『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
3 クロンウェル登場
一六四二~六〇年にわたるピューリタン革命がはじまったが、あいたたかう国王派と議会派とは、どんな人びとからなっていたか。
同時代人の証言によると、国王派に味方したのは貴族、ジェントルマンの大部分とその下の農民などであり、議会派にはしったのは貴族、ジェントルマンの一部とヨーマン、商工業者などであったという。
そしてイギリスでは貴族・ジェントルマンが一団となって一方の味方につくということはなく、現実には地方的利害とか、親族関係などが大きな役割を演じ、事態をもっと複雑にしていた。
地理的には商工業が発達し、富裕な東部、南部が議会派の、おくれた西部、北部が国王派の地盤となったが、毛織物生産地帯やロンドン、ハル、プリマスなどは議会派に属した。
宗教上では、議会派にはピューリタンが多かった。国王派の大部分は国教に属し、一部にカトリック教徒がいた。
革命の初期は国王軍が優勢であったが、議会軍の劣勢を建てなおしたのがオリバー・クロンウェル(一五九九~一六五八)である。
クロンウェルは自分でいっているように、「生まれながらのジェントルマン」で、ピューリタニズム色のつよいケンブリッジ大学に学び、父の死にあって退学したが、のちロンドンにでて法曹学院にはいった。
結婚したのち、彼は故郷に帰り、父の残した土地の経営に従事した。
このころ信仰の目ざめを体験し、神によって選ばれたものであるという意識をもち、一人のピューリタンとして人生を歩むこととなった。
クロンウェルは開戦とともに議会軍に加わった。
そして東部連合の諸州から、敬虔(けいけん)で献身的なピューリタンのヨーマンを集めて、騎兵隊を組織し、一六四四年七月、王軍を、ヨーク西方のマーストン・ムーアで破った。
この騎兵隊が鉄騎隊とよばれたものである。
しかしはじめ議会派の主導権をにぎっていた貴族は王との妥協を欲し、徹底的に戦うのを回避する傾向があった。
エセックス伯もそうであったし、司令官のマンチェスター伯はいった。
「我々が王を九十九回やぶっても、王はなお王であり、また王の子孫も王となろう。だが王が一回でも我々をやぶれば、我々は首をくくられ、子孫は奴隷とされよう。」
クロンウェルはこういう司令官をいれかえ、鉄騎隊にならって軍隊を改組することに決意した。
そして一六四五年二月、編成されたのが「新模範軍」である。
これはピューリタニズムを精神的支柱とし、革命遂行のため能力本位に編成され、誰でも隊長に任命された。
そしてクロンウェルがその副司令官の地位についた。
新模範軍は一六四五年六月、国王軍をネーズビーの戦いにおいて徹底的にやぶり、二年後、国王軍の本営のあるオックスフォードを陥落させた。
この間、王はスコットランドにはしったが、交渉がまとまらず、一六四七年一月スコットランドは王を議会軍の手にわたした。