『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
2 成祖永楽帝の夢
3 新都の建設
いま、中国の首都をなす北京をめぐっては、遼・宋・金という蒙・漢・満の三民族が、農耕社会の支配をめぐって、三(み)つ巴(どもえ)の合戦を展開した。
そのあと、元・明・清とつづいて、おなじく蒙・漢・満の三民族による中国の支配が、ここを首都としておこだわれる。
それは北風と南風の対決という歴史でもあった。
明初、漠北にしりぞいた北元は、すでに一三八七年から翌年にわたる馮勝(ふうしょう)と、つづく藍玉(らんぎょく)の遠征によってくずれ、元朝の正統たるトグステムールは敗走の途上、王族イェスデルに殺された。
しかし北元はほろびても、なお北辺の脅威はつづいた。
漠北では、あらたな勢力がこれにかわり、大元を継ぐものとして、北辺をおびやかしたのである。
「燕王のある限り、北顧の憂いなし」との言葉は、藍玉の一党を誅したのちの、北辺に対する洪武帝の期待を、端的にしめした実感であったろう。
一三九九年に靖難の師をおこして、一四〇二年に南京応天府で帝位についた永楽帝は、その間、北辺をかえりみる余裕がなかった。
北を征するには、まず国内をかためねばならぬ。
その最大の脅威は、建文帝の治世とおなじく、各地の諸王であった。
削藩策をうけついだことは、当面みずからの帝位を安泰にする急務であった。
しかし、ひとたび削藩に成功したとき、諸王を分封した意図の一つは、うしなわれることとなる。
北辺の防備は急を要する問題となった。
いまや北辺に意をそそぐには、南京応天府はあまりにも南方すぎる。しかも南京は、ある意味では永楽帝の敵地でもありうる。
人心の一新と、みずからの安全と、北辺防備の急務のなかにあって、最良の方策はなにか。
帝の勢力の地盤たる北平に帰ることであろう。
それには首都を北平にうつす必要がある。
遷都の決定は即位の翌年、すなわち永楽元年(一四〇三)にしめされ、北京(ペキン)と改名された。
国都とするには、それにふさわしい威容がともなわなければならない。
まして、そこは北虜たる元朝の旧都である。
北虜に明朝の権威をしめす意味においても、旧に倍する壮大な規模を必要とする。
改名した北京では、大がかりな都づくりがはじまった。
完成をみたのは、十有余年をへた永楽十八年(一四二〇)のことである。翌年(一四二一)正月、新装なった順天府北京では、正式の遷都がおこなわれ、南京応天府は副都とされた。
いまも北京市の姿には、当時のおもかげがのこっている。北京の秋は美しい。
内城の中央に位置する紫禁城の裏には、東西に走る道をへだてて人工の小山があり、景山の名で親しまれている。
この山に足をはこび、頂上に立って四周を見わたせば、その景観は、しばしわれをわすれ方せる。
煤煙にかすむ東京タワーからの展望など、比較の対象にもならない。
ことに南面して見おろせば、眼下には金色にかがやく禁城の屋根瓦が層をなし、とりかこむ木木の緑とともに、すみきった青空と一線を画し、まことに天下の絶景をおもわせる。まさに“北京の秋は世界一”とたたえられるにふさわしい。
禁城の規模も、旧江戸城のおもかげをのこす日本の皇居とは、くらべものにもならない大きさである。
都城の計画も、入念をきわめていた。濠をめぐらした旧北京城そのものは周辺より高く、城内の主要路は、小路のそれより高い。
ひとたび豪雨がおそっても、瞬時にして主要路の雨水は小路に流れ去る。
小路に流れこんだ水は、城外へと流れ出るしくみである。
ただ小路の舗装はわるく、かつては“葫同(ここにいう小路)のぬかるみ”という悪名をとどろかしていた。
細心の注意は、禁城の建物を方さえる一本の柱にまではらわれていた。
朱塗りの太い柱をささえる足もとの石台に、こころみに目をむけてみると、石に密着する木柱の底には、いくつかのふさな穴があり、わずかな隙間をつくっていた。
決して虫くい穴ではない。
あきらかに人為的なものである。
理由は通風であり、湿気による腐蝕をふせぐためのものである。
旧北京城の構成について、くどくど記すのはやめよう。
周到な計画と入念な工事が、十余年の歳月を必要としたことの一端を知れば、こと足(た)りる。
北京は森の都といわれる。
しかし、ふしぎなことに華北の山々には、樹齢が百年をこすと思われるような大樹はなかった。
民間の伝えによれば、むかしは一面に樹木が繁茂していたという。
明代に長城がきずかれたおり、煉瓦を焼くためにみな切りはらわれ、いまの姿になったという。
こうした住民の言葉は、森の都の北京との間に、ひとつのへだたりを思わせよう。