カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

6-10-6 オゴタイの遺業

2023-07-28 05:15:19 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
6 オゴタイの遺業

 金をほろぼして、モンゴル帝国の領土は華北の一帯(淮水以北)をも占めるに至った。
 そうして金帝国の故地を、モンゴル人は「漢地」とよんだ。
 そこに住む人々は、すなわち「漢人」であった。
 さて一二三五年(金国滅亡の翌年)、オゴタイは、オルホン川の上流なるカラコルムの地に、壮大な都城をきずいた。
 そこには五百年のむかし、再興した突厥(トルコ)帝国が、有名なオルホン碑文を立てている。
 突厥のあとをうけたウイグル帝国も、この地に首都をおいた。
 そうした古くからの王者の地を、オゴタイも大帝国の中心とさだめたのであった。
 それまでのモンゴル帝国には、首都といったようなものはない。
 カンの宮殿はあっても、それは大きなテントであった。
 金銀でいろどられ、千人もの多数を収容することができたが、ひとつのところに固定されたものではない。
 いっぱんの住居とおなじく、カンのおもむくところに移動した。
 しかし、カラコルムは、城壁をめぐらした大都会である。
 都城の周囲はおよそ三・五キロ、ほぽ四角形のプランをなす。
 カンの宮殿は万安宮とよばれ、中国式につくられた。
 また別に、イラン風の宮殿があった。
 「カンの宮殿をのぞけば、……そこには二つの市区がある。
 一つはイスラム教徒の地区で、そこには多くの市がひらかれていて、たくさんの商人があつまる。
 それは、いつでもその近くにある宮廷のためと、また多数の使節たちのためのものである。
 ほかの一市区は、みな職人であるカタイ人(漢人)のものである。
 この二市区のほかに、宮廷の書記たちの大邸宅がある。…
 この町は土の城壁でかこまれ、それに門が四つついている。……」
 これは、カラコムルをはじめておとずれたヨーロッパ人、すなわちフランスの修道士ルブルク(ギョーム・ド・ルブルク)が記したものである。
 ルブルクは、フランク王の命令をうけて、モンゴルの地におもむき、一二五四年の四月から七月にかけて、カラコルムに滞在したのであった。
 ルブルクにさきだって、イタリア人の修道士プラノ・カルピニ(ジョバンニ・デ・ブラノ・カルピニ)が、一二四六年にカラコルムの近くにまで達している。
 彼はローマ教皇からの使者としてモンゴルをおとずれたものであった。
 それから後も、マルコ・ポーロや、その父たちのように、ヨーロッパ人はさかんに東へおもむいている。
 モンゴルの大帝国ができる前には、とうてい考えられぬことであった。
 それというのも、帝国の領内には、カラコルムを中心として、四方に公道が通じていたのである。
 しかも公道にそっては、一定の距離ごとに「駅」が設けられた。
 公式の任務をおびて往来する者は、この駅を利用することができた。
 そこには舍屋があり、馬がそなえられ、食糧など必要な物資が用意されていた。
 マルコ・ボーロによれば、駅伝のために使用される馬匹は二十万頭、立派な施設をもつ駅舎が一万もあった。
 それも帝国の全域にわたって、ととのえられていたのである。おどろくべき制度であった。
 こうした駅伝が、ひろい範囲に設けられたのも、オゴタイ時代である。
 晩年におよんで、オゴタイは目分の四功と四過(あやまち)を述べている。
 四功とは、つぎの四つであった。

 ① 「父君の高い位について、父君ののちにつとめたること。
 われは、わがジャクト(金国)の民のところに出征して、ジャクトの民を平らげた。
 ② 「つぎに、わが仕事は、われらの使者が道に早く走り、また、用いる品物をはこばせるのに、駅を置かせた。
 ③ 「また、つぎの仕事は、水のない土地に井戸をほらせて、(水を)出させて、国の民を水草にありつかせた。
 ④ 「また諸所の諸域の民のところに、物見(ものみ)やタマチ(駐屯軍)を置いて、国の民の足を土に、手を地に置かせて、住まわせた。」

 オゴタイの事業は、けっしてこれだけではない。
 その治世(一二二九~四一)の最後をかざったものは、実にヨーロッパへの大遠征であった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。