聖ペトロ・フーリエ司祭証聖者 St. Petrus Fourrier C. 記念日 12月 9日
フランスの聖人の中、華々しい活動を以て特に聞こえているのはペトロ・フーリエである。
彼は1565年、まだ独立国であったロレーヌ州に生まれた。父は商人であったが、彼がまだ幼い頃から宗教を好み、祈祷に耽るのを見て、ポンタ、ムッソンへ遊学させた所、ペトロの学業、並びに信心完徳に於ける進歩は著しいものがあった。彼は別して天主の聖母を尊敬し、その御加護によりさまざまの霊魂の危険を免れることが出来た。彼の先生方はいずれもイエズス会の司祭たちであった。それで彼も暫くは同会に入ろうと思っていたが、後アウグスチノ会の修士となる決心をした。時に彼は20歳であった。
フーリエは翌年誓願を立て、その4年後の1589年めでたく司祭に叙階されたが、その初ミサの執行に対しては、4ヶ月も前から準備していたとのことである。彼はそれから長上の命令を受け、更に留学して深く学問を修めることとなり、6年の間神学及び聖会法を研究し、その方面の博士号をかちえた。
しかし彼は帰るとその聖なる生活振りに反感を持たれて、甚だしい反対を受けた。彼の聖務に対する熱心、彼の敬虔な日常は冷淡な人々に向かっての無言の訓戒であり、譴責であった。従って改心を望まぬ者共は、師を目の上の瘤のように煙たがりさまざまにこれを苦しめた。
ペトロは3つの司祭就職口を提供された。謙遜な彼はその中で最も低い地位を選び、一小村マッテンクール村の主任司祭となった。そして後年しばしば他業せねばならなかったものの、生涯その職に止まり、死後もその地に埋葬されたのである。
マッテンクールの村人達は宗教に極めて冷淡であったが、ペトロ師の着任後は皆目立って熱心になった。彼の誠意ある教訓、それにも増して彼の優れた聖徳は、何人にも反抗の余地を与えなかったのである。幾ばくもなく人々は彼を「聖人」と呼ぶようになった。そしてそれは如何にも理由のあることであった。ペトロの日常は義しく、彼の救霊への熱意と隣人愛とは限りを知らなかった。彼は暇さえあれば祈祷に耽り、頻繁に大斉し、冬も暖を取らず、手に入る金品はことごとく貧しい人々に恵んだ。彼は自分の寝台までも施し、堅い板の上にやすんだ。しかも信仰に活きる歓喜の色はいつもその面を去らず、接するほど人に好感を与えぬことはなかった。必要な場合には彼も譴責訓戒した。しかし如何なる時にも愛と正義とに基づいてすることを忘れなかったのである。
ペトロが一方ならぬ心配をしたのは子供達の教育についてであった。当時はまだ学校も甚だ少なく、ただ大都市にあるのみに過ぎなかった。で、彼は幾度も祈った後、子供の教育を目的とする女子修道院を新たに創立する覚悟を定め、村の信仰厚い二人のおとめの助けを得て学校を始め、彼等に与えるに聖アウグスチノの戒律を以てした。種々妨げや困難があったにも拘わらず、会員は増加する一方で、彼等はフランス国内は言うに及ばず国外にも数多の学校を設立し、今日に及んでいる。
その内にペトロはツールの司教の依頼を受けてアウグスチノ修道会の改革にも乗り出し、見事その廓清に成功したばかりか新修道会を幾つか増設して会の発展に貢献した。
これらかくかくたる功労とその聖徳とにより、彼自身は人に忘れられて生きることを望んだのに、その名は天下に普く、権勢ある王侯枢機卿も膝を屈して彼の教えを乞いに来るという風であった。
1635年国内に戦乱勃発するや、彼は身辺の危険を感じ、心ならずもマッテンクールを去ってグレイに赴き、そこで帰村の日を待ち侘びつつ時を過ごすこと4年、はからずも天主の御招きを受けて天国に旅立った。
グレイに於いても彼は人々の尊敬をあつめた。彼の祈祷に応じて奇蹟の起こったこともあった。1639年同地に悪性のペストが発生するや、彼は最後の力を尽くして病者の看護、貧民の救済に当たった。そして同年10月には自分も幹線病床に就いたが、それでも彼は及ぶ限り他の人に慰めや忠告を与えることを怠らなかった。その中に彼は体力次第に衰え、その12月9日病あらたまって永眠したのであった。
教訓
聖ペトロ・フーリエは常に活動を続けた。我等も孜々として絶えず働くようにつとめよう。人生は極めて短いからである。しかしその働きは善きこころあてを以て、謙遜になされねばならぬ。善きこころあてがなければ、どんな働きも天国に入る助けとはならぬ。されば我等は聖パウロの言った通り、飲むにも食べるにも何事をなすにも、天主の御光栄を第一にしようではないか。
