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5-9-5 地中海帝国の夢

2023-05-14 04:33:00 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
9 シチリアの晩祷
5 地中海帝国の夢


シャルル・ダンジュー領地

 シチリア王国を確保したシャルルは、つぎの目標をビザンティン帝国においた。
 当時、地中海東部における西ヨーロッパ人の勢力は退潮期にあった。
 一三五〇年ごろの情勢をみると、第四回十字軍のときに成立したラテン帝国に対抗して小アジア半島の内陸部に作られたビザンティン帝国の後継王朝、ニケーヤ帝国の勢力は、しだいにラテン帝国を圧し、小アジア半島北西部からバルカン半島北部にかけて進出し、ラテン帝国のコンスタンティノープルを攻囲していた。
 小アジア半島東部にはセルジューク・トルコのイコニウム帝国があり、アルメニアから東はモンゴル人の支配下にあった。
 エジプトでは、ちょうどこの年、アイユーブ朝が倒れ、トルコ人のマムルク朝がおこっている。
 やがて、一二六一年、ニケーヤ帝国の政権をにぎったミカエル・パレオロゴスは、コンスタンティノープルを征服し、ビザンティン帝国パレオロゴス朝をおこした。
 エジプトのマムルク朝は、六〇年代以降、シリア・パレスティナに進出し、この地になお根をはっていた西ヨーロッパ人諸侯伯領を圧迫しはじめた。
 シャルルのねらいはラテン帝国の再建にあったといってよい。
 これはじつは、マンフレートのすでに考えていたことなのであった。
 マンフレートはバルカン半島西部、ラテン帝国の統制下にあったエピルスに、そのための足場をもっていた。
 すなわち、エピルスの王女ヘレナを妻とし、その婚資として、コルフ島をはじめ沿岸の島々をうけていたのである。
 マンフレートを倒したシャルルは、ヘレナを捕えて、監禁した。
 そして、捕虜の婚資は、自動的に勝利者に帰するとして、一二六六年、これを力ずくで領有したのである。
 また、同じくかつてラテン帝国の統制下にあたったペロポネソス半島のアカイア王国は、一二六七年、シャルルの宗主権をみとめた。
 さらにバルカン半島北部のボスニアにまで勢力をのばしていたハンガリーとは、複雑な婚姻関係により同盟体制をかためた。
 これらの処置は、すべてコンスタンティノープル攻撃のための予備行動であった。
 シャルルはあくまでも用心ぶかかった。
 アカイア王国と協定をむすんだ、その同じ年に、彼はペルシアのイル汗国に使者を送り、同盟締結をもとめている。
 これは、ミカエル・パレオロゴスと小アジア半島のトルコとが組むことを恐れての処置であったといわれる。
 だが、これは失敗に終わった。
 なにしろ、当時、汗(カン=モンゴル王)であったアパガは、ビザンティン王女マリアをめとったばかりであり、しかもマリアはモンゴル人たちの熱烈な敬愛を集めていたという。
 そのモンゴル人たちがシャルルと同盟するはずはなかったのである。
 シャルルは、なお十余年間、ビザンティン遠征計画を延期しなければならなかった。
 一二七〇年に予定した行動は、兄の聖王ルイにじゃまされた。
 しかし、シャルルはころんでもただでは起きなかった。
 ルイは聖地イェルサレムへの十字軍行に同行するようシャルルに求めたのだが、シャルルはたくみに兄を説得し、北アフリカのチュニジアのムスタンスィル政権攻撃へと十字軍計画を変更させ、シチリア島の対岸のサラセン政権に圧力を加えることに成功したのである。
 これが、第七回十字軍である。
 また、一三七一年教皇座についたグレゴリウス十世は、パレオロゴス朝ビザンティンと協調する政策をとり、一三七四年のリヨン公会議において、ビザンティン教会とローマ教会との合同を、原則的に決定した。
 これもまた、シャルルの計画をじゃまする動きであった。
 この決定により、ビザンティン遠征は教会への反逆を意味することになったのである。
 ドイツ本国の諸侯は、その前年、ハブスブルク家のルドルフを王にえらんでいた。
 長かった王位空白の期間がここに終わったのである。
 北イタリア諸都市の皇帝派は活気づいた。
 平和を好むグレゴリウスは、北イタリアの統制はルドルフにまかせようと考えていた。
 一方、カスティリャと組んだジェノバ、マンツーア等の諸都市との争いもあり、北イタリアにおけるシャルルの地位は動揺していた。
 そのうえ、ドイツ国王の出現は、プロバンスの宗主権の問題にふたたび火をつけていた。
 一方、ビザンティンは、教皇グレゴリウスの和平政策に乗じ、バルカン半島において、シャルルに対し攻勢にでていた。
 いたるところでシャルルは守勢に立っていた。
 実際、ビザンティン遠征どころではなかったのである。
 この情勢は、グレゴリウスが一二七六年に没し、そののち三人の教皇をおいて、ニコラウス三世の代(一二七七~八〇)に入っても、基本的には変わらなかった。
 シャルルは退却しながら利をとる作戦にでている。
 教皇の斡旋によって、ルドルフと協定をむすび、ルドルフに臣化し、プロバンス伯領を授封されることに同意しながら、彼の孫シャルル・マルテルが成年に達したさいには、アルル王国を授封される権利を確保し、念願のブルグンド王国実現へと一歩を進めたことも、そのひとつの例である。
 一二八〇年八月ニコラウス三世が急死し、教皇選出の会議は紛糾した。
 翌年の初頭、シャルルは会議場を軍隊でかこみ、フランス人の教皇マルティヌス四世を選出することを強要した。
 教皇はシャルルの期待を裹切らなかった。中部イタリアにおける彼の地位は安定した。
 北イタリアにおける教皇派と皇帝派の対立はふたたび激化したが、シャルルはほぼ北イタリアの統制をあきらめていたので、これは大きな障害とはならなかった。
 彼の関心は主としてプロバンス問題にあり、シャルルと教皇とは共謀して、シャルルの孫シャルル・マルテルとルドルフの娘を、ふたりともまだ幼い子供であったが、結婚させ、ルドルフとの約束にしたがって全ブルグンドの絖制権をにぎるという計画をおしすすめた。
 ルドルフのほうはむしろ北イタリアの統制のほうに関心があり、シャルルの計画を黙視するかたちになった。
 一二八二年の春はやく、シャルルの艦隊はマルセーユの港に集結していた。
 ブルグンド全域を支配するために、ローヌ川をさかのぼって軍勢をおくりこもうという計画であった。
 他方、その前年の夏、シャルルと教皇とは、ベネツィアを加えて、すでにコンスタンティノープル攻撃のことを決定していた。
 遠征は翌一二八二年の四月に行なわれるはずであった。
 その年の十一月、新教皇への挨拶と、東西教会合同政策の確認のためにやってきたビザンティン帝国皇帝ミカエル・パレオロゴスの使節団を、教皇は冷たくあしらい、皇帝を異端ときめつけ、明年の五月一日までの期限つきで、帝国を教皇にさしだせという脅迫状をつきつけたのである。

