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5-10-1 黒い死――恐怖のペスト

2023-05-16 19:38:06 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
10 黒い死――恐怖のペスト
1 死神ペスト来たる

地中海の主要貿易路――ペストの流行は、カッファを包囲していたモンゴル軍から起った。
そして鼠によって、カッファから船に乗ってヨーロッパ各地に拡散していった。

 一三四七年、死神がクリミア半島の港町カッファに姿を現わした。
 カッファは、十三世紀のなかば以降ジェノバ領であり、ジェノバの黒海貿易の拠点であったが、当時クリミア半島を南下したモンゴルのキプチャク汗国の軍勢に攻囲されていた。
 その攻囲軍の陣営に、ベストが発生したのである。
 キプチャクの汗ジャニペクは、ペストに倒れた将士の屍体を、投石機を使って市中に投げこませたという。
 ジェノバ人にも、この災禍のおすそわけをしてやろうという腹づもりだったのだろう。
 だが、その心づくしには、あまり意味がなかった。
 陣営のいたるところにちょろちょろ走りまわっていたねずみどもには敵味方の区別はない。
 城壁の守りも、ねずみには弱い。そして、死神(ペスト)の乗り物は、このねずみだったのだから。
 カッファの港を出航するジェノバの商船に、このねずみどもがたくさん乗っていた。
 商船隊は、途中コンスタンティノープルに寄り、それからエーゲ海を横断し、バルカン半島の南をまわってシチリア島に向かう。
 死神は、このイタリア半島西岸諸都市の東方交易路ぞいに、進軍したのだった。
 シチリア島のメッシナの町を死の恐怖におとしいれたのち、イタリア半島西岸ぞいに北上し、ピサ、ジェノバでひと休みした死神は、両手をひろげてヨーロッパ内陸部におそいかかった。
 一方の手でアルプスの峠越えの道をおさえ、もう一方の手を、地中海岸ぞいに南フランスのマルセーユにまでのばしたのである。
 一三四七年という年が、そろそろ終わろうとするころのことであった。
 翌一三四八年、災禍は、イタリア半島、イベリア半島(スペイン)、そしてフランスの各地に荒れくるった。
 コルシカ、サルデーニャをはじめ、西部地中海上の島々、また北アフリカ沿岸も、死神の魔手からのがれることはできなかった。
 一三四九年には、オーストリア、ハンガリー、スイス、南ドイツ、ライン川流域地方、ネーデルラントが死神にねらわれた。
 イングランドには、すでに前年の夏、カレーを出航した船が、死のねずみどもを運びこんでいて、この年の春、ロンドンが死の影におおわれ、さらに北上した死神は、翌一三五〇年、スコットランドに到着した。
 大陸においても、スカンディナビア半島、バルト海沿岸地方が災禍にみまわれたのは、一三五〇年に入ってからのことであった。
 犠牲者はどのくらい出たか。年代記家フロワサールは、三人にひとりという数字をあげている。
 ヨーロッパ全人口の四分の一、およそ二千五百万人と推算する学者もいる。
 地域によって八分の一から三分の二と、用心ぶかくかまえる学者もいる。
 たとえばパリでは、総人口二十万ほどのうち五万の犠牲者をだした。
 ブルゴーニュ地方のある村では六百四十九人が死亡した。
 その村の人口は、千二百ないし千五百ほどであったという。
 また、イタリアのトスカナ地方では、都市人口が四分の一ないし五分の一に減ってしまった。
 イングランドの人口は、一三〇〇年当時、二百五十万ないし四百万と推定されるが、一四〇〇年には、その半分ていどに減少していたと考えられている。
 死神の気まぐれからか、たとえばイタリアのミラノ侯領、南フランスのガスコーニュ地方、フランドルなどでは、被害は少なかった。
 それにくらべ、トスカナ地方、イベリア半島のアラゴン、バルセロナをふくむカタロニア地方、またツールーズをふくむ南フランスのラングドック地方の惨状には、まことに目をおおわしむるものがあった。
 とくに緊密な共同生活をいとなむ修道院の被害は大きかった。
 マルセーユでは、フランチェスコ派の修道士の全員が、ラングドックのモンペリエでは、ドメニコ派の修道士百四十人のうち百三十三人が死亡した。
 とくにドメニコ修道会の組織は壊滅的な打撃をうけた。
 その結果、人員補充のために、教育程度のひくい修道誓願者を多量にうけいれなければならなくなり、学問の中枢、学者の養成機関としての同修道会の機能は、ここにほとんど停止されてしまったのである。
 病魔は、身分位階の高下をえらばなかった。
 アラゴン王ペドロ四世の妃エレアノール、カスティリャ王アフォンソ十一世も犠牲者のうちにかぞえられる。
 そのアフォンソ十一世の息子と結婚するため、カスティリャに向かっていたイギリス王エドワード三世の娘ジョーンもまた、ボルドーでみまかった。
 バルセロナの市参事会員五人のうち四人が死亡し、ラングドックのペジエでは、市政府の行政官全員がたおれた。
 アヴィニョンの教皇庁では、役人の数が四分の一に減ってしまった。
 アヴィニョンといえば、ペトラルカの抒情詩集に歌われた不滅の恋人ラウラもまた、一三四八年の四月、この災禍にあって死んでいる。
 一三二七年、二十三歳の若者ペトラルカは、アヴィニョンのサント・クレール教会で、はじめてラウラの姿をみたのであった。
 そのとき以来、つねにペトラルカの詩想のうちにあったこの女性が、いったいどこのだれなのか、ベトラルカ自身は、ついに明かさなかったのだが、ともかく、彼はペストにたおれた彼女を悼(いた)む弔詩を作っている。
 おそらく、彼女は、アヴィニョンの東南ノーヴの領主の娘ロール(ラウラ)であったと考えられている。
 死神の正体は腺(せん)ペストであった。ペスト菌は、ねずみに寄生する蚤(のみ)が運ぶ。
 三日から六日の潜伏期間をおいて、いきなり、からだにふるえがくる。
 ときには悪感(おかん)をともない、ついで高熱がでる。
 吐き気がし、頭が割れるように痛み、目まいがする。背中、四肢の澂痛にもだえ、意識は混濁(こんだく)し、うわごとをいうようになる。
 目は燃えるように赤く、舌には厚く舌苔(したごけ)がつく。
 だが、以上の症状だけでは、まだ腺ペストとはきめられない。
 腺ペストの決定的症状は、淋巴(リンパ)腺の腫瘍(しゅよう)の発生である。
 ふつう発病二日目に、まず股のつけ根、ついで脇の下に発生する。
 このはれものの痛みは、鋭い刃物で切り裂かれるような痛みだと証言されている。
 やがて全身膿みただれ、耐えがたい悪臭のうちに、患者は確実に死への道をたどる。
 この腫瘍、いわゆる「ぐりぐり」の発生が特徴的であったところから、ペストは、しばしば「ぐりぐり」とか「こぶ」とかを意味する、
 へんな言い方だが、いわば愛称で呼ばれた。
 逆に、「こぶ」と呼ばれた疫病の大流行の報告があれば、まずまちがいなく腺ペストの流行と判断してよい。
 たとえば、十五世紀前半に覚え書きを書き残したパリの一市民は、一四一八年と一四三三年の両度、「ラーボス」と呼ばれた疫病の大流行があったことを報告している。

