この橋は石すなわち善徳でできていることについて。──橋の上には旅人に食物を与える宿泊所があることについて。──橋の上を通る者は生命に達し、下を通る者は亡びと死とにおちいることについて。
この橋は石で築かれている。それは、雨が降っても、旅人が邪魔されないためである。この石はどういう石か知っているであろうか。それは、まことの堅固な善徳である。この石は、わたしの「子」の受難前には、築かれていなかった。それゆえ、だれも、どんなに忠実に善徳の道を歩んでも、目的に達することができなかった。なぜなら、天はまだ「血」の鍵によって開かれていなかったので、正義の雨が、通行を阻止していたからである。
しかし、石が切られて、すでに話したように、橋である「言葉」、わたしの優しい「子」の体のうえに置かれた (12) 。すると、かれは、自分の「血」と石灰とを練り合わせて、石を接合した。すなわち、仁愛の力と火とによって、血と「神性」の石灰とが練り合わされた。
この善徳の石は、かれ自身の上に、わたしの力によって据えられた。かれの上に土台をもたない善徳は一つもないし、すべてがかれにおいて試され、かれによって生命を保つのである。それゆえ、かれによらなければ、かれの跡に、そしてその教えに、従わなければ、だれも、恩寵の生命を通じ与える善徳を保つことができないのである。善徳を成熟させ、これを生きた石として、その血によって接合させて、据えたのはかれである。それは、すべての信徒が、神的正義の雨に阻止されるという奴隷的な恐れを少しも抱かないで、安心して渡ることができるためである。それというのも、信徒はみな、あわれみに守られているからである。このあわれみは、わたしの「子」の受肉によって、天から降ったのである。それでは、天はどうして開かれたのであろうか。かれの血の鍵によって。
以上話したことで、あなたは、橋がどのように築かれているか、あわれみによってどのように守られているかを、理解したと思う。この橋の上には、聖なる教会の庭園のなかに、宿泊所があり、生命の「パン」を保有していて、これを分配し、「血」を飲ませる。それは、わたしの被造物である旅人たちが、その旅のあいだに、疲労によってたおれないためである。このような考えで、わたしの「ひとり子」の血と体とを、あなたがたに分け与えるよう定めたのである。
橋を渡ると、これと一体をなしている「門」に達する。みな、この門から入らなければならない。かれは、「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを通る者は、くらやみのなかではなく、光のなかを歩む」と言ったではないか。わたしの「真理」は、別のところで、だれも「かれ」によらないでは「わたし」に来ることができないとも言っている (13) 。まったく、そのとおりである。
よくおぼえていると思うが、わたしが道をあなたに示したいと思ったとき、あなたに話し、あなたに説明したのは、このことであった。だから、かれがわたしは「道」であると言うのは、真理以外のなにものでもない。すでにあなたに示したように、この道は橋の形を取っている。かれはまた、わたしは「真理」であるとも言った。そのとおりである。なぜなら、かれは至高の「真理」である「わたし」と一体だからである。それで、かれに従う者は、真理と生命との道を歩むのである。この「真理」に従う者は、恩寵の生命を受けるし、飢えにたおれることがない。なぜなら、「真理」がその食物となるからである。そのうえ、くらやみに落ちることがない。なぜなら、かれはいつわりのない光明だからである。それどころか、悪魔がエヴァを誘惑するために使ったいつわりを恥じ入らせ、打ち砕いたのは、かれである。このいつわりによって、天の道は切断された。しかし、「真理」はこの道を再築し、「血」によって固めた。
それで、この道を歩く者は、「真理」の子である。なぜなら、「真理」に従うからであり、「真理」の門を通るからであり、そしてまた、わたしのなかで、道であり門であるわたしの「子」、永遠の「真理」、「平和の大洋」と一致するからである。
しかし、この道から離れる者は、下を、河を通る。この道は石でできているのではなく、水でできている。水には安定性がないから、そこを歩く者は、みな溺れる。
この水は、世の快楽と名誉でできている。その愛を石の上に築かず、これをみだらな執着によって被造物のなかに置き、わたしの外で被造物を愛し、これを所有する者にとって、被遣物は絶えず流れる水である。
人間もまた河のように流れる。人間は、かれが愛する造られたものが流れていると思っている。しかし、かれもまた、死の終末に向かって、絶えず流れている。かれは停止し、その生命と自分の愛する事物とが流れ去るのを防ぐために、固定させたいと切に望んでいる。それは空しい努力である。あるいは死がおとずれて、かれが愛しているものを遺させるか、あるいはわたしの裁定によって、造られた物がかれから奪い去られるか、どちらかである。
このような人々は、いつわりに従うし、いつわりの道を歩む。かれらは、いつわりの父である悪魔の子供である (14) 。そして、いつわりの門を通るから、永遠の断罪を受けるのである。
わかってもらえたと思うが、わたしはあなたに、真理といつわり、すなわち、真理であるわたしの道と、いつわりである悪魔の道とを、示したのである。
聖カタリナに現れたイエズス様による啓示
