せる裕福なる鉄商人ピエール・ル・クレルク兄の息子、ペリネ・ル・クレルクなるもの」の手引きがあったという。
 パリの上層市民は、都市支配者として、アルマニャック派諸侯よりも、ブルゴーニュ侯を好んだのである。
 下層民衆の支持もまたジャン無怖侯にあった。
 ジャン無怖侯とは、『ニコラス・ド・ペイの日記』の表現を借りれば、「王国とその人民の共通の利益の擁護者」であったフィリップ豪勇侯の後継者として、うちつづく戦乱の苦しみから民衆を救ってくれるはずの存在だったのである。
 生身のジャン無怖侯がどんな人物であったか、プルゴーニュ候権という権力の実体がどんなものであったか、そんなことはどうでもよいことなのだ。
 実際、この時期にパリに住んでいた一市民の書き残した日記、いわゆる『パリ一市民の日記』の筆者は、ブルゴーニュ侯もまた、ぎりぎりのところでは、民衆に支配者としてのぞむ貴族権力の一変種であり、オルレアン侯と同列に立つ存在だ、という認識をしっかりともっている。
 だが、ひとつの希求として、民衆をこの「苦悩の舞踏」から救いだしてくれる存在として、いわばブルゴーニュ的なるものが、フィリップ豪勇候やジャン無怖侯に仮託されていたのだということはあくまでもいえるのである。
 この「苦悩の舞踏」という表現がなにを意味しているか、それを一市民の日記に聞いてみよう。
 時はすこし下って、一四二一年の記述である。
 「このころ、イギリス王はモーの前にあって降誕祭を祝せり。
 彼らイギリス勢のため、また前述の輩どものため、土を耕し、種を蒔くこと能(あた)わざりき。
 しばしば、ひと、前述の領主らに請願いたせしが、彼ら、ただ嘲(あざけ)り笑い、その配下の者らをして、以前にもまして悪事をなさしめたり。
 その故に、多くの農夫たち、耕作をやめ、絶望にうちひしがれて、妻子を捨て、口々にいいあえり。
 どうしたらいいのか? 悪魔にまかしちまえ!
 どうなったって知ったこっちゃない。なにしたって同じことさ。
 キリスト教徒より、サラセン教徒に仕えるほうがまだましだ。だから、うんと悪いことをしてやろうじゃないか。
 どうせおれたちは殺されちまうか、もってるものをとられちまうかなんだから。
 裏切りものの役人たちのまちがった政治のせいで女房や子供を捨てなくちゃならん始末だ。
 迷ったけだもののように森に逃げこまなくちゃならなくなった、うんぬんと。
 一年や二年のことにはあらず、この苦悩の舞踏はじまりしよりすでに十四、五年の年月をへたり。
 領主らのおおかたは、剣により、毒により、裏切りにより、あるいはざんげもせぬまま、あるいは自然にそむける悪しき死を死せり」。

 これまでたどってきた、ブルゴーニュ派対アルマニャック派の、一見はなやかな抗争の背景には、民衆の「苦悩の舞踏」が、領主たちの「悪しき死」が暗い影をおとしていたというのである。
 オルレアン侯ルイ、ブルゴーニュ侯ジャンの死は、それぞれ、いわば「領主たちの悪しき死」の総まとめであった。
 だが、たとえ実情はそうであり、そのことを民衆は知っていたとしても、それでもなお、「苦悩の舞踏」を踊る民衆は、ブルゴーニュ侯のうちに救済者のイメージを追い求めていたのである。
 バリを奪回したブルゴーニュ侯は、こんどは、さきのカボシュ党の暴動のときのような失敗はやらなかった。
 ふたたび侯をパリの主人に迎えた民衆は、アルマニャック派の軍政に対する恨みをはらそうとはねかえりをみせたが、ジャン無怖候は、上層市民の了解のもとに、彼ら下層民衆の暴発的な動きを鎮圧することに成功した。
 ジュベナル・デ・ジュルサンはつぎのように報告している。
 暴徒たちは、パリの市門にアルマニャック勢がおしよせたとのデマに踊らされて、関心を外に向けた。
 その間に、暴徒の首謀者の首切り役人カプルシュは、捕えられて処刑された。
 そのとき、パリの「市民たち」は、警備のため、町の辻々に立った、と。
 この「市民たち」が上層市民たちであったことは明らかである。
 ジャン無怖候は、ここに首都パリと国王および王妃をおさえ、王政を手中にした。
 王太子シャルルは南のブールジュに居をかまえ、アルマニャック派の勢力は南フランスに退いた。
 この年の末、ジャンは摂政に就任した。
 だが彼は、王太子と、その取り巻きのアルマニャック派との協調の必要を忘れたわけではなかった。
 むしろ、そのことを積極的におし進めようとしたのは、ジャン無怖侯のほうなのであった。
 ところが、翌一四一九年の九月、モントローの事件が、この協調への動きを停止させたのであった。

 党派の争いは、ここに「大いなる禍(わざわい)」を生んだ。
 ジャン侯を継いだフィリップ善良候は、王太子派との交渉を絶ち、イギリス王と同盟をむすんだ。
 一四二〇年五月に締結されたトロワの和約は、王太子シャルルのフランス王位継承権を否認し、フランス王女カトリーヌと結婚したヘンリー五世を王位継承者に指名したのである。
 この年の十二月、シャルル六世、ヘンリー五世、フィリップ善良侯は、つれだってパリに入城した。
 一年おいて一四二二年、ヘンリー五世、シャルル六世があいついで没し、ヘンリーの遺児が 「イングランドおよびフランスの王」として戴冠した。
 王太子シャルルは、ブールジュにあって痴(し)れ者とうわさされていた。
 王国のいたるところに、野盗の群れと化した傭兵たちが横行し、町も村も荒れはてた。
 「苦悩の舞踏」が民衆をかりたてていた。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。