『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
5 五胡十六国
5 前秦(ぜんしん)の興亡
中国の北部に燕と秦の両国が東西に対立し、燕にやや衰えのきざしが生じたとき、桓温が二回目の北伐を断行した。
これは、桓温じしんの人気挽回(ばんかい)をかけてのものであった。
太和四年(三六九)四月、桓温は五万の軍をひきいて海岸ぞいに進み、燕の首都におよそ八〇キロのところまでせまった。
燕の皇帝は、まだ年少である。すっかり弱気になって、北にかえろうといいだす。
このとき王族のひとり、慕容垂(すい)が、苻堅とむすんで桓温にあたることをすすめた。
西方の領土を、秦にあたえるというのが、同盟の条件である。東進をのぞんでいた苻堅も、この条件をうけいれた。
よって二万の兵を出し、五万の燕軍とあわせて、桓温の軍をやぶった。
たたかいにさいしても、慕容垂の活躍はめざましかった。しかし燕の国内には、その功をねたむものも少なくない。
とうとう垂は、苻堅のもとに走ってしまった。武力もあり、人望もあつい垂をうしなったことは、燕にとって大きなマイナスであった。
そのうえ燕は、さきに秦にゆずると約束した領土が、惜しくなった。
「この前は、使者が言いちがえたのだ」と告げたから、苻堅はおこった。王猛みずから兵をひきい、燕を攻める。
こうして太和五年(三七〇)、燕はほろんだ。それから六年ののち、甘粛の前涼も、秦によってほろぼされた。さらに秦は、四川(しせん)の一部をも手にいれて、中国の北部を統一した。
いまや中国は、秦と東晋とが、南北に対立する形勢となった。苻堅は、ただちに晋を討とうという考えをいだいた。
それに反対したのが、王猛である。秦の国内には、チベッ卜系の民族のほかに、鮮卑や漢人など、雑多な人びとがまじりあっている。
内部をもっと固める必要がある、というのであった。
しかし、この王猛が死んだあとは、もはや苻堅をいさめる人もいない。苻堅は、ひたすらに東晋を攻める道をあゆんでいった。
その準備として、氐(てい)族の子弟を、長安から東方へとうつした。長安には鮮卑族がのこることになる。
「遠く種人(同族の人々)をうつして、鮮卑をとどむ。いったん緩急あれば、まさに誰にたよらん。」
送別にあたっては、このように歌われた。しかも苻堅は、国内の不安に耳をかそうとしなかった。
太元八年(三八三)八月、八十万の大軍は長安を発して、南へくだった。
十一月、淝水(ひすい)において東晋の軍と対する。
しかし秦軍のなかには、このころから恐怖の心がめばえていた。
対岸の山の草木までが、晋軍にみえるという始末である。
こういう状態では、勝てるはずがない。風の音、鶴の鳴き声にも敵襲かとおそれ、北に逃げかえった。
この敗戦によって、さしもの秦も解体する。北の勢力図は、またもぬりかえられた。
慕容垂が「燕」を復興し、ほかにもいくつかの国が生まれる。そして、たがいに争いあった。
この混乱をふたたび統一したのが、鮮卑の拓跋(たくばつ)氏が建てた「北魏」であった。
5 五胡十六国
5 前秦(ぜんしん)の興亡
中国の北部に燕と秦の両国が東西に対立し、燕にやや衰えのきざしが生じたとき、桓温が二回目の北伐を断行した。
これは、桓温じしんの人気挽回(ばんかい)をかけてのものであった。
太和四年(三六九)四月、桓温は五万の軍をひきいて海岸ぞいに進み、燕の首都におよそ八〇キロのところまでせまった。
燕の皇帝は、まだ年少である。すっかり弱気になって、北にかえろうといいだす。
このとき王族のひとり、慕容垂(すい)が、苻堅とむすんで桓温にあたることをすすめた。
西方の領土を、秦にあたえるというのが、同盟の条件である。東進をのぞんでいた苻堅も、この条件をうけいれた。
よって二万の兵を出し、五万の燕軍とあわせて、桓温の軍をやぶった。
たたかいにさいしても、慕容垂の活躍はめざましかった。しかし燕の国内には、その功をねたむものも少なくない。
とうとう垂は、苻堅のもとに走ってしまった。武力もあり、人望もあつい垂をうしなったことは、燕にとって大きなマイナスであった。
そのうえ燕は、さきに秦にゆずると約束した領土が、惜しくなった。
「この前は、使者が言いちがえたのだ」と告げたから、苻堅はおこった。王猛みずから兵をひきい、燕を攻める。
こうして太和五年(三七〇)、燕はほろんだ。それから六年ののち、甘粛の前涼も、秦によってほろぼされた。さらに秦は、四川(しせん)の一部をも手にいれて、中国の北部を統一した。
いまや中国は、秦と東晋とが、南北に対立する形勢となった。苻堅は、ただちに晋を討とうという考えをいだいた。
それに反対したのが、王猛である。秦の国内には、チベッ卜系の民族のほかに、鮮卑や漢人など、雑多な人びとがまじりあっている。
内部をもっと固める必要がある、というのであった。
しかし、この王猛が死んだあとは、もはや苻堅をいさめる人もいない。苻堅は、ひたすらに東晋を攻める道をあゆんでいった。
その準備として、氐(てい)族の子弟を、長安から東方へとうつした。長安には鮮卑族がのこることになる。
「遠く種人(同族の人々)をうつして、鮮卑をとどむ。いったん緩急あれば、まさに誰にたよらん。」
送別にあたっては、このように歌われた。しかも苻堅は、国内の不安に耳をかそうとしなかった。
太元八年(三八三)八月、八十万の大軍は長安を発して、南へくだった。
十一月、淝水(ひすい)において東晋の軍と対する。
しかし秦軍のなかには、このころから恐怖の心がめばえていた。
対岸の山の草木までが、晋軍にみえるという始末である。
こういう状態では、勝てるはずがない。風の音、鶴の鳴き声にも敵襲かとおそれ、北に逃げかえった。
この敗戦によって、さしもの秦も解体する。北の勢力図は、またもぬりかえられた。
慕容垂が「燕」を復興し、ほかにもいくつかの国が生まれる。そして、たがいに争いあった。
この混乱をふたたび統一したのが、鮮卑の拓跋(たくばつ)氏が建てた「北魏」であった。