フランスの聖人の中、華々しい活動を以て特に聞こえているのはペトロ・フーリエである。
彼は1565年、まだ独立国であったロレーヌ州に生まれた。父は商人であったが、彼がまだ幼い頃から宗教を好み、祈祷に耽るのを見て、ポンタ、ムッソンへ遊学させた所、ペトロの学業、並びに信心完徳に於ける進歩は著しいものがあった。彼は別して天主の聖母を尊敬し、その御加護によりさまざまの霊魂の危険を免れることが出来た。彼の先生方はいずれもイエズス会の司祭たちであった。それで彼も暫くは同会に入ろうと思っていたが、後アウグスチノ会の修士となる決心をした。時に彼は20歳であった。
フーリエは翌年誓願を立て、その4年後の1589年めでたく司祭に叙階されたが、その初ミサの執行に対しては、4ヶ月も前から準備していたとのことである。彼はそれから長上の命令を受け、更に留学して深く学問を修めることとなり、6年の間神学及び聖会法を研究し、その方面の博士号をかちえた。
しかし彼は帰るとその聖なる生活振りに反感を持たれて、甚だしい反対を受けた。彼の聖務に対する熱心、彼の敬虔な日常は冷淡な人々に向かっての無言の訓戒であり、譴責であった。従って改心を望まぬ者共は、師を目の上の瘤のように煙たがりさまざまにこれを苦しめた。
ペトロは3つの司祭就職口を提供された。謙遜な彼はその中で最も低い地位を選び、一小村マッテンクール村の主任司祭となった。そして後年しばしば他業せねばならなかったものの、生涯その職に止まり、死後もその地に埋葬されたのである。
マッテンクールの村人達は宗教に極めて冷淡であったが、ペトロ師の着任後は皆目立って熱心になった。彼の誠意ある教訓、それにも増して彼の優れた聖徳は、何人にも反抗の余地を与えなかったのである。幾ばくもなく人々は彼を「聖人」と呼ぶようになった。そしてそれは如何にも理由のあることであった。ペトロの日常は義しく、彼の救霊への熱意と隣人愛とは限りを知らなかった。彼は暇さえあれば祈祷に耽り、頻繁に大斉し、冬も暖を取らず、手に入る金品はことごとく貧しい人々に恵んだ。彼は自分の寝台までも施し、堅い板の上にやすんだ。しかも信仰に活きる歓喜の色はいつもその面を去らず、接するほど人に好感を与えぬことはなかった。必要な場合には彼も譴責訓戒した。しかし如何なる時にも愛と正義とに基づいてすることを忘れなかったのである。
ペトロが一方ならぬ心配をしたのは子供達の教育についてであった。当時はまだ学校も甚だ少なく、ただ大都市にあるのみに過ぎなかった。で、彼は幾度も祈った後、子供の教育を目的とする女子修道院を新たに創立する覚悟を定め、村の信仰厚い二人のおとめの助けを得て学校を始め、彼等に与えるに聖アウグスチノの戒律を以てした。種々妨げや困難があったにも拘わらず、会員は増加する一方で、彼等はフランス国内は言うに及ばず国外にも数多の学校を設立し、今日に及んでいる。
その内にペトロはツールの司教の依頼を受けてアウグスチノ修道会の改革にも乗り出し、見事その廓清に成功したばかりか新修道会を幾つか増設して会の発展に貢献した。
これらかくかくたる功労とその聖徳とにより、彼自身は人に忘れられて生きることを望んだのに、その名は天下に普く、権勢ある王侯枢機卿も膝を屈して彼の教えを乞いに来るという風であった。
1635年国内に戦乱勃発するや、彼は身辺の危険を感じ、心ならずもマッテンクールを去ってグレイに赴き、そこで帰村の日を待ち侘びつつ時を過ごすこと4年、はからずも天主の御招きを受けて天国に旅立った。
グレイに於いても彼は人々の尊敬をあつめた。彼の祈祷に応じて奇蹟の起こったこともあった。1639年同地に悪性のペストが発生するや、彼は最後の力を尽くして病者の看護、貧民の救済に当たった。そして同年10月には自分も幹線病床に就いたが、それでも彼は及ぶ限り他の人に慰めや忠告を与えることを怠らなかった。その中に彼は体力次第に衰え、その12月9日病あらたまって永眠したのであった。
教訓
聖ペトロ・フーリエは常に活動を続けた。我等も孜々として絶えず働くようにつとめよう。人生は極めて短いからである。しかしその働きは善きこころあてを以て、謙遜になされねばならぬ。善きこころあてがなければ、どんな働きも天国に入る助けとはならぬ。されば我等は聖パウロの言った通り、飲むにも食べるにも何事をなすにも、天主の御光栄を第一にしようではないか。