『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
11 台湾の鄭氏政権
3 台湾の領有
台湾はオランダ人の支配するところである。
しかし明末このかた、中国人の移住するものもすこぶる多い。
オランダ人としても、原住民にキリスト教をつたえたり、ローマ宇による書写をおしえたりしながら、中国人をしきりに招いて、開拓をすすめてきたのであった。
しかし中国人の移民が多くなると、少数のオランダ人に支配されることを喜ばなくなる。
反乱をおこす者まで、あらわれた。
そうした中国人の不満が、アモイにいる鄭成功のもとに伝えられた。
鄭成功としても、台湾の偵察をすすめていたところである。台湾の地図も、手にすることができた。
一六六一年四月、鄭成功は二万五千の兵をひきいて台湾海峡をおしわたる。
こうして、いまの台南にいたり、その地の中国人の案内をうけて、まずプロビンシア城をおとしいれた。
つづいで五月には、ゼーランディア城を包囲する。
東アジアにおけるオランダの本拠は、ジャワのバタビアにあった。いまのジャカルタである。
アジアの貿易と航路を一手ににぎっていたのは、東インド会社であったが、さらに政府の最高責任者としては総督が任命され、バタビアに駐在している。
いまやゼーランディア城もあぶないと聞いて、大いにおどろいた。さっそく援軍を発した。
しかし限られた数の船と軍隊では、攻勢に転ずることは無理であった。
ゼーランディア城は、よく守った。孤城において、九ヵ月ももちこたえた。
しかし鄭軍の攻撃は、日ましに激しくなる。城中の食糧もとぽしくなった。
一六六二年二月には、ついに降伏し、城をあけわたして、台湾から去ったのである。
オランダ人による台湾の支配は、三十八年にして終わり、これよりは中国人たる鄭氏が台湾の主となった。
ほぼ時をおなじうして、永明王はビルマで捕えられた。明朝の命脈は、まったく尽きた。
しかし鄭成功も、その子孫も、永明王の「永暦」の年号をすてようとはしない。
こののち鄭氏がつづく限り、永暦の年号はもちいつづけられた。
永暦十六年といえば、清朝では康煕元年(一六六二)にあたる。
その五月、すなわち台湾を領有してから半年しかたたぬうちに、鄭成功は病死した。
まだ三十九歳のわかさであった。成功のあとは、子の経がついだ。
はじめはアモイおよび金門の両島をまもっていたが、二年後には清軍にうばわれた。
鄭氏は、大陸における足場をまったくうしなって、もっぱら台湾の経営に力をそそいだ。
もちろん制海権は、依然としてにぎっている。
海上をおさえて、日本や南海の諸国と貿易をつづけ、巨利をえていたからこそ、アモイや台湾をもって清朝に対抗することができたのであった。
鄭成功の事跡は、日本へもくわしく伝えられた。
その母が日本人であったところから、とくに親しみをもたれた。
そこで近松門左衛門は『国姓爺(こくせんや)合戦』と題する浄瑠璃(じょうるり)を仕たてて、満都の人気をあつめた。
ここに登場する主人公の和唐内(わとうない)が、鄭成功をモデルにしたものであることは、いうまでもない。
和唐内は忠臣であり、勇士であり、これに対する韃靼(だったん=清)は、ついにほろぼざるべき悪玉であった。
台湾は鄭成功によって、はじめて中国人の支配するところとなった。
それも大陸から追われた結果、台湾の支配者となったのである。
すでに中国大陸は、北京を首都とする清朝のものであった。
しかし清朝としては、まだ南部に呉三桂(ごさんけい)らの三藩があり、大陸をかためるのに精いっぱいである。
さらに、海上のいくさには自信がなかった。
鄭氏としても、大陸反攻はとなえるものの、じっさいに兵をだして戦うだけの力はない。
よって、しばらくのあいだ、中国大陸と台湾と、形だけではあったが、二つの政権が存在することになったのであった。