 一四一八年の「聖母御生誕の日から御受胎告知の日にいたるまでのあいだ」、つまり同年九月八日から翌年三月二十五日までのあいだに、パリにおいては、十万人以上の埋葬者がでたむね当局が確言したと一市民は報告している。
 また、一四三三年の流行については、「一三四八年のそれ以来、これほど多くの死亡者をだし、これほどはびこった悪疫はみられなかった」と、一世紀前の「黒死病」大流行をひきあいに出して、その惨状を強調している。
 なお、覚え書きの、別の個所での証言によれば、当時のパリの人口は「子供をのぞいて」二十万あまりだったそうである。
 「ラーボス」は「こぶ」を意味する古いフランス語で、これは、明らかにパリにおける腺ペストの流行を教えてくれる証言なのである。
 一世紀もたっているのにまだ、とおどろくにはあたらない。
 一三四八年の大流行ほどのものは二度とおこらなかったが、ペストは、その後も断続的に流行をくりかえしていたのである。
 だいたい十七世紀の末まで、死神はヨーロッパから立ち去らなかった。
 有名な例では、一六六四年から翌年にかけてのロンドンでの流行がある。
 総人口四十六万のうち、七万弱がたおれたと記録されている。
 あるいは、一六七九年ウィーンでのそれは、七万六千の犠牲者をだした。
 もちろん、十八世紀に入っても、ときたまの流行はみられた。
 一例をあげれば、一七二〇年、マルセーユに発生したペストは、市民四万と郊外の住民一万をたおしたのである。
 なお、ペストには、ほかに肺ペストと皮膚ペストがあり、黒死病には一部肺ペストもまじっていたのではないかとみられている。
 肺ペストはペスト菌が直接肺をおかすタイプのもので、一分間四十回から六十回のせわしない呼吸と、絶えまない咳きこみ、血まじりの痰を特徴とする。犠牲者は、ふつう三日ないし四日しかもたない。
 皮膚ベストは、ペスト菌がからだの上層部の毛細血管をおかし、敗血症をひきおこすタイプのもので、患者は、まず確実に二十四時間以内に死亡するというおそるべき疾患である。


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