『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
13 清朝の権力と富の行方
2 治政の間隙
中国には、古くから「南船北馬」という言葉があった。
江南の交通は舟により、北の交通は馬によることをしめしている。
しかも、この言葉の実態は時代とともに拡大されてきた。
遼(りょう)・宋(そう)・金(きん)の抗争をへたのち、元(げん)・明(みん)・清(しん)の統一期には、中国の中心は、黄河と長江の流域をはさむ地域ではなくなっていた。
このことは、北宋を最後に、首都が黄河の流域から消え、かつ黄河の流域におこって王朝を建設する例も消えたことからうかがわれよう。
もはや、絹の道も海になっている。
黄河の上流域から西北への陸路は、大きく変質しはじめていたのである。
明(みん)代にいわれた「北虜南倭」の言葉がしめすように、中国を閉ざそうとしても、まわりの海と砂漠を無視することはできなくなっていた。
その意味で、海禁と長城の構築は、すでに時代の波に逆行するものであった。
金と南宋による南北二分の形勢が樹立されてより、北の拠点は北京、南の拠点は南京へと移行する方向をたどったのである。
南京と北京は、経済の中心地域と政治の中心地域に位置し、両者はともに、砂漠と海にひろがった大帝国の二大拠点とならざるをえなかったのである。
日本における東京と京都のように。
黄河と淮河(わいが)の流域は、北京と南京をむすぶ中間地帯と化した。
政治の中心たる北京の北には、モンゴルの高原があり、南京の南には江南の沿岸と、はてしない海洋がある。
こうした形勢のなかにあって、中国における治政の間隙(かんげき)が、はげしくなった。
その一つが、山東・河南・湖北にわたる中間地帯であり、それは、陝西(せんせい)・四川(しせん)・甘粛(かんしゅく)にひろがる。
生死の岐路にたたされた民衆の蜂起は、おおむねこの地域にあった。
わすれられ、置きざりにされたこの地域の人びとは、不安な生活にさらされがちであった。
戦乱は、人口の減少と土地の荒廃をもたらした。平和は、人口の増加と土地の狭小を生んだ。
動乱のあとにくる平和の初期、増加する人口は、荒廃地の回復と、あらたな開墾のために、しばしば中間地帯から西にむかって移動する。
しかし、それにも限度があった。やがては飽和状態となり、治政の空白が不安をました。
中間地帯から西方にかけてひろがる社会不安は、そのなかに流賊の横行をうんだ。
困窮にうちひしがれ、生死の岐路に立つ民衆のなかには、宗教結社の波がひろがった。
いっぼう、飽和状態から活路をもとめる人びとは、さらに奥地へと浸透をこころみる。西へ、北へ。
その波は辺境をこえ、周辺の異民族のなかへとひろがりをしめす。
雲南へ、チベットへ、西域へ、モンゴルへ。
それは決して武力による進出ではない。
しかし、その浸透は、苦難にみち、多くの犠牲をともないながら、いつしか社会を漢化し、外郭をひろげてゆく。
もとより、打ちひしがれ、生死の岐路にたたされた民衆は、中間地帯から西方への拡がりの中にのみあったわけではない。
華北でも、華南でも、その現象はみられた。
華南の沿岸地域は、海禁をまもる限り、生活は決して救われるものではなかった。
後期の倭寇の多くが沿岸の中国人であったことは、これを如実に物語っている。
さらに、華南の沿岸地帯の後背地は、農耕生産に十分めぐまれた地域ではない。華南地方が飽和状態に達するとき、そこにも民衆蜂起の動きがしばしばおこった。
陸上では結社の起義(きぎ=農民反乱)となり、少数民族の起義となった。海上からは、海賊の出没となって沿岸をおびやかすことになる。
それだけではない。
あふれた貧苦の民衆たちのなかには、禁をおかして海をこえ、南海の各地に活路をもとめる者がすくなくない。
その数が、王朝末期に急増することは、その時期の社会事情を反映したものであった。
その傾向は明末、さらには清末において激しさをくわえた。
これこそ、東南アジアにひろがった南洋華僑(かきょう)の先駆者たちである。
南洋華僑も、武力をもってする進出ではなかった。
それは、内陸へと浸透した貧苦の民衆の場合とかわりない。
かれらもまた、多くの苦難と犠牲をともないながら、南海諸国の社会に浸透していったのである。
ただ内陸への浸透は、その漢化をひろげ、五族の中国となる素地をつくった。
また五族の中国として、中国王朝の配下に内包された。
これに対し、海をわたった華僑の波は、本国の保護をもとめることはできなかった。
しかしかれらは、その社会にひとつの楔(くさび)を打ちこんだのである。