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6-5-4 新法の実施

2023-06-26 02:12:36 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
5 外圧と内争
4 新法の実施

 ある宴に、ふたりの客が招かれた。司馬光(しばこう)と王安石である。
 ふたりとも酒をたしなまなかった。
 宴がはじまると、主人はしきりに酒をすすめる。
 やむをえず司馬光は一杯だけ、さかずぎをとった。
 しかし王安石は、ついに一滴も口にしなかった。
 王安石は、そういう男であった。
 おのれを堅持し妥協をゆるさない性格であった。
 そこを皇帝(神宗)から認められた。
 十一世紀の後半になると、宋朝の財政はしだいに苦しいものとなっていた。
 仁宗のときに、西夏とあらそったときも、財政に大きくひびいた。
 つぎの英宗のときになると、歳出が歳入を大きく上まわった。
 おまけに遼や西夏に対しては、銀や絹など多額の物資を、毎年おくらねばならない。
 財政の赤字は、いよいよ大きくなるばかりであった。
 赤字財政の負担は民衆のうえに重くのしかかる。
 たとえば、茶の専売の利益は、宋朝の重要な財源であった。
 真宗のころには三万緡(びん、一緡は一千文)であったものが、仁宗のときには三十三万緡をこえ、十一倍以上の増収となっている。
 そのころ茶のもっとも重要な産地は長江の下流、杭(こう)州を中心とする両浙地方であった。
 また、身丁銭(しんていせん)という雑税が、いろいろの地方で取りたてられたが、それも両浙地方では、仁宗のころになると、宋初にくらべてほぼ三倍も重くなっている。
 この地方が重要な財源地帯のため、それだけ重税がかかってきたのであった。
 そのため、両浙の民衆のなかには、塩や茶の密売集団に加わるものがあり、反乱をおこすものも目だってきた。
 重要な財源地帯における、このような状況の発生は、宋朝にとって容易ならないことであった。
 そのため仁宗のころから、経費をへらそうと、いろいろの方策が文官からだされている。
 そこでかならず問題になったのは冗官(じょうかい=よけいな役人)、わけても冗兵(よけいな兵)の問題であった。
 宋朝は、いまや外に対する屈辱だけでなく、国内においもて解決をせまられる問題をかかえていた。
 こうしたなかで、英宗のあとには、二十歳という年少気鋭な第六代神宗が即位した(一〇六七)。
 改革の意欲にもえていた神宗は、ときの宰相たる文彦愽(ぶんげんはく)に、こう語った。
 「天下に解決すべき問題は多いが、なによりも重要なのは財政問題である。
 国庫をゆたかにし、軍隊を強くして国境にそなえなければならぬ。」
 しかし大きな改革をおこなうには、政治をまかすことのできる股肱(ここう=忠義)の臣を得なければならない。
 こうして神宗のえらんだのが、四十七歳の王安石であった。
 王安石は、さっそく改革のため諸政策を立案し、次々に実施していった。
 これが「新法」といわれるものであった。
 貧しい農民のなかには、植えつけどきになると、すでに手もちの食糧を食いつぶして、種もみにも困るようなものが多い。そこで富裕な地主層から種もみを借りて、急場をしのぐ。
 その利子は、植えつけから収穫までの期間で六~七割、ときには十割という途方もない高いものであった。
 そのため返済もできず、土地を取り上げられる。
 こうして小農民は破滅に追いやられ、その一方で地主層はますます土地を集めていた。
 こうした農民に、国が二割以下という低利で貸そうとしたのが青苗(せいびょう)法であった。小農民の没落をふせぎ、あわせて国家も、利子の取りたてによって収入をふやそうとする、ふたつのねらいをもっていた。

 おなじ趣旨で、小商人に適用したのが市易(しえき)法であった。
 そのころ「行(こう)」といわれた商業組合を少数の大商人が牛耳(ぎゅうじ)っており、小商人と大商人との関係は、小農民と地主層との関係に似ていたのである。
 こうした新法のねらいは、募役法の採用にもこめられていた。
 一般の人民にとって重い負担であったものに、職役がある(4.4節)。
 破産する家が続出するほどの重荷であった。その職役をやめて、かわりに免役(めんえき)銭を出させた。
 免役の特権をもつ官戸や商人、また寺観(じかん)からも半額の助役(じょえき)銭をとりたて、これらの費用で国が別に人をやとって、職役のしごとをやらせようとしたのであった。
 さらに改革の手は保甲(ほこう)法となって、軍事や治安の面にものびていった。
 十家を保(ほ)、それを五つ集めて大保、さらに五大保を都保というように段階づけた。
 こうしてグループごとに治安の責任をもたせるとともに、農閑期には軍事訓練を義務づけて、軍事力の一部にあてる。
 つまり禁軍の兵士に欠員があっても、補充しないようにした。
 たしかに英宗のころにくらべると、禁軍は十万人ほどへった。
 また、遼や西夏と戦うには、どうしても大量の軍馬が必要であった。
 それを解決するため、農民に国から馬を貸した。
 ふだんは農耕につかい、いざというときには軍馬として徴発する。
 これが保馬(ほば)法であった。
 軍馬を飼育するための国費を、農民に肩代わりさせようとしたものである。
 農民にすれば、国から耕作に馬を貸しあたえられること自体はありがたかった。
 しかし馬は生きものである。病死でもすれば責任をとらされる。
 馬の管理状態の検査も毎年あった。かならずしもありかたいことばかりではなかった。
 改革は、あらゆる方面にわたっていた。
 新法が理想どおりに実施されれば、宋朝の富国強兵は達成されたかもしれない。
 すくなくとも理論の上では、そうであった。
 しかし神宗を後楯(うしろだて)にしてはいたが、中央にも地方にも、新法に反対する文官は多かった。
 王安石の思いどおりに実施はされなかったのである。



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