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天国には欲しいものは何でもある 浦川和三郎 司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

2024-12-11 16:14:52 | 浦川司教


(4)-天国には欲しいと思うものは何でもある ー 目はその見事な景色、そこに住んでいられる天使、聖人聖母マリア、神の御子、至聖三位の美しい立派な御姿に見入り、耳は絶えず天使や聖人などの曲(ふし)面白く天主を讃美するその楽しい歌にうっとりと我を忘れて聴きとれるのであります。殊に聖人などが何よりも嬉しく覚えられるのは、善の善なる天主を面(まのあた)りに仰ぎ見て楽しむことであります。天主を仰ぎ見ると共に、その底知れぬ深い深い愛を悟るのであります。自分のために人となり、厩に生まれ、十字架上に死し、聖体の中に食物となって、自分を養い下さったその感ずべき愛を悟って、何んなに吃驚するでしょうか。自分を改心せしめるために浴びせ給うた聖寵、自分を勧め戒めて下さった数限りなき御恵みを一々数え上げては、どんなに仰天するでしょうか。貧乏だとか、病気だとか、災難だとか、自分が今の今まで禍である、不幸であると思っていったのも、実は決して禍ではない、不幸でもない、それこそ天主が自分を天国に引挙げんがため、降し給うた価(あたい)高き恩賜(たまもの)であったよと悟っては、余りの嬉しさに身の置き所も知らないくらいでありましょう。まして自分の友人、隣近所の人々が、自分ほどの罪も犯さないながら、心から痛悔しなかったために、救霊を失い、地獄に苦しんでいるのを天国より打ち眺めては、何とて御礼の申し上げようもなく、ただ感涙に咽び、嬉し泣きに泣くばかりでありましょう。

(5)-聖人などの楽しんでいられる天国の福楽は誠にこんなものでございます。しかもそれが百年でなく、千年でなく、天主が天主にています限り、いつになっても終わりを知らないのであります。

 誰にしても福が嫌いで、楽しみが厭な人というはありますまい。しかれば、どなたも宜しく目を挙げて天国をお眺めなさい。聖人などに与えられた楽しみは、我々にも約束されてあるのです。貪欲(どんよく)は人に賎しめられるが、しかしそれは欲が余り小さいから、この世の僅かな目腐(めくされ)金、汚(けがら)わしい快楽、儚(はかな)い名誉、そんな被造物に対する小(ち)ぽけな欲だからそうなので、我々はむしろ聖人などの如く、大いに欲ばり、限りなき天の福楽を望みましょう。なるほどそれは決して生易しいことではありません。しかし人はお金を儲けるため、昇級するため、少しく地位を進めるためならば、いかほど熱心に働きますか。千円も一万円も目の前にころがっているという時は、夜を日に継いで、寝むことも食べることも忘れて、山を越え、海を渡り、一生懸命に働くじゃありませんか。そうして働いても必ずそのお金が儲かるものと決まっている訳ではありません。往々は損する、辛労損のくたびれ儲けに終わることが多い、それでも猶、懲りずに東に西にかけまわるのであります。しかし天主と取引をする、天国を目的に働くならば、決して損をする気遣いはない。

 必ず儲かる、それも千や万の目腐金ではない、限りなき天国の宝、天主を我が物とするの幸福である、誰かこれを思ったら腕打ちさすり、力足踏み鳴らして奮い立たずに居られましょう。苦労や、艱難や貧の悩み、病の辛さ、其などが山の如く前途に突っ立っていましても、踏み越え踏み越え進んで行こう。側目(わきめ)もふらずに駆け出そう、勇往邁進しようという決心にならずにいられますでしょうか・・・



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