聖ウルスラおとめ等殉教者 St. Ursula et Soc. Vv. 記念日 10月21日
聖ウルスラ童貞を始め、彼女と最後を共にしたこれらの聖女たちについては、いつ誰がどこで生まれたか。どういう生涯を送ったか、また総てで何人であったか、一向に知られていないが、ただその致命の原因が自己の貞操を護る為であったことだけは、歴史に明らかに伝えられている。されば聖会が彼等を聖女の群れに加えたのは、その生涯を聖と認めた為ではなく、その貞操への壮烈な殉死をよみした結果に他ならない。聖会の純潔を尊重することが如何に深いかは、以て察すべきである。
聖ウルスラ等が生命を献げたのは、5世紀にかのフン族が欧州に来寇して、都市村落の家々を焼き、人々を殺し、掠奪をほしいままにし、あらん限りの残虐を働きつつライン河に沿うてケルン市に侵入したことであった。そこでウルスラ等を発見した蛮族は、邪欲にかられて許すべからざる要求をしたから、童貞たちは生命の危険も恐れず断固としてこれを退け、ついに憤怒の毒手を身に受けて、潔く貞徳の花と散ったのであった。
その総数についてある伝説は、ケルン市の町はずれなる女子修道院の童貞11名となし、その各々の姓名を記した聖人伝もあるが、ローマ殉教録にはケルン市の殉教者として聖ウルスラの外に、10月20日には聖マルタ及び聖サウラ両童貞、同じく22日には聖コルヅラ童貞が殺されたとし、合わせて4人の名前しか記されていない。そうかと思うとクレマチオという人が彼等の墓の上に聖堂を建て壁に碑文を刻んだが、後世の人がその下を改めた所意外に多くの骨が発見された為か、ウルスラ等の同志数千人と考え、ついには一万一千人であったなどど明言する者も出るに至った。
これらの童貞たちの生国についても伝説があり、それによれば彼等はイングランドに生まれ、北フランスのブルターニュ州に駐屯していた兵隊達の許嫁で、夫の許に行こうと故郷を船出した所、時化に逢ってバタヴィアの海岸に漂着し、そこからライン河を遡ってケルン市まで来た時、前に記した如き不慮の災厄に逢ったものであるという。ローマ聖務日祷書に記してあるのもこの説によったものであるが、また彼等はキリスト教の軍隊として有名なテバイス軍の兵卒の許嫁で東国の生まれという異説もある。
それは兎に角徳に殉じたこれら処女たちは、中世期に世の大いなる尊敬と讃美との的となり、ケルン市長はこれを保護の聖女と頼み、数多の巡礼者等は彼等の墓に詣でて身の純潔の護られんことを祈り、17世紀の聖女アンジェラの如きも、その教職修女会を創立するに当たり聖ウルスラ童貞を保護者と仰ぎ、ウルスラ会と命名したほどであった。
なおウルスラの聖画には、彼女が矢を手にしている様、舟に乗っている様、多くの少女等をわがマントの下に庇護している様などを描くのが、画家の常套手段となっている。
教訓
ウルスラ等聖なる童貞達は我等にとって貴重な貞潔な模範である。彼等は身の純潔を失わぬ為に甘んじて死を選んだ。主のたまわく「幸いなるかな、心の清き人、彼等は天主を見奉るべければなり」と。されば我等ももし天国に於いて天父の御顔を仰がんと望むならば、細心の注意と熱烈な祈祷とを以て貞操を守らねばならぬ。
聖ウルスラ童貞を始め、彼女と最後を共にしたこれらの聖女たちについては、いつ誰がどこで生まれたか。どういう生涯を送ったか、また総てで何人であったか、一向に知られていないが、ただその致命の原因が自己の貞操を護る為であったことだけは、歴史に明らかに伝えられている。されば聖会が彼等を聖女の群れに加えたのは、その生涯を聖と認めた為ではなく、その貞操への壮烈な殉死をよみした結果に他ならない。聖会の純潔を尊重することが如何に深いかは、以て察すべきである。
聖ウルスラ等が生命を献げたのは、5世紀にかのフン族が欧州に来寇して、都市村落の家々を焼き、人々を殺し、掠奪をほしいままにし、あらん限りの残虐を働きつつライン河に沿うてケルン市に侵入したことであった。そこでウルスラ等を発見した蛮族は、邪欲にかられて許すべからざる要求をしたから、童貞たちは生命の危険も恐れず断固としてこれを退け、ついに憤怒の毒手を身に受けて、潔く貞徳の花と散ったのであった。
その総数についてある伝説は、ケルン市の町はずれなる女子修道院の童貞11名となし、その各々の姓名を記した聖人伝もあるが、ローマ殉教録にはケルン市の殉教者として聖ウルスラの外に、10月20日には聖マルタ及び聖サウラ両童貞、同じく22日には聖コルヅラ童貞が殺されたとし、合わせて4人の名前しか記されていない。そうかと思うとクレマチオという人が彼等の墓の上に聖堂を建て壁に碑文を刻んだが、後世の人がその下を改めた所意外に多くの骨が発見された為か、ウルスラ等の同志数千人と考え、ついには一万一千人であったなどど明言する者も出るに至った。
これらの童貞たちの生国についても伝説があり、それによれば彼等はイングランドに生まれ、北フランスのブルターニュ州に駐屯していた兵隊達の許嫁で、夫の許に行こうと故郷を船出した所、時化に逢ってバタヴィアの海岸に漂着し、そこからライン河を遡ってケルン市まで来た時、前に記した如き不慮の災厄に逢ったものであるという。ローマ聖務日祷書に記してあるのもこの説によったものであるが、また彼等はキリスト教の軍隊として有名なテバイス軍の兵卒の許嫁で東国の生まれという異説もある。
それは兎に角徳に殉じたこれら処女たちは、中世期に世の大いなる尊敬と讃美との的となり、ケルン市長はこれを保護の聖女と頼み、数多の巡礼者等は彼等の墓に詣でて身の純潔の護られんことを祈り、17世紀の聖女アンジェラの如きも、その教職修女会を創立するに当たり聖ウルスラ童貞を保護者と仰ぎ、ウルスラ会と命名したほどであった。
なおウルスラの聖画には、彼女が矢を手にしている様、舟に乗っている様、多くの少女等をわがマントの下に庇護している様などを描くのが、画家の常套手段となっている。
教訓
ウルスラ等聖なる童貞達は我等にとって貴重な貞潔な模範である。彼等は身の純潔を失わぬ為に甘んじて死を選んだ。主のたまわく「幸いなるかな、心の清き人、彼等は天主を見奉るべければなり」と。されば我等ももし天国に於いて天父の御顔を仰がんと望むならば、細心の注意と熱烈な祈祷とを以て貞操を守らねばならぬ。