『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
7 バツの大西征
すでに金をほろぼし、東方では朝鮮半島にも攻めこんで、高麗を屈伏させている。
オゴタイにとって、つぎになすべき事業は、さらに西方へ領土をひろめることであった。
クリルタイもヨーロッパへの遠征を決議した。
かくして大規模な遠征軍が組織される。
カンの一族からは、それぞれ皇子たちが従軍する。そして総司令官には、ジュチの次子たるバツ(抜都)が任命された。
総勢は十万をこした。
進撃にさきだって、スパイや斥候(せっこう)をはなち、じゅうぶんに情報をあつめた。
そうして一二三六年の春、大軍は本土を発した。その冬、先鋒はボルガをこえた。
一二三七年、モンゴル軍は疾風のごとく、怒涛のごとく、ロシアの草原になだれ入る。
進むところにある城市は、次々に破壊され、住民は殺された。
きびしいロシアの冬も、川や沼をこおらせて、かえってモンゴル軍の進撃には有利であった。
冬のさなかに、モスクワが落ちた。あくる年の二月には、ウラジミルをおとしいれた。
それより北へ、また西へと進む。いたるところの城市は、廃墟と化した。
全ロシアが、ふるえ、おののいた。
しかも春になって、氷がとけはじめると、モンゴル軍は南へむかう。
ドン川のほとりに達して、ゆうゆうと放牧し、軍馬をやすませた。
パツは、ロシアの草原がすっかり気にいった。
こうして兵力をたくわえること一年余り、一二四○年になると、モンゴル軍はふたたび猛進撃にうつった。
まず目ざしたのが、キエフである。
そこはキエフ大公国の首都であり、その当時(九世紀末以来)における全ロシアの中心であった。
しかし三百年余りの栄華も、モンゴル軍の前にはあえなく崩れ去った。
この年の末までに、モンゴル軍はほとんど全ロシアの都市を、ふみにじったのである。
つづいてバツの本軍は、ハンガリーヘむかった。
ハンガリー王国も、いまや風前のともしびである。
そのころのヨーロッパは、いわゆる中世の封建時代であり、諸国はたがいに対立していて、おそるべき外敵があらめれても、いっこうに協力しようとはしない。
神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝も、ローマ教皇も、口先ではヨーロッパの危機を説くものの、本気になって立ちあがろうとはしなかった。
一二四一年、キエフからわかれた一軍が、ポーランドに侵入した。
クラカウをおとしいれ、神聖ローマ帝国の領内へと進む。
これをむかえうったのが、ドイツとポーランドの連合軍であった。
かくてニーグニッツの郊外、ワールスタットの平原において、四月九日、東西の両軍は大いに戦う。
しかも結果は、ヨーロッパ軍の惨憺(さんたん)たる敗北であった。
広野に臥した屍(しかばね)はその数を知らず、死者の片耳は九つの大きな袋につめ、モンゴル軍が戦利品として持ち去った。
これより同軍はポーランドの各地をあらしまわり、やがて南下して、バツの本軍に合流する。
いまや全軍をあげて、ハンガリーの征服にかかった。
首都のペストをはじめ、モンゴル軍の過ぎるところの城市が、えじきとなった。
ハンガリー作戦がおわれば、つきはいよいよ西ヨーロッパである。
しかして一二四二年にいたって、モンゴル軍はにわかに撤退を始めた。
モンゴル本土において、オゴタイが死去し、その報が、パツの陣営に伝えられたためであった。
オゴタイにさきだって、ツルイも死去している(一二三二)。
したがってジュチの次子たるパツは、いまや一族の最長老であった。
つぎのカン(大汗)位をめぐって、バツとしても大きな関心をいだかざるをえない。
ともに出征していたグユク(オゴタイの長子)、またモンゲ(ツルイの長子)も、本土へむかっている。
