『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
4 ペルシア戦争
5 サラミスの海戦
ギリシアでは国家のことでも、個人的なことでも、重要なことは、みな神託(しんたく)をきくならわしだった。
ギリシアの神託所はいくつかあったが、なかでもいちばん尊崇されたのは、デルフィのアポロンの神託だった。
ここの神託は、外国にまで知られ、リュディアのクロイソス王などもそれをきいたといわれる。
ペルシアとの戦いに際しても、もちろん神託は問われた。
デルフィの神託は「おお! あわれな人々よ……」という言葉ではじまり、不吉な言葉が多かった。
そのためもういちど神託を問うてみると、「……すべてを見たもうゼウスは一つの木の城壁を汝(なんじ)らに与える。それは壊れることなく、汝と汝の子らを守るだろう。……神聖なサラミスよ、汝は女の生んだ子らを滅ぼすだろう」という言葉があった。
この神託は人によって解釈がちがった。「木の城壁」というのは、むかし木の柵をめぐらしていたアクロポリスのことだという者もあり、いや軍艦(当時の軍艦は木造だった)のことだという者もあった。
いちばん終わりの言葉はサラミスで海戦があり、アテネ人は全滅するのだと解釈する者もあった。
テミストクレスは、「木の城壁」を軍艦と解釈し、もしアテネ人が全滅するなら「神聖なサラミスよ」とはいわず、「不吉なサラミスよ」とでもいうだろう、滅びるのはペルシア人にちがいないと解釈した。
大部分のアテネ人はテミストクレスの解釈に賛成し、女、子供、老人は近くの国などに疎開させ、壮年の男子たちはみな船に乗りこんで、アテネ市を捨てた。かねて建造しておいた二百隻の大艦隊が役に立った。
アテネ市中には、「木の城壁」をアクロポリスと解釈した少数の人々が残り、アクロポリスに立てこもった。
ペルシア軍は、空になったアテネ市にはいって来た。
アクロポリスを守っていた少数の人々は殺され、神殿は掠奪されて、火をかけられた。
ギリシア軍の総指揮権を持っていたスパルタは、コリント地峡を次の守備線にして、ペロポネソス半島を守ろうと考えていた。
そのため艦隊も、ペロポネソスのほうへまわそうとした。
しかしテミストクレスは、アテネ前面のサラミス島の付近で決戦をしようと決心した。
そこで逆スパイをペルシア側に送り、ギリシア艦隊はペロポネソス方面へ逃げようとしているから、その前に、サラミス島の近くに集結しているところをいっきょに襲うのがよいと、いわせた。
ペルシア海軍は、サラミス島とアテネとのあいたの狭い水道に集結しているギリシア海軍を、夜のあいだに包囲した。
ここで決戦か、ペロポネソスへ引き上げかと論じていたギリシア軍は、敵が包囲したことを知って驚いたが、今はここで決戦するよりしかたがなくなった。
こうして、サラミスの海戦ははじまった。ギリシア海軍は約三百隻で、その大半約二百隻は、アテネの艦船だった。
ペルシア海軍はその倍以上もあり、船の形も大きかった。
しかしこれが、狭い水道での戦いには不利になった。ギリシア船は体当たりで、敵艦の船腹に突っかけた。
ペルシア船は大型のうえに多数なので、方向転換もうまく行かず、味方同士でぶつかり、沈没するものも多かった。
まごまごしている船には、ギリシア船が舷(げん)を近づけ、そこから兵士が飛びこんで、斬りこんだ。
そのうえ、午後には西風が強く吹きはじめ、嵐になり、ペルシア艦隊はますます混乱した。
外海に逃れ出ようとするペルシア船を、ギリシア船は追い、海戦の勝敗は夕方までにきまってしまった。
紀元前四八〇年の九月末のある日のことだった。
たまたまこの日には、地中海の西のほうでも海戦が行なわれていた。
それはシチリア島のヒメラで、カルタゴとゲロンがたたかった戦いだった。
ここでもゲロンが勝ち、フェニキアの植民地であるカルタゴは、シチリア島のギリシア人制圧に失敗したのだった。
クセルクセスは、ペルシア艦隊の惨敗ぶりを見て、万一ギリシア艦隊に船橋でも切られて、退路が断たれてはたいへんだと、六万の兵をつれてアジアに逃げ帰った。
あとをまかせられたマルドニオスは、陸軍を率いて、北ギリシアにいったんしりぞいた。
そこから彼は和平交渉をしたが、アテネは応じなかった。そこでマルドニオスは翌年春、ふたたびアテネ市に攻め入った。
彼らはアテネ市を徹底的に破壊した。城壁を大部分壊し、将校たちの宿舎に使用したもののほかは、民家もほとんどみなとりつぶしてしまった。
アテネ市を破壊すると、マルドニオス軍は中部ギリシアのテーベに退いた。
そして八月にはそのプラタイアというところで、ペルシア軍とギリシア連合軍は対峙(たいじ)した。
ギリシア側の総司令官はスパルタのパウサニアスだった。
神託は先に戦いをしかけたものが敗れると、ペルシア軍にも、ギリシア軍にも告げていた。
そのため両軍はにらみあいをつづけていたが、ついにしびれをきらしたペルシア軍が戦端を開き、神託どおり、ペルシア軍の敗戦に終わり、マルドニオスは戦死した。
こうしてペルシアは海・陸ともに敗戦のうきめを見た。
この後も小アジア海岸のミュカレなどで小規模な戦いが行なわれるが、ペルシア戦争は事実上はここに終わったといえる。
