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8-11-3 台湾の領有

2024-02-05 18:41:50 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
11 台湾の鄭氏政権
3 台湾の領有

 台湾はオランダ人の支配するところである。
 しかし明末このかた、中国人の移住するものもすこぶる多い。
 オランダ人としても、原住民にキリスト教をつたえたり、ローマ宇による書写をおしえたりしながら、中国人をしきりに招いて、開拓をすすめてきたのであった。
 しかし中国人の移民が多くなると、少数のオランダ人に支配されることを喜ばなくなる。
 反乱をおこす者まで、あらわれた。
 そうした中国人の不満が、アモイにいる鄭成功のもとに伝えられた。
 鄭成功としても、台湾の偵察をすすめていたところである。台湾の地図も、手にすることができた。
 一六六一年四月、鄭成功は二万五千の兵をひきいて台湾海峡をおしわたる。
 こうして、いまの台南にいたり、その地の中国人の案内をうけて、まずプロビンシア城をおとしいれた。
 つづいで五月には、ゼーランディア城を包囲する。
 東アジアにおけるオランダの本拠は、ジャワのバタビアにあった。いまのジャカルタである。
 アジアの貿易と航路を一手ににぎっていたのは、東インド会社であったが、さらに政府の最高責任者としては総督が任命され、バタビアに駐在している。
 いまやゼーランディア城もあぶないと聞いて、大いにおどろいた。さっそく援軍を発した。
 しかし限られた数の船と軍隊では、攻勢に転ずることは無理であった。
 ゼーランディア城は、よく守った。孤城において、九ヵ月ももちこたえた。
 しかし鄭軍の攻撃は、日ましに激しくなる。城中の食糧もとぽしくなった。
 一六六二年二月には、ついに降伏し、城をあけわたして、台湾から去ったのである。
 オランダ人による台湾の支配は、三十八年にして終わり、これよりは中国人たる鄭氏が台湾の主となった。
 ほぼ時をおなじうして、永明王はビルマで捕えられた。明朝の命脈は、まったく尽きた。
 しかし鄭成功も、その子孫も、永明王の「永暦」の年号をすてようとはしない。
 こののち鄭氏がつづく限り、永暦の年号はもちいつづけられた。
 永暦十六年といえば、清朝では康煕元年(一六六二)にあたる。
 その五月、すなわち台湾を領有してから半年しかたたぬうちに、鄭成功は病死した。
 まだ三十九歳のわかさであった。成功のあとは、子の経がついだ。
 はじめはアモイおよび金門の両島をまもっていたが、二年後には清軍にうばわれた。
 鄭氏は、大陸における足場をまったくうしなって、もっぱら台湾の経営に力をそそいだ。
 もちろん制海権は、依然としてにぎっている。
 海上をおさえて、日本や南海の諸国と貿易をつづけ、巨利をえていたからこそ、アモイや台湾をもって清朝に対抗することができたのであった。
 鄭成功の事跡は、日本へもくわしく伝えられた。
 その母が日本人であったところから、とくに親しみをもたれた。
 そこで近松門左衛門は『国姓爺(こくせんや)合戦』と題する浄瑠璃(じょうるり)を仕たてて、満都の人気をあつめた。
 ここに登場する主人公の和唐内(わとうない)が、鄭成功をモデルにしたものであることは、いうまでもない。
 和唐内は忠臣であり、勇士であり、これに対する韃靼(だったん=清)は、ついにほろぼざるべき悪玉であった。
 台湾は鄭成功によって、はじめて中国人の支配するところとなった。
 それも大陸から追われた結果、台湾の支配者となったのである。
 すでに中国大陸は、北京を首都とする清朝のものであった。
 しかし清朝としては、まだ南部に呉三桂(ごさんけい)らの三藩があり、大陸をかためるのに精いっぱいである。
 さらに、海上のいくさには自信がなかった。
 鄭氏としても、大陸反攻はとなえるものの、じっさいに兵をだして戦うだけの力はない。
 よって、しばらくのあいだ、中国大陸と台湾と、形だけではあったが、二つの政権が存在することになったのであった。






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