『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
5 外圧と内争
5 党争の展開
王安石は、江南の出身であった。このころになると、江南出身の文官が、華北の出身者を圧倒するほどに多くなっていた。
ところが王安石の新法に反対する者のなかに、華北出身の長老がいた。
司馬光や、韓琦などである。新法に反対したので、旧法党とよばれた。
新法のひとつに、方田均税法というのがあった。
地主層と一般農民との賦税の負担を公平にしようとするねらいで、おもに華北に実施された。
こうしたところから、新法党と旧法党の争いには、出身地のちがいによる利害がからみあっていたと見られよう、
それでなくとも、官戸はもちろん、大地主や大商人などの富岳層にとって、新法は自分たちの富の集中をおざえるものであった。
文官たちも、もとをただせば大地主の出であり、大商人とは互いにむすんで、利益をむさぼっていた。
旧法党は、さまざまの理由をあげて反対したが、つきつめれば国と民とが利を争うのはよくない、というのであった。
民とはいっても、明らかに富裕層を意味していた。
猛烈な反対のなかで、王安石は一身を堵(と)して争い、新法の実施に全力をふるった。
冨裕層は旧法党の文官とむすび、後宮に働きかけたりして、王安石を追いおとそうと懸命であった。
ついに神宗も王安石を罷免(ひめん)しなければならなくなる。
政権を担当することほぼ十年で、王安石は政界を去った(一〇七六)。
しかし神宗は、その後も新法の政策をとりつづけた。
ともかく新法の実施で、赤字の財政を黒字にかえることができたのである。
この点て新法は一応の戊功をしめした。
こうした背景のもとに、屈辱をはねかえそうとして、神宗はまず南方に、ついで西夏に戦いをいどむ。
しかし失敗した。とくに西夏には大敗であった。
夜半、敗戦の報告をきくと、神宗は憤然として、夜どおしべッドのまわりを歩きつづけた。
敗戦から二年後(一〇八五)、神宗はわずか三十八歳で世を去った。
わずか十歳の哲宗があとをつぎ、宣仁(せんじん)太后が摂政となると、司馬光がむかえられて政局を担当する。
新法は次々に廃止され、新法党の文官はしりぞけられた。
隠退していた王安石は、ただながめているほかはなかった。さびしい晩年であった。
やがて神宗のあとを追うように、かれも世を去ったのである。
司馬光は政権を担当すること、わずか八ヵ月で病死した。旧法党は領袖を失って分裂する。
こののちは出身別に、それぞれ程頣(ていい)・蘇軾(そしょく)・劉摯(りゅうし)らにひきいられ、洛(らく)党(河南)・蜀(しょく)党(四川)・朔(さく)党(河北)にわかれて、政権をあらそうにいたる。
ところが、宣仁太后が没して、哲宗の親政となると、こんどは新法党が政権をにぎった。
旧法党はあるいは左遷(させん)され、あるいは罪を加えられた。
このとき罪せられた旧法党は、八百余人にのぼったという。
しかし哲宗が死んで、二十歳の徽(き)宗が即位すると、神宗の皇后であった向(しょう)太后が摂政して、また旧法党がむかえられる。
ついで徽宗が政治にのぞむようになると、こんどは新法党が採用され、蔡京(さいけい)が実権をにぎるにいたる。
新法党と旧法党の争いは、民衆の生活に直接つながる政策の争いであった。
それが、このようにはげしく変転するありさまでは、民衆はたまったものではない。
宋朝の国力が強化されるわけもなかった。
党争の立役者にしても、いまや范仲淹(はんちゅうえん)に代表される士風は消えうせ、王安石にみられた信念の強さもない。
ただ政権欲をむきだしにしたものであった。
それは蔡京に、典型的にあらわれていた。
司馬光の旧法党が政権をにぎったとき、五日間の期限をきって募役(ぼえき)法を廃止すると、地方に在任していた蔡京は、ひとり期限どおり命令を実行した。
司馬光も「人びとが君のように法を奉じてくれたら」と感心したほどであった。
ところが、徽(き)宗に新法を復活しようとする意向かあるのを知ると、徽宗が目をかけている宦官の童貫(どうかん)にとりいって、名を売りこむことにつとめ、ついに宰相となって新法を実施する。
そのうえ、むすこの蔡鞗(さいちょう)の妻に皇女をめとり、権力をかためようとした。
こうして蔡京は前後四回、十六年間にわたって宰相の地位にあり、権力をほしいままにするのである。
司馬光以下、旧法党の主だったもの百二十人を姦(かん)党とよび、自分でその名を書きつらねた姦党碑を、人目につくように都や地方にたてさせた。
さらに姦党の人びとの書いた文集を破棄している。司馬光の『資治通鑑(しじつがん)』さえ破棄しようとしたが、神宗の序文があるので、ようやく思いとどまったのであった。