 ビザンティン帝国は危機にあった。
 もしシャルルの計画が実行されるならば、パレオロゴス朝ビザンティンは崩壊する。
 これはミカエル自身の認めるところであった。
 おそらくミカエル自身が、同盟者をもとめる画策をつづけたことであろう。
 ビザンティンの密使が各地に派遣されたにちがいない。
 ピザンティンに同情するという単純な動機からではなく、さまざまな方面に、さまざまな立場から、シャルルの計画をくつがえそうとする動きがみられたにちがいない。
 伝説は、フリードリヒ二世の重用した侍医、サレルノ生まれのジョバンニ・ダ・プロチダを国際的陰謀の主謀者としている。
 この人物は、タグリアコッツオの戦いののち、一三七五年以降アラゴンのバルセロナに滞在し、ペドロ王登位そうそう、アラゴン王国の大法官職についている。
 その彼がこの危機の前夜、イタリア、シチリア、ビザンティンと地中海をかけめぐり、シャルル打倒の陰謀の網をはりめぐらしたというのだが、これは、七十歳に達した彼の年齢から考えてもおかしい。
 だが、ともかくアラゴンを中心とする反シャルル戦線結成のムードがかもしだされていたとは、確かにいえるのである。
 それはビザンティン側の、あるいはアロゴン王国ペドロ王の妃コンスタンスの線をたどってのホーエンシュタウヘン家の遺臣たちの、あるいはまた北イタリア諸都市の皇帝派の、さらにはまたシチリア島民のはたらきかけがあったからだというよりは、むしろアラゴンという国家じたいの発展の方向が、シャルルの計画とぶつかったからだといったほうが正しいのである。
 アラゴン王国は、イベリア半島を制圧したサラセン教徒に対するキリスト教徒のまきかえし作戦、再征服運動の結果、形成された王国である。建国は十一世紀にさかのぼる。十二世紀なかごろ、商業国家の色彩が強く、すでに成文法をもっていた地中海岸のカタロニアを領するバルセロナ伯家と合体したため、封建的なアラゴン貴族層もカタロニアふうに矯(た)められて、アラゴンは、早くから統一国家としての性格を強くうちだしていた。
 十三世紀のハイメ征服王の代(一二一三~七六)には、南のバレンシア、ムルシアおよびマホルカ島を合併して、カスティリャとの協定による再征服予定地を取得してしまった。
 また、南フランスに対する領土要求もうちきり、アラゴンはここに一個の領域国家として大きく成長した。そして国家発展の方向を、カタロニアの人々が主導権をにぎる地中海貿易に定め、視線を東に向けていたのである。
 その視線に映じたのが、地中海の交易路をふたつに分断するシャルルのシチリア王国であった。
 ハイメ一世をついだペドロ三世とその妃コンスタンス、そして大法官ジョバンニ・ダ・プロチダは、同盟者としてビザンティンとジェノバとをえらんだ。
 伝説はともかく、なんらかのかたちでの交渉が、この三者のあいだにあったことは否めない。
 一説ではジェノバの提督ベネッデット・ザカリアが動いたという。そしてミカエルはアラゴンに三万金オンスの資金を提供したという。一二八一年、シャルルはビザンティン遠征の艦船を集めていた。
 ペドロもまたファンゴス湾に、表向きは北アフリカへの十字軍遠征のためと袮して、艦隊を災結させていた。
 一二八二年の春が近づいていた。








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