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4-15-1 敦煌の秘宝

2023-03-11 06:50:29 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
15 敦煌の秘宝
1 敦煌の地理と歴史

 「……瓜(か)州から沙(さ)州(敦煌)までは三百支里の道のりで、ほとんどその全部が砂漠地帯である。
 「二日目も三日目も砂漠地帯を行軍した。ところどころに砂漠の旅行者のための井戸と、上屋があった。
 ……休みなしに歩いているにもかかわらず、からだは暖まらなかった。
 西から吹いてくる刃のような寒風が、ぶつかっては鳴った。……
 「四日目の朝、ゆくてに大きな塩池を見た。塩池は遠くから望むと、さながら積雪のように見えた。
 ……近寄って見ると、塩池は完全に固く氷結していた。……
 「五日目の朝、小高い丘の上に出た。
 そこから望むと、四方に大砂漠は海のようにひろがり、遠く西北方の一ヵ所だけにわずかに、樹木の固まりらしいものがあった。」

 井上靖の『敦煌』には、瓜州から沙州(敦煌)にいたるまでの風景を、このように描写している。
 そこは甘粛(かんしゅく)の西の果て、砂漠のまんなかである。
 首都の北京(ペキン)から敦煌までは約四○○○キロ、それは北海道の北端から九州の南端をむすぶ直線の距離に、ほぼひとしい。
 いま敦煌へゆこうとするには、北京から飛行機でまず蘭州へ。ここまでが八時間。
 さらに酒泉(しゅせん)まで三時間。もし鉄道でゆくとすれば、蘭州から酒泉までで、二昼夜かかる。
 もはや中国の内地とは、まったく景観がちがっている。
 住民も漢人のほか、モンゴル人やウイグル人も多い。城内にはラクダや驢馬(ロバ)が行きかわしている。
 酒泉から敦煌まで、なお四〇〇キロ、砂漠のなかである。
 車をとばして安西(瓜州)までが八時間(三〇〇キロ)、そうして安西から敦煌の町まで三時間を要する。

 めざす遺跡は町から約二〇キロ、四面は砂礫(されき)の広野である。ひろい河原のなかの小さな流れをこしてゆくと、鳴沙山(めいさざん)の東端の断崖に、南北およそ一・六キロにわたって、四百八十あまりの石窟がひらかれている。これが莫高窟(ばくこうくつ)である。また千仏洞ともよばれる。
 そもそも敦煌のあたりが、はじめて中国の領内にはいったのは、漢の武帝のとき(前一〇〇年ころ)であった。
 その前は月氏(げっし)、あるいは匈奴(きょうど)の支配下にあった。
 漢の領土となって、はじめは酒泉郡に属したが、やがて漢が西域を経営するにいたり、その最西端の基地として、敦煌郡がおかれた。
 匈奴の攻撃からまもるために、長城もきずかれた。
 当時の守備の記録として、木簡(もっかん=まだ紙がないので、木片に記録したもの)が一千点も出土している。
 しかし敦煌の地は、西の果てであるだけに、中央の政権が弱体となれば、独立をはかり、もしくは半独立の姿勢となった。
 五胡十六国の時代(四世紀)には、前秦(しん)などの政権に属したり、西涼の首都が置かれたりしている。
 莫高窟は、前秦領のときに(三六六)、はじめてひらかれたものであった。
 以後、千年にわたって開掘(かいくつ)と補修がつづけられ、仏教の聖地となる。
 隋(ずい)代には敦煌(とんこう)郡がおかれた(このころから敦に火偏がつけられた)。
 唐代になると、はじめ瓜(か)州、やがて太宗の貞観(じょうがん)年間に沙州とあらためられた。
 安史の乱ののちは、吐蕃(とばん=チベット)に占領されたが、そのときにも五つの大寺が建てられている。
 宣宗(せんそう)の大中五年(八五一)、漢人の張議潮が吐蕃を迫いはらって節度使に任命され、このあたり一帯を支配した。
 のちも張氏の一族が節度使をつぎ、唐朝がおとろえると一時は独立した。
 五代からのちは、曹(そう)氏が政権をにぎっていたが、十一世紀には西夏(タングート)に征服される。
 モンゴル人が西夏をほろぼしてからは、敦煌もモンゴル人の町となった。
 明から清にかけては沙州衛がおかれ、乾隆二十五年(一七六〇)にいたって、安西府に属する敦煌県となった。







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