ペルシアはこの後は、ギリシア遠征をもはや企てなかった。
4 ペルシア戦争
5 サラミスの海戦
ギリシアでは国家のことでも、個人的なことでも、重要なことは、みな神託(しんたく)をきくならわしだった。
ギリシアの神託所はいくつかあったが、なかでもいちばん尊崇されたのは、デルフィのアポロンの神託だった。
ここの神託は、外国にまで知られ、リュディアのクロイソス王などもそれをきいたといわれる。
ペルシアとの戦いに際しても、もちろん神託は問われた。
デルフィの神託は「おお! あわれな人々よ……」という言葉ではじまり、不吉な言葉が多かった。
そのためもういちど神託を問うてみると、「……すべてを見たもうゼウスは一つの木の城壁を汝(なんじ)らに与える。それは壊れることなく、汝と汝の子らを守るだろう。……神聖なサラミスよ、汝は女の生んだ子らを滅ぼすだろう」という言葉があった。
この神託は人によって解釈がちがった。「木の城壁」というのは、むかし木の柵をめぐらしていたアクロポリスのことだという者もあり、いや軍艦(当時の軍艦は木造だった)のことだという者もあった。
いちばん終わりの言葉はサラミスで海戦があり、アテネ人は全滅するのだと解釈する者もあった。
テミストクレスは、「木の城壁」を軍艦と解釈し、もしアテネ人が全滅するなら「神聖なサラミスよ」とはいわず、「不吉なサラミスよ」とでもいうだろう、滅びるのはペルシア人にちがいないと解釈した。
大部分のアテネ人はテミストクレスの解釈に賛成し、女、子供、老人は近くの国などに疎開させ、壮年の男子たちはみな船に乗りこんで、アテネ市を捨てた。かねて建造しておいた二百隻の大艦隊が役に立った。
アテネ市中には、「木の城壁」をアクロポリスと解釈した少数の人々が残り、アクロポリスに立てこもった。
ペルシア軍は、空になったアテネ市にはいって来た。
アクロポリスを守っていた少数の人々は殺され、神殿は掠奪されて、火をかけられた。
ギリシア軍の総指揮権を持っていたスパルタは、コリント地峡を次の守備線にして、ペロポネソス半島を守ろうと考えていた。
そのため艦隊も、ペロポネソスのほうへまわそうとした。
しかしテミストクレスは、アテネ前面のサラミス島の付近で決戦をしようと決心した。
そこで逆スパイをペルシア側に送り、ギリシア艦隊はペロポネソス方面へ逃げようとしているから、その前に、サラミス島の近くに集結しているところをいっきょに襲うのがよいと、いわせた。
ペルシア海軍は、サラミス島とアテネとのあいたの狭い水道に集結しているギリシア海軍を、夜のあいだに包囲した。
ここで決戦か、ペロポネソスへ引き上げかと論じていたギリシア軍は、敵が包囲したことを知って驚いたが、今はここで決戦するよりしかたがなくなった。
こうして、サラミスの海戦ははじまった。ギリシア海軍は約三百隻で、その大半約二百隻は、アテネの艦船だった。
ペルシア海軍はその倍以上もあり、船の形も大きかった。
しかしこれが、狭い水道での戦いには不利になった。ギリシア船は体当たりで、敵艦の船腹に突っかけた。
ペルシア船は大型のうえに多数なので、方向転換もうまく行かず、味方同士でぶつかり、沈没するものも多かった。
まごまごしている船には、ギリシア船が舷(げん)を近づけ、そこから兵士が飛びこんで、斬りこんだ。
そのうえ、午後には西風が強く吹きはじめ、嵐になり、ペルシア艦隊はますます混乱した。
外海に逃れ出ようとするペルシア船を、ギリシア船は追い、海戦の勝敗は夕方までにきまってしまった。
紀元前四八〇年の九月末のある日のことだった。
たまたまこの日には、地中海の西のほうでも海戦が行なわれていた。
それはシチリア島のヒメラで、カルタゴとゲロンがたたかった戦いだった。
ここでもゲロンが勝ち、フェニキアの植民地であるカルタゴは、シチリア島のギリシア人制圧に失敗したのだった。
クセルクセスは、ペルシア艦隊の惨敗ぶりを見て、万一ギリシア艦隊に船橋でも切られて、退路が断たれてはたいへんだと、六万の兵をつれてアジアに逃げ帰った。
あとをまかせられたマルドニオスは、陸軍を率いて、北ギリシアにいったんしりぞいた。
そこから彼は和平交渉をしたが、アテネは応じなかった。そこでマルドニオスは翌年春、ふたたびアテネ市に攻め入った。
彼らはアテネ市を徹底的に破壊した。城壁を大部分壊し、将校たちの宿舎に使用したもののほかは、民家もほとんどみなとりつぶしてしまった。
アテネ市を破壊すると、マルドニオス軍は中部ギリシアのテーベに退いた。
そして八月にはそのプラタイアというところで、ペルシア軍とギリシア連合軍は対峙(たいじ)した。
ギリシア側の総司令官はスパルタのパウサニアスだった。
神託は先に戦いをしかけたものが敗れると、ペルシア軍にも、ギリシア軍にも告げていた。
そのため両軍はにらみあいをつづけていたが、ついにしびれをきらしたペルシア軍が戦端を開き、神託どおり、ペルシア軍の敗戦に終わり、マルドニオスは戦死した。
こうしてペルシアは海・陸ともに敗戦のうきめを見た。
この後も小アジア海岸のミュカレなどで小規模な戦いが行なわれるが、ペルシア戦争は事実上はここに終わったといえる。
ペルシアはこの後は、ギリシア遠征をもはや企てなかった。