『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
13 ロシアの歴史をさかのぼって
2 妖術(ようじゅつ)師の乱
太陽は空に輝き イーゴリ公はルスの故郷へ帰る
乙女(おとめ)たちはドナウの岸辺で歌い その声は海をわたりてキエフまでひびぐ
(イーゴリ軍譚(たん))
これより約二百年、「陽気なドニエプル」河畔には、キエフ・ルスとよばれるスラブ民族の幻想的な「英雄時代」が展開される。
彼らはまだキリスト教を知らず、古代のギリシア人のように、天地自然の神々を信じていた。
天の神がスバローズ、その息子が太陽神ダーシ・ボーク、雷神がペルーン等々で、森には「一つ目の怪物」がいるし、川や湖の底には「ルサルカ」という妖精がいた。
ゴーゴリの小説にでてくる有名な「イワン・クーパロ」のお祭りは、太陽と火の神にささげられたもので、「真夏の夜」(六月二十三日のイワンの日)に行なわれ、昔は処女を太陽神への生贄(いけにえ)として水中に沈めたという。
のちにこれは藁(わら)人形にかえられるが、この夜は村中が総出で岸辺に集まり、かがり火をたいて、歌にあわせて踊りくるった。
一年中でこの晩にかぎってさまざまな奇蹟があらわれ、水面が緑光を発したり、柏の大木が移動したり、ときならぬワラビが生えたり、そしてこれらの奇蹟を見つけたものは、鳥獣の言葉がわかるようになるともいわれた。
しかしこのような南ロシアとちがい森林と沼沢でかこまれた陰鬱(いんうつ)な北ロシアには、うす気味わるい妖術師が出没した。
彼らは霊感によって神と交流し、その言葉を語ると信じられた。
一〇二四年、スズダリ地方に飢饉がおこると、妖術師たちは「成年の女の体内に食物がかくされている」といいふらし、女の肩を断ち割り、なかから穀物や魚をとりだして見せたという。
そこで人びとはすすんで妻や姉妹を差し出し、ためにたくさんの女が殺されたと伝えられる。
彼らのあとには数百の群衆がつきまとい、それが各地に波及しはじめたので、時のキエフ大公ヤロスラフは軍隊をひきいて、妖術師たちを捕えて火あぶりや遠島の刑に処したという。
ところで初代のキエフ大公オレグ(八八〇ごろ~九二一)の死もこの妖術師と関係がある。
あるとき一人の妖術師がオレグにむかって、
「あなたは、平生かわいがっている馬のために命を失います」と予言した。
そこでオレグは馬丁をよんで「もうこの馬には乗るまい。見まい」といい、殺すにはしのびないので、目につかないところで養っておくように命じた。
それから四年たって、ビザンティン遠征から帰ったオレグは、馬丁をよんで「あの馬はどうした」とたずねた。
「とうに死にました」という答えを聞いて、オレグは大笑いし、「さてもさても、妖術師というやつは嘘つきだ。馬は死んでもおれは生きておるぞ」といい、「どれ、その骨でも見とどけてくれよう」と、すでに腐り果てて骨だけになっている馬の死体のところへ行った。
「この骸骨のためにおれは殺されるというのか!」と笑いながら片足でその頭をこづくと、その中から一匹の蛇がはい出して足にかみつき、それがもとで彼は発病し、まもなく死んだという。
オレグが死ぬと、リューリクの遺児イーゴリ(在位九一二~四五)がキエフ大公となる。
彼は欲が深く、貢納を余分にとりたてようとしたためにドレベリヤン人に殺される。
しかしその妻オリガ(八九〇ごろ~九六九)は、才色兼備の女性で、巧みな計略で見事に夫の復讐をとげる。
「目には目を、歯には歯を」というわけである。
ところでキリスト教の伝来も、この女性と関係がある。
西暦九五五年のこと、オリガはコンスタンティ・ノーブル(現トルコのイスタンブール)を訪問した。
東ローマ皇帝はオリガの美しさに眼をみはり、さっそくプロポーズしたが、彼女はこれには答えず、まず洗礼親になってくださいと頼んだ。
やがて皇帝と総主教の立ち会いでオリガの洗礼が行なわれたが、終わると皇帝はさきの求婚をくりかえした。
そこでオリガは、「洗礼親と洗礼子の結婚は禁じられているではありませんか」とやりかえし、これにはさすがの皇帝も、「オリガよ! あなたはわたしをペテンにかけた」――といって笑い、その機智(きち)にめでて莫大な贈り物をしたという。
このオリガの息子がキエフ大公スビャトスラフ(在位九四五~七三)で、つねに純白のルバーシカをつけ、「その行くや豹(ひょう)のごとし」といわれた精悍(せいかん)無比の武人。
ある日、この母と子はキリスト教について次のような会話を行なった。
母「私は神を知って喜んでいます。そなたもまた神を知れば喜ぶことでしょう。」
子「どうして私一人だけがちがった掟を受入れられましょう。そんなことをすれば部下の親兵団に笑われます。」
母「もしそなたが洗礼をうければ、ほかの者もそれに習うでしょう。」
しかし、息子はついに母のすすめを聞かなかった。
そしてこのスビャトスラフもドナウ地方へ遠征した帰途、獰猛(どうもう)なペチェネグ人に襲われて悲劇的な死をとげた。
キリスト教がロシアの国教となるのは、オリガの孫ウラジーミル大公(在位九七八ごろ~一〇一五)のときである。
「ルスの洗礼」という物語がそれである。