マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
1、地獄は真に存在するか
地獄は疑いなく存在するものである。それは万国万代を通じて何人も疑わぬ真理即ち、常識上の真理であり、一般的真理である。この一般的普遍的大真理を否定するものは常識のない者と云わねばならぬ。
地獄の存在について古いことを尋ぬれば、世界最古の書籍であるモイゼの書いた旧約聖書が明らかに教えている。旧約聖書の民数紀略の第十六章にはコレ・ダタン・アピロンと云う一二人の聖職者が神を演しモイゼに叛いたために「生きながら地獄におち、地、その上に閉じふさがれり」と書いてある。
「なお天主の許より火出でて彼らと北(に叛きたるもの二百五十人を焼つくせり」と記してある。モイゼがこれを書いたのはキリスト降世前一千六百年のことであるから、今日から約三千五百年ほど昔のことであり、申命書にも、天王がモイゼの口をかりて「我が怒りによりて火は燃され、その熱は地獄の底にとおれり」とのたもうて居る。
同じくモイゼの筆によるヨプ記にも不信心なものが天主に対して「我々は天主に御用はございませぬ、我々は天王の律法を好みませぬ、天主につかえたり、祈ったりしても、何の役にも立ちませぬ」と放言して、たちどころに地獄に落されたと書いてある。キリスト降世千年前に、ダヴィドとサロモンとは何人も知って居る明白な大真理として地獄のことを語り、これを証明する必要がないものと認めていた。
タピドは「不信心なるものは倒れて地獄に落されん」と叫び、なお「地獄の苦痛」をも説いた。サロモンも又集会書に「罪人の群は麻屑の束の如し、彼らの終りは火の稲なり、地獄なり、暗黒なり、苦痛なり」と云っている。それから二百年後キリスト降世八百年前に、大予言者イザイャは「ああルシフェルよ・汝何ぞ天より落ちたるぞ汝は汝の心の裡に、我れいと天に上らん、我れ最高き者に等しからんと一云いしにあらずや]見よ、汝地獄の深淵と云うのは恐ろしい火の魂の流ているところと解すべきである。救世主キリストの先駆者洗者聖ヨハネは疑う余地なき真理として地獄の永遠の火のことをエルザレムの民衆に語り、キリストの来り絵うを告げて、「彼の手に箕ありてそのうちばを齢めなり麦(即ち善人)は倉に納め糖(即ち悪人)は消壹えざる火にて焼き絵わん」と叫んでいる。
ギリシャの大哲学者ソクラテスは「聖き律法を犯した者は再び出る事の出来ない地獄に落され、恐ろしき永遠の罰を受けねばならぬ」と云ったことをその弟子プラトンが伝えて居る。「彼は又「霊魂は現世を離れてから審判を受けて、もし現世に於て正しく暮して居なかったならば、厳しい罰に服せねばならぬものである。」と云った。
新教徒(プロテスタント)...自由研究と称するおろかな教義によってあらゆるものを破壊し去った新教徒すら遂に地獄には手を附けることが出来なかった。あらゆる真理を打ち倒してはばからなかったルーテルとカルヴィンとが彼等自身にとっては殊に都合の悪いこの恐ろしき真理を倒そうとしなかったとは、又何と云う不思議で快冴なことであろうか?伝えて云う。マルチン・ルーテルが或る冬の夜、そのつまずかせたろ女と共に櫨辺に在りて語っていたが、たわむれて手を延して火の中に入れた。女は直ちにこれを引き止めたが彼は「止めるには及ぶまいよ、どうせ地獄の焔は我々を待っているのだ。少しは火になれておくのもよかろう」と云ったということである。これは彼が地獄に対する信仰を語るものではあるまいか。彼が宗教改革と云えるものの為に罰を受くろをまぬがれずと確信したるを証すものであろう。之を要するに、地獄に関する信仰は一般的、普遍的である、軽やかに論じつめてゆくと、この信仰のもとは結局二つとなる。第一は原始時代の天啓である。この天啓は形式や枝葉の点に於ては変化はあるが、その骨髄は今日に至るまであらゆる国、人の間に伝えられた最も歴史上の証拠が明らかである。かくの如く歴史的証拠が明瞭であるにもか出わらず、此天啓の存在を否定しようとする人もある。しかしかような人でも左の第二の原因を無視する事は出来るまい。
