『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
5 外圧と内争
2 澶淵(せんえん)の盟約
十一世紀のはじめ、宋では三代目の真宗が立っていた。契丹は、すでに国号を「遼(りょう)」とあらため、いよいよ勢いはさかんであったが、おりから六代目の聖宗が立っていた。
北漢がほろんだのち、宋と遼とは、全面的に国境を接し、その関係はいちだんと緊迫の度をくわえていた。
遼の聖宗が、大挙して南下し、宋の領内に攻めこんできたのは、一〇〇四年(景徳元年)のことであった。
それまでは、軽騎兵をはなって、偵察をつづけていたのである。ときに聖宗は三十七歳であり、宋の真宗は三十四歳であった。
遼の大軍いたる。この報が都の汴(べん)京(開封)につたわると、真宗はあわてふためいた。
群臣も同様であった。なかには、都を長江南岸の金陵(きんりょう=今の南京)、あるいは四川(しせん)の成都にうつして、鋭鋒(えいほう)をさけたほうがよい、と言いだすものまであらわれた。
そのなかでひとり、剛直な宰相の歳準(こうじゅん)は、つよく反対した。
「そんなことを言うものは死罪にすべきだ。」
かくて、親征してこそ国難が救えるのだと、おそれる真宗を説きふせた。真宗みずから軍をひきいて、黄河にのぞむ澶州(せんしゅう)の南城に軍を進めた。
ところが、ここで遼軍のさかんなありさまをみて、多くの者はしりごみしてしまう。すると冠凖はさらに、黄河をわたって契丹軍と対時すベきだ、と帝を説得した。
遼としても、宋軍がこれはどの決意で戦いにのぞむとは、考えていなかったのであろうか、積極的に攻撃をしかけてくることはなかった。
宋としても、ここまでが精いっぱいであった。
こうして両国のおいだに、戦わずして講和が成立する。
この講和は、むすばれた場所の名をとって、澶渕(せんえん)の盟約とよばれる。
宋と遼の講和の内容は三つの部分から成っていた。
一、毎年、宋から遼に絹二十万匹と銀十万両をおくる。
二、宋の真宗は、聖宗の母の承天太后を叔母とし、宋は兄、遼は弟の関係をたもつ。
三、国境を現状のままとする。
宋の側では、はじめ絹と銀あわせて年額百万以下の贈与なら認めよう、とする空気がつよかった。
しかし講和にさえ不賛成で強気(つよき)の冠準は、三十万以下をつよく主張し、結局この線でまとまった。
こうしたいきさつや、遼に対する恐怖感などからみて、宋側では講和を成功とふんでいたのかもしれない。
けれども講和の内容は、明らかに遼に有利であった。
五代の後晋や北漢は、たしかに契丹に従属し、父子の関係をとらされたが、この二国は中国の一部を領有していたにすぎない。
いまや全中国を玄配下におさめた王朝が、北方民族に屈して、対等以下の関係をむすぶにいたった。
北方民族を夷狄(いてき)とさげすみ、ちかくは唐の皇帝が北方民族から「天可汗(てんかかん)」と尊称されたことを思えば、立場が逆転したのであった。
その後しばらく、両国の間は平穏であったが、澶渕(せんえん)の盟約から三十八年目、仁宗のときに、遼から盟約の変更を要求してきた。
いくどか交渉した結果、宋は絹を十万匹、銀十万両をふやして納めることで落着した。
この改訂で宋はこれまで「贈」といっていたのを、これからは「納」といわなければならなかった。
「納」は「贈」よりも、義務と従属を示す言葉である。
宋朝にとっては、屈辱をつよめた改訂であった。
宋朝は北の契丹に苦しんだだけではなかった。
西北にはタングート族の結集された勢力があった。
タングート族は、遼と宋との間をうまくおよぎ、しだいに勢力を拡大してゆく。
やがて李元昊(りげんこう)があらわれると、みずから皇帝と袮し、宋の西北の国境を侵咯しはじめた。
宋では、この国を「西夏」とよんだ。
李元昊はスケールの大きな人物で、絵画をたしなみ、仏教に通じ、蕃漢の文字にあかるく、法律にもくわしかったといわれる。
宋朝は韓琦(かんき)や范仲淹(はんちゅうえん)に大軍をさずけて、西北の防衛にあたらせなければならなかった。
このような宋朝と西夏との緊張関係が、遼から盟約の改訂を要求されることになったわけであった。
宋と遼との改訂問題が解決すると、やがて宋と西夏の間にも、講和がむすばれることになる。
改訂交渉のさい、遼は宋側の要請を受入れて、西夏に講和をすすめた。
西夏にしても、宋を相手にこれ以上あらそうほどの力はなかったのである。
講和は成立し、宋は西夏に毎年、絹十五万三千匹、銀七万二千両、茶三万斤をおくらなければならなくなった。
そのかわり李元昊(りげんこう)は、宋に対して臣下の礼をとることになる。
しかし実質において、西夏が独立国であることに変わりはない。これまた宋朝にとって、屈辱的なできごとであった。
宋朝より前、二世紀以上にわたって全中国を支配した王朝といえば、漢と唐である。
どちらも周辺の民族に勢力を拡大し、強烈な影響をあたえた。
しかし宋朝にはそれができなかった。
できないどころか、北方民族につねに押され気味であった。
そこには唐末からきわだってきた北方民族の結集された力があった。