この二人は、つぎのカン位をめざしていた。
10 大モンゴル
7 バツの大西征
すでに金をほろぼし、東方では朝鮮半島にも攻めこんで、高麗を屈伏させている。
オゴタイにとって、つぎになすべき事業は、さらに西方へ領土をひろめることであった。
クリルタイもヨーロッパへの遠征を決議した。
かくして大規模な遠征軍が組織される。
カンの一族からは、それぞれ皇子たちが従軍する。そして総司令官には、ジュチの次子たるバツ(抜都)が任命された。
総勢は十万をこした。
進撃にさきだって、スパイや斥候(せっこう)をはなち、じゅうぶんに情報をあつめた。
そうして一二三六年の春、大軍は本土を発した。その冬、先鋒はボルガをこえた。
一二三七年、モンゴル軍は疾風のごとく、怒涛のごとく、ロシアの草原になだれ入る。
進むところにある城市は、次々に破壊され、住民は殺された。
きびしいロシアの冬も、川や沼をこおらせて、かえってモンゴル軍の進撃には有利であった。
冬のさなかに、モスクワが落ちた。あくる年の二月には、ウラジミルをおとしいれた。
それより北へ、また西へと進む。いたるところの城市は、廃墟と化した。
全ロシアが、ふるえ、おののいた。
しかも春になって、氷がとけはじめると、モンゴル軍は南へむかう。
ドン川のほとりに達して、ゆうゆうと放牧し、軍馬をやすませた。
パツは、ロシアの草原がすっかり気にいった。
こうして兵力をたくわえること一年余り、一二四○年になると、モンゴル軍はふたたび猛進撃にうつった。
まず目ざしたのが、キエフである。
そこはキエフ大公国の首都であり、その当時(九世紀末以来)における全ロシアの中心であった。
しかし三百年余りの栄華も、モンゴル軍の前にはあえなく崩れ去った。
この年の末までに、モンゴル軍はほとんど全ロシアの都市を、ふみにじったのである。
つづいてバツの本軍は、ハンガリーヘむかった。
ハンガリー王国も、いまや風前のともしびである。
そのころのヨーロッパは、いわゆる中世の封建時代であり、諸国はたがいに対立していて、おそるべき外敵があらめれても、いっこうに協力しようとはしない。
神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝も、ローマ教皇も、口先ではヨーロッパの危機を説くものの、本気になって立ちあがろうとはしなかった。
一二四一年、キエフからわかれた一軍が、ポーランドに侵入した。
クラカウをおとしいれ、神聖ローマ帝国の領内へと進む。
これをむかえうったのが、ドイツとポーランドの連合軍であった。
かくてニーグニッツの郊外、ワールスタットの平原において、四月九日、東西の両軍は大いに戦う。
しかも結果は、ヨーロッパ軍の惨憺(さんたん)たる敗北であった。
広野に臥した屍(しかばね)はその数を知らず、死者の片耳は九つの大きな袋につめ、モンゴル軍が戦利品として持ち去った。
これより同軍はポーランドの各地をあらしまわり、やがて南下して、バツの本軍に合流する。
いまや全軍をあげて、ハンガリーの征服にかかった。
首都のペストをはじめ、モンゴル軍の過ぎるところの城市が、えじきとなった。
ハンガリー作戦がおわれば、つきはいよいよ西ヨーロッパである。
しかして一二四二年にいたって、モンゴル軍はにわかに撤退を始めた。
モンゴル本土において、オゴタイが死去し、その報が、パツの陣営に伝えられたためであった。
オゴタイにさきだって、ツルイも死去している(一二三二)。
したがってジュチの次子たるパツは、いまや一族の最長老であった。
つぎのカン(大汗)位をめぐって、バツとしても大きな関心をいだかざるをえない。
ともに出征していたグユク(オゴタイの長子)、またモンゲ(ツルイの長子)も、本土へむかっている。
この二人は、つぎのカン位をめざしていた。