(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)
この橋は石で築かれている。それは、雨が降っても、旅人が邪魔されないためである。この石はどういう石か知っているであろうか。それは、まことの堅固な善徳である。この石は、わたしの「子」の受難前には、築かれていなかった。それゆえ、だれも、どんなに忠実に善徳の道を歩んでも、目的に達することができなかった。なぜなら、天はまだ「血」の鍵によって開かれていなかったので、正義の雨が、通行を阻止していたからである。
しかし、石が切られて、すでに話したように、橋である「言葉」、わたしの優しい「子」の体のうえに置かれた (12) 。すると、かれは、自分の「血」と石灰とを練り合わせて、石を接合した。すなわち、仁愛の力と火とによって、血と「神性」の石灰とが練り合わされた。
この善徳の石は、かれ自身の上に、わたしの力によって据えられた。かれの上に土台をもたない善徳は一つもないし、すべてがかれにおいて試され、かれによって生命を保つのである。それゆえ、かれによらなければ、かれの跡に、そしてその教えに、従わなければ、だれも、恩寵の生命を通じ与える善徳を保つことができないのである。善徳を成熟させ、これを生きた石として、その血によって接合させて、据えたのはかれである。それは、すべての信徒が、神的正義の雨に阻止されるという奴隷的な恐れを少しも抱かないで、安心して渡ることができるためである。それというのも、信徒はみな、あわれみに守られているからである。このあわれみは、わたしの「子」の受肉によって、天から降ったのである。それでは、天はどうして開かれたのであろうか。かれの血の鍵によって。
以上話したことで、あなたは、橋がどのように築かれているか、あわれみによってどのように守られているかを、理解したと思う。この橋の上には、聖なる教会の庭園のなかに、宿泊所があり、生命の「パン」を保有していて、これを分配し、「血」を飲ませる。それは、わたしの被造物である旅人たちが、その旅のあいだに、疲労によってたおれないためである。このような考えで、わたしの「ひとり子」の血と体とを、あなたがたに分け与えるよう定めたのである。
橋を渡ると、これと一体をなしている「門」に達する。みな、この門から入らなければならない。かれは、「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを通る者は、くらやみのなかではなく、光のなかを歩む」と言ったではないか。わたしの「真理」は、別のところで、だれも「かれ」によらないでは「わたし」に来ることができないとも言っている (13) 。まったく、そのとおりである。
よくおぼえていると思うが、わたしが道をあなたに示したいと思ったとき、あなたに話し、あなたに説明したのは、このことであった。だから、かれがわたしは「道」であると言うのは、真理以外のなにものでもない。すでにあなたに示したように、この道は橋の形を取っている。かれはまた、わたしは「真理」であるとも言った。そのとおりである。なぜなら、かれは至高の「真理」である「わたし」と一体だからである。それで、かれに従う者は、真理と生命との道を歩むのである。この「真理」に従う者は、恩寵の生命を受けるし、飢えにたおれることがない。なぜなら、「真理」がその食物となるからである。そのうえ、くらやみに落ちることがない。なぜなら、かれはいつわりのない光明だからである。それどころか、悪魔がエヴァを誘惑するために使ったいつわりを恥じ入らせ、打ち砕いたのは、かれである。このいつわりによって、天の道は切断された。しかし、「真理」はこの道を再築し、「血」によって固めた。
それで、この道を歩く者は、「真理」の子である。なぜなら、「真理」に従うからであり、「真理」の門を通るからであり、そしてまた、わたしのなかで、道であり門であるわたしの「子」、永遠の「真理」、「平和の大洋」と一致するからである。
しかし、この道から離れる者は、下を、河を通る。この道は石でできているのではなく、水でできている。水には安定性がないから、そこを歩く者は、みな溺れる。
この水は、世の快楽と名誉でできている。その愛を石の上に築かず、これをみだらな執着によって被造物のなかに置き、わたしの外で被造物を愛し、これを所有する者にとって、被遣物は絶えず流れる水である。
人間もまた河のように流れる。人間は、かれが愛する造られたものが流れていると思っている。しかし、かれもまた、死の終末に向かって、絶えず流れている。かれは停止し、その生命と自分の愛する事物とが流れ去るのを防ぐために、固定させたいと切に望んでいる。それは空しい努力である。あるいは死がおとずれて、かれが愛しているものを遺させるか、あるいはわたしの裁定によって、造られた物がかれから奪い去られるか、どちらかである。
このような人々は、いつわりに従うし、いつわりの道を歩む。かれらは、いつわりの父である悪魔の子供である (14) 。そして、いつわりの門を通るから、永遠の断罪を受けるのである。
わかってもらえたと思うが、わたしはあなたに、真理といつわり、すなわち、真理であるわたしの道と、いつわりである悪魔の道とを、示したのである。
聖カタリナに現れたイエズス様による啓示
(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)