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1、地獄は真に存在するか
地獄は疑いなく存在するものである。それは万国万代を通じて何人も疑わぬ真理即ち、常識上の真理であり、一般的真理である。この一般的普遍的大真理を否定するものは常識のない者と云わねばならぬ。
地獄の存在について古いことを尋ぬれば、世界最古の書籍であるモイゼの書いた旧約聖書が明らかに教えている。旧約聖書の民数紀略の第十六章にはコレ・ダタン・アピロンと云う一二人の聖職者が神を演しモイゼに叛いたために「生きながら地獄におち、地、その上に閉じふさがれり」と書いてある。
「なお天主の許より火出でて彼らと北(に叛きたるもの二百五十人を焼つくせり」と記してある。モイゼがこれを書いたのはキリスト降世前一千六百年のことであるから、今日から約三千五百年ほど昔のことであり、申命書にも、天王がモイゼの口をかりて「我が怒りによりて火は燃され、その熱は地獄の底にとおれり」とのたもうて居る。
同じくモイゼの筆によるヨプ記にも不信心なものが天主に対して「我々は天主に御用はございませぬ、我々は天王の律法を好みませぬ、天主につかえたり、祈ったりしても、何の役にも立ちませぬ」と放言して、たちどころに地獄に落されたと書いてある。キリスト降世千年前に、ダヴィドとサロモンとは何人も知って居る明白な大真理として地獄のことを語り、これを証明する必要がないものと認めていた。
タピドは「不信心なるものは倒れて地獄に落されん」と叫び、なお「地獄の苦痛」をも説いた。サロモンも又集会書に「罪人の群は麻屑の束の如し、彼らの終りは火の稲なり、地獄なり、暗黒なり、苦痛なり」と云っている。それから二百年後キリスト降世八百年前に、大予言者イザイャは「ああルシフェルよ・汝何ぞ天より落ちたるぞ汝は汝の心の裡に、我れいと天に上らん、我れ最高き者に等しからんと一云いしにあらずや]見よ、汝地獄の深淵と云うのは恐ろしい火の魂の流ているところと解すべきである。救世主キリストの先駆者洗者聖ヨハネは疑う余地なき真理として地獄の永遠の火のことをエルザレムの民衆に語り、キリストの来り絵うを告げて、「彼の手に箕ありてそのうちばを齢めなり麦(即ち善人)は倉に納め糖(即ち悪人)は消壹えざる火にて焼き絵わん」と叫んでいる。
ギリシャの大哲学者ソクラテスは「聖き律法を犯した者は再び出る事の出来ない地獄に落され、恐ろしき永遠の罰を受けねばならぬ」と云ったことをその弟子プラトンが伝えて居る。「彼は又「霊魂は現世を離れてから審判を受けて、もし現世に於て正しく暮して居なかったならば、厳しい罰に服せねばならぬものである。」と云った。
新教徒(プロテスタント)...自由研究と称するおろかな教義によってあらゆるものを破壊し去った新教徒すら遂に地獄には手を附けることが出来なかった。あらゆる真理を打ち倒してはばからなかったルーテルとカルヴィンとが彼等自身にとっては殊に都合の悪いこの恐ろしき真理を倒そうとしなかったとは、又何と云う不思議で快冴なことであろうか?伝えて云う。マルチン・ルーテルが或る冬の夜、そのつまずかせたろ女と共に櫨辺に在りて語っていたが、たわむれて手を延して火の中に入れた。女は直ちにこれを引き止めたが彼は「止めるには及ぶまいよ、どうせ地獄の焔は我々を待っているのだ。少しは火になれておくのもよかろう」と云ったということである。これは彼が地獄に対する信仰を語るものではあるまいか。彼が宗教改革と云えるものの為に罰を受くろをまぬがれずと確信したるを証すものであろう。之を要するに、地獄に関する信仰は一般的、普遍的である、軽やかに論じつめてゆくと、この信仰のもとは結局二つとなる。第一は原始時代の天啓である。この天啓は形式や枝葉の点に於ては変化はあるが、その骨髄は今日に至るまであらゆる国、人の間に伝えられた最も歴史上の証拠が明らかである。かくの如く歴史的証拠が明瞭であるにもか出わらず、此天啓の存在を否定しようとする人もある。しかしかような人でも左の第二の原因を無視する事は出来るまい。
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