5 外圧と内争
5 党争の展開
王安石は、江南の出身であった。このころになると、江南出身の文官が、華北の出身者を圧倒するほどに多くなっていた。
ところが王安石の新法に反対する者のなかに、華北出身の長老がいた。
司馬光や、韓琦などである。新法に反対したので、旧法党とよばれた。
新法のひとつに、方田均税法というのがあった。
地主層と一般農民との賦税の負担を公平にしようとするねらいで、おもに華北に実施された。
こうしたところから、新法党と旧法党の争いには、出身地のちがいによる利害がからみあっていたと見られよう、
それでなくとも、官戸はもちろん、大地主や大商人などの富岳層にとって、新法は自分たちの富の集中をおざえるものであった。
文官たちも、もとをただせば大地主の出であり、大商人とは互いにむすんで、利益をむさぼっていた。
旧法党は、さまざまの理由をあげて反対したが、つきつめれば国と民とが利を争うのはよくない、というのであった。
民とはいっても、明らかに富裕層を意味していた。
猛烈な反対のなかで、王安石は一身を堵(と)して争い、新法の実施に全力をふるった。
冨裕層は旧法党の文官とむすび、後宮に働きかけたりして、王安石を追いおとそうと懸命であった。
ついに神宗も王安石を罷免(ひめん)しなければならなくなる。
政権を担当することほぼ十年で、王安石は政界を去った(一〇七六)。
しかし神宗は、その後も新法の政策をとりつづけた。
ともかく新法の実施で、赤字の財政を黒字にかえることができたのである。
この点て新法は一応の戊功をしめした。
こうした背景のもとに、屈辱をはねかえそうとして、神宗はまず南方に、ついで西夏に戦いをいどむ。
しかし失敗した。とくに西夏には大敗であった。
夜半、敗戦の報告をきくと、神宗は憤然として、夜どおしべッドのまわりを歩きつづけた。
敗戦から二年後(一〇八五)、神宗はわずか三十八歳で世を去った。
わずか十歳の哲宗があとをつぎ、宣仁(せんじん)太后が摂政となると、司馬光がむかえられて政局を担当する。
新法は次々に廃止され、新法党の文官はしりぞけられた。
隠退していた王安石は、ただながめているほかはなかった。さびしい晩年であった。
やがて神宗のあとを追うように、かれも世を去ったのである。
司馬光は政権を担当すること、わずか八ヵ月で病死した。旧法党は領袖を失って分裂する。
こののちは出身別に、それぞれ程頣(ていい)・蘇軾(そしょく)・劉摯(りゅうし)らにひきいられ、洛(らく)党(河南)・蜀(しょく)党(四川)・朔(さく)党(河北)にわかれて、政権をあらそうにいたる。
ところが、宣仁太后が没して、哲宗の親政となると、こんどは新法党が政権をにぎった。
旧法党はあるいは左遷(させん)され、あるいは罪を加えられた。
このとき罪せられた旧法党は、八百余人にのぼったという。
しかし哲宗が死んで、二十歳の徽(き)宗が即位すると、神宗の皇后であった向(しょう)太后が摂政して、また旧法党がむかえられる。
ついで徽宗が政治にのぞむようになると、こんどは新法党が採用され、蔡京(さいけい)が実権をにぎるにいたる。
新法党と旧法党の争いは、民衆の生活に直接つながる政策の争いであった。
それが、このようにはげしく変転するありさまでは、民衆はたまったものではない。
宋朝の国力が強化されるわけもなかった。
党争の立役者にしても、いまや范仲淹(はんちゅうえん)に代表される士風は消えうせ、王安石にみられた信念の強さもない。
ただ政権欲をむきだしにしたものであった。
それは蔡京に、典型的にあらわれていた。
司馬光の旧法党が政権をにぎったとき、五日間の期限をきって募役(ぼえき)法を廃止すると、地方に在任していた蔡京は、ひとり期限どおり命令を実行した。
司馬光も「人びとが君のように法を奉じてくれたら」と感心したほどであった。
ところが、徽(き)宗に新法を復活しようとする意向かあるのを知ると、徽宗が目をかけている宦官の童貫(どうかん)にとりいって、名を売りこむことにつとめ、ついに宰相となって新法を実施する。
そのうえ、むすこの蔡鞗(さいちょう)の妻に皇女をめとり、権力をかためようとした。
こうして蔡京は前後四回、十六年間にわたって宰相の地位にあり、権力をほしいままにするのである。
司馬光以下、旧法党の主だったもの百二十人を姦(かん)党とよび、自分でその名を書きつらねた姦党碑を、人目につくように都や地方にたてさせた。
さらに姦党の人びとの書いた文集を破棄している。司馬光の『資治通鑑(しじつがん)』さえ破棄しようとしたが、神宗の序文があるので、ようやく思いとどまったのであった。