遼や西夏は、みごとに整備された支配体制をつくりあげ、中国文化の影響をうけながらも主体性をつよめていた。
5 外圧と内争
2 澶淵(せんえん)の盟約
十一世紀のはじめ、宋では三代目の真宗が立っていた。契丹は、すでに国号を「遼(りょう)」とあらため、いよいよ勢いはさかんであったが、おりから六代目の聖宗が立っていた。
北漢がほろんだのち、宋と遼とは、全面的に国境を接し、その関係はいちだんと緊迫の度をくわえていた。
遼の聖宗が、大挙して南下し、宋の領内に攻めこんできたのは、一〇〇四年(景徳元年)のことであった。
それまでは、軽騎兵をはなって、偵察をつづけていたのである。ときに聖宗は三十七歳であり、宋の真宗は三十四歳であった。
遼の大軍いたる。この報が都の汴(べん)京(開封)につたわると、真宗はあわてふためいた。
群臣も同様であった。なかには、都を長江南岸の金陵(きんりょう=今の南京)、あるいは四川(しせん)の成都にうつして、鋭鋒(えいほう)をさけたほうがよい、と言いだすものまであらわれた。
そのなかでひとり、剛直な宰相の歳準(こうじゅん)は、つよく反対した。
「そんなことを言うものは死罪にすべきだ。」
かくて、親征してこそ国難が救えるのだと、おそれる真宗を説きふせた。真宗みずから軍をひきいて、黄河にのぞむ澶州(せんしゅう)の南城に軍を進めた。
ところが、ここで遼軍のさかんなありさまをみて、多くの者はしりごみしてしまう。すると冠凖はさらに、黄河をわたって契丹軍と対時すベきだ、と帝を説得した。
遼としても、宋軍がこれはどの決意で戦いにのぞむとは、考えていなかったのであろうか、積極的に攻撃をしかけてくることはなかった。
宋としても、ここまでが精いっぱいであった。
こうして両国のおいだに、戦わずして講和が成立する。
この講和は、むすばれた場所の名をとって、澶渕(せんえん)の盟約とよばれる。
宋と遼の講和の内容は三つの部分から成っていた。
一、毎年、宋から遼に絹二十万匹と銀十万両をおくる。
二、宋の真宗は、聖宗の母の承天太后を叔母とし、宋は兄、遼は弟の関係をたもつ。
三、国境を現状のままとする。
宋の側では、はじめ絹と銀あわせて年額百万以下の贈与なら認めよう、とする空気がつよかった。
しかし講和にさえ不賛成で強気(つよき)の冠準は、三十万以下をつよく主張し、結局この線でまとまった。
こうしたいきさつや、遼に対する恐怖感などからみて、宋側では講和を成功とふんでいたのかもしれない。
けれども講和の内容は、明らかに遼に有利であった。
五代の後晋や北漢は、たしかに契丹に従属し、父子の関係をとらされたが、この二国は中国の一部を領有していたにすぎない。
いまや全中国を玄配下におさめた王朝が、北方民族に屈して、対等以下の関係をむすぶにいたった。
北方民族を夷狄(いてき)とさげすみ、ちかくは唐の皇帝が北方民族から「天可汗(てんかかん)」と尊称されたことを思えば、立場が逆転したのであった。
その後しばらく、両国の間は平穏であったが、澶渕(せんえん)の盟約から三十八年目、仁宗のときに、遼から盟約の変更を要求してきた。
いくどか交渉した結果、宋は絹を十万匹、銀十万両をふやして納めることで落着した。
この改訂で宋はこれまで「贈」といっていたのを、これからは「納」といわなければならなかった。
「納」は「贈」よりも、義務と従属を示す言葉である。
宋朝にとっては、屈辱をつよめた改訂であった。
宋朝は北の契丹に苦しんだだけではなかった。
西北にはタングート族の結集された勢力があった。
タングート族は、遼と宋との間をうまくおよぎ、しだいに勢力を拡大してゆく。
やがて李元昊(りげんこう)があらわれると、みずから皇帝と袮し、宋の西北の国境を侵咯しはじめた。
宋では、この国を「西夏」とよんだ。
李元昊はスケールの大きな人物で、絵画をたしなみ、仏教に通じ、蕃漢の文字にあかるく、法律にもくわしかったといわれる。
宋朝は韓琦(かんき)や范仲淹(はんちゅうえん)に大軍をさずけて、西北の防衛にあたらせなければならなかった。
このような宋朝と西夏との緊張関係が、遼から盟約の改訂を要求されることになったわけであった。
宋と遼との改訂問題が解決すると、やがて宋と西夏の間にも、講和がむすばれることになる。
改訂交渉のさい、遼は宋側の要請を受入れて、西夏に講和をすすめた。
西夏にしても、宋を相手にこれ以上あらそうほどの力はなかったのである。
講和は成立し、宋は西夏に毎年、絹十五万三千匹、銀七万二千両、茶三万斤をおくらなければならなくなった。
そのかわり李元昊(りげんこう)は、宋に対して臣下の礼をとることになる。
しかし実質において、西夏が独立国であることに変わりはない。これまた宋朝にとって、屈辱的なできごとであった。
宋朝より前、二世紀以上にわたって全中国を支配した王朝といえば、漢と唐である。
どちらも周辺の民族に勢力を拡大し、強烈な影響をあたえた。
しかし宋朝にはそれができなかった。
できないどころか、北方民族につねに押され気味であった。
そこには唐末からきわだってきた北方民族の結集された力があった。
遼や西夏は、みごとに整備された支配体制をつくりあげ、中国文化の影響をうけながらも主体性